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第1話

久住(くずみ)ナオは、その日ぶらりと出かけた街中で見てしまった。 究極の美──、そう言っても差し支えない男女のキスシーンだ。 まず視線を奪われた。 次に呼吸が苦しくなった。 そして、胸が痛んだ。 2人は街角にあるカフェの横にある、比較的陽射しのある細い路地で唇を重ね合っていた。 誰に見られてもいい──、そんな風に開き直っているように見えた。 それにしても、なんて美しいんだろう。 キスを交わす男女の容姿がそう見せているのもあるだろうが、なんだか映画のワンシーンを切り取ってきたような、美を計算し尽したようなキスシーンだ。 見ているうちに、どんどん切なくなっていく。 キスを交わす男性の方は、ナオの大学の先輩である坂上(さかがみ)幸太郎(こうたろう)だったからだ。 幸太郎はとにかく目立つ。 ハーフではないかと思うほどに彫の深い顔立ちをしている一方で、なかなかに口が悪いからだ。 本人に自覚はないのだろうが、ゼミ内では「残念なイケメン」などと呼ばれている。 とりとめのないことを考えながらキスシーンを陰から見つめていると、ようやく2人は離れた。 何か話しているようだが、ナオの位置からは聞こえない。 しばらく話した後、女性の方が幸太郎をその場に残してどこかへ行ってしまった。 喧嘩でもしたのだろうか、やけに早足で去って行く。 その場に残された幸太郎は、細い路地から見える狭い空をしばし見上げ、やがて路地から出て大学への道を戻って行った。 「し、心臓……口から出るかと思った……」 あまりに綺麗なキスシーンを目撃したせいで、ナオの鼓動は早鐘を打つかのように速まっている。 「あ、そろそろ戻んないと」 実は共同論文の息抜きのためにこうして外に出て来ている。 同じゼミ室で日々論文に励む幸太郎よりも帰りが遅かったら、一言文句を言われてしまいそうだ。 ナオは今一度さっきのキスシーンを脳内に呼び起こすと、切ない胸中でもってその場を後にし、大学へ戻ることにした。 坂上幸太郎がゼミ室に戻ると、中はもぬけの殻だった。 今日は久住ナオと論文作成をしているのだが、当のナオの姿がどこにも見当たらない。 「ったく、サボりかよ……」 そこにバタン──、とゼミ室のドアが開かれた。 簡易応接ソファに座り、その向かいにあるガラスのテーブルに両脚を乗せていた幸太郎は、「ふざけんな」とばかりに入ってきたナオを振り返る。 「どこ行ってた、久住?」 「え、あの……ちょっと散歩に……」 「バカかテメーは?俺が散歩してる間に参考文献探して進めとけって言っただろーが。論文の提出期限分かってんのか?」 この人がさっき街角で美しいキスをしていた張本人だとは思えないくらいに、よく通るテノールで苦言を呈してきた。

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