10 / 111
episode.1-9
柔らかい談笑の背後。
遠くでメインルームのドアが口を開けた。
それから足音と共に、金属が連なりぶつかり合う音が続く。
確認するまでもない。すべての鍵を管理する、此処の責任者に他ならない。
漸く現れた。渉は稚い笑顔を湛え、曇り無いまま振り返った。
「牧…」
前髪に隠れた相貌。
距離を詰め、少年に気が付いて笑う。
多分。
それ、
痛い
メインルームが罅割れた。
笑顔を凍らせたまま、渉は今日も充満する冷気に立ち竦んだ。
気の所為だと目を背けていたが
恐らくこの部屋は、彼が来ると寒い。
「――……」
談笑していた職員の手がするりと離れた。
この部屋のすべての人間が鎧を着込んでいた。
まるで。
まるで堅い守りを固めて、怪物を警戒しているかの素振り。
仄暗いものすら滲む。
それを皆ひた隠しにして、親しげな挨拶を投げる。
唯一踏み出そうとする、自分だけ弾き出して。
「おはよう」
渉は上の空だった。
牧に声を掛けられ、やっと逡巡から摘まみ出された。
「…おはよう」
ぼんやりと形式的な挨拶を返す。
そして言葉を取られ、仕事の段取りを始めた責任者を傍観した。
「今日は残業無しにするか」
「そうだな」
仲の良い職場だった。
少なくとも渉は誇らしく思っていた。
此処で育った家族に等しく、誰が何を考えているかなんて手に取るように知れた。
じっと見詰める先で、2人の青年が恒例をつくる。
数年前の姿がオーバーラップしかけ、接点を失い、枠を外れてフェードアウトした。
「下の連中はどうなってる?」
「ああ、それが…」
崩壊したのは一年前の今日。
10月4日の午後、未曾有の惨劇が起きた。
心と身体に傷を負い、少年も一体どれだけの間、暗闇を彷徨ったのか覚えがない。
けれど全員がまた、此処に戻ってきた。
顔や身体に跡を残しこそすれ。苦しい思いをしながら、誰も欠ける事無く、今日までを再建に費やしてきた。
それなのに。
「…ねえ、牧さあ。今日終わったら」
別に、彼が来たからじゃない
何の話を振ろうが、どんなに懐かしい話をしようが、去年を境に全員がどんな時も。
とっくに消えた傷を庇うみたいに、何時も喉の奥に骨が刺さってるみたいに。
「ご飯食べに行こうよ」
「今日?」
一寸渉の知らない場所に視線を外す。
その仕草を見て、言わなければ良かったと後悔した。
「…最近残業続きだったし、みんな本調子じゃないしな」
休まないと。
何十回と聞いた言い訳を、結局今日になっても使い回す。
了承するしかない少年は、苦し紛れに腹の底で詰った。
(本調子じゃないからって、一体いつまでだ)
一年も経った。
違和感と影は残るも、みなが居る。
乗り越えて、それ以上に、何が必要だと言う。
(良い加減、気にするのやめろ)
自分だけが真に前を向いている。
いつまでもそんな顔をして、いつまでも気にして馬鹿みたいに。
いつまでもぎこちない空気で、いつまでも距離を測って、いつまでも。
いつになったら。
終わってみれば結局、その日も一緒に出かける事は無かった。
定時で職員らは帰路につき、此処に寝泊まりする渉は座り込んで夜を迎えた。
(いつになったらまた、昔みたいに戻る)
取り替えた真新しい机に伏せった。
奥ではきっと、未だ牧が仕事をしていた。
思うに、最も様変わりしたのは彼だった。
自身の在り方も、仲間への接し方も。最たるのは、自分の事を全く話さなくなった。
(みんな弱虫だ)
大人の癖に。
停滞した世界で否定せざるを得なかった。
渉は机に額を打ち付け、視界から今の姿を消した。
それから只管に夢見るのを願った。
楽しかったあの日、柔らかな時間。
この続きにある筈の、未来を重ねて。
next >> episode.2
ともだちにシェアしよう!