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episode.7-1 「A knot comes untied」

「――相模…!起きろ相模!」 思考も四肢も重い。沼に嵌っている様で、一向に動かない。 しかし呼び掛ける声は待っちゃくれなかった。 乾いた音と同時、頬へ熱が走る。鈍い痛みによって、本郷は俗世へ強制的に引き戻されていた。 「…ってえな」 「こんな廃墟でシエスタでもやるおつもりか…?俺はトルティージャは好きですが、そのラテンの怠惰な習慣は吐き気がするんですよ」 コイツは何を言ってるんだ。 勝手に胸倉を掴んでは揺さぶる、萱島の手を億劫に払い、本郷は現在の状況を見回した。 場所は確かに訪れた施設だが、天井から壁から酷い有様だった。 おまけに全身が怠い。何処でもない闇に閉じ込められていた気分だ。 この感覚は知っていた、あの馬鹿が好き勝手に暴れた後だった。 「…何てこった」 「ん?まさか副社長の方ですか?…貴方が自分の罪を悔いようと構いませんが、後にして頂けますか。場が逼迫してるんですよ」 「また殺したのか?そろそろ出頭しようと思うんだが映像は残ってるよな?」 「だから後にしろ…良いですか、もっと奴の存在に疑問を持って下さい」 萱島の言う所が分からず、首を傾ける。 存在と言われても、解離性なんぞ源は精神因子だ。 つまりは心の闇が生んだ歪によって…。 「なあ、死にかけた件が原因で病むなんてあんのか」 「知るか。兎に角彼から伝言を賜ってる、“一連の騒動と俺は関係あるから、お前が手術を受けた病院を洗え”と」 やっと頭が冴え始めたのか、ぼんやりしていた上司が聞き入る。病院を洗えとは。 その知った風な口調も謎だが、あの日手術を受けた中央病院――…即ちP2を調べて、何に繋がるというのか。 「…本郷先生、相模の急な出現…形は違えど俺と同じだ。瀕死の重傷を負って回復したと思えば、突然尋常でない乾きが湧きやがった」 瀕死の重傷。萱島の発した単語に忘れていた箇所を揺さぶられ、本郷はじっと濁った目を仰いだ。 「もしかしたら俺とアンタ、此処の患者と同類のウイルスに罹ってるんじゃ…」 「――…思い出した」 本郷の発言が流れを裂いた。次は萱島が怪訝な色をして、眼下の男を睨め付けていた。 「以前、お前と何処かで会ったかと聞いたろ。会ったんだよ確かに…この街に俺が来て、銃弾を受けたあの日に」 「は…?」 すべての回路が止まる。出会した当日、そう言えば尋ねられた覚えはぼんやりとあったが。 「多分昨年の8月だ。橋の麓でお前誰かを助けたろ」 「8月…8月ってーとあれか…確か大城さんと物件の下見にきて、何かヘリが来たってのに標識みたく突っ立ってる馬鹿が居たような…」 未だ零区が出来て間もない頃。 事務所の移転先を見繕っていたは良いが、孝心会は進出を阻む龍泳会とドンパチになり、深夜に全面抗争に発展していた。 其処へ怒った地主が割って入った。 両成敗とばかりに例のブラックホークで来襲し、上から容赦なく火薬を振り掛け始めたのだ。 萱島は西エリアへ撤退する寸前、ヘリの殺気に気付かぬ間抜けを見た。 しかも呑気に電話なんぞ掛けている。彼の頭上、牙を剥き出した黒鳥が突進するにも関わらず。 多分、今の自分なら有り得ない浅慮をしでかした。 助走をつけたまま突っ込み、相手ごと水中へ引き摺り落としていた。 掃射は結局両者の身体を貫いたが。 「それで結果的に俺は一命を取り留めた。今になって思い出したが、お前はどうやら命の恩人だったって事だ」 「…てっ…めーかこの鳥頭め…良くもまあ目の前であんな平和ボケに立ちやがって…」 「取り敢えず治療費払うから、口座番号教えてくれ」 「ああ?そういう事なら早く…じゃない、そんな場合か!後にしろそんなもん!」 言葉で跳ね除けておきながら、左手はメモ帳に番号を殴り書いていた。忙しい人間だ。 本郷に叩き付けるやその場に仁王立ちする。 罅の入った天井を仰いで、何事か考え込んでいるらしかった。 「…という事は何だ、貴方と俺が手術を受けたのは同日だと」 「そうだ。だからお前や相模の言う様に、P2に目をつけて間違いは無い」 結論を述べ、やっと悠長にしていた本郷が腰を上げた。血塗れの一帯に顔を顰め、スーツを正す。 様変わりした院内を見渡し、どうにか空白期間の回収に務めていた。 「お話しは良く分かりました、今寝屋川隊長は一先ず報告に…」 「寝屋川?」 「クソ面倒臭えな…いや兎に角、そういう事なら行きますよ。説明は車でしますから」

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