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episode.7-9
「電話してくる」
「あ、うん…」
未だ言い足りない事があったのに。
そう顔に書きつけて、背後から何時迄も立ち去るのを眺めていた。
少年を置き去りに、戸和は足早に近場の事務室へ入る。
携帯を探り、痙攣する指で液晶を押さえた。
ピントがまるで合わない。
文字は形を残さず霧散し、肺の動きすら怪しくなってきた。
此処も牧が戻る迄に去らねばならないのに。
早過ぎる症状を殺し、勘だけで回線を繋げる。
床には幾つか汗が滴り落ちた。
『――…ご用件をどうぞ』
「俺だ、話が渡る前に先手を打ちたい。“孝心”なんて付けちゃいるが、暴力団が欲しいのは金だ。長い付き合いでも構わない、示談なら幾ら必要か。総本部長辺りに一度裏から持ちかけろ」
どうにか言い切った青年の手から、支えを失くした電話機が落下した。
閑静な室内、想像以上の音を立てる。
その後を追うかの様に、脚から崩れてその場に蹲った。
未だ駄目だ。
蒼白な顔で鞄を手繰り寄せ、ケースを掴む。
血管を姿の無い怪物が暴れる。叫びを噛み殺して、全身がのたうった。
未だやる事がある。
衝動を理性で封じ、注射器を二の腕へ突き刺した。
つう、と異なる汗が背筋を抜ける。
喚き散らしていた血液が収束し始めていた。
喉元を押さえて喘鳴し、どの位余波に耐えていたのか。
「…戸和?」
ドアの影から覗く存在に、やっと気が付いて視線を上げた。
「どうしたの?それ何…?今、何を注射したの?」
幼い目が慄き竦み上がっている。
肩を震わせながら、小さな口が喘ぐ様に無意味な開閉を繰り返した。
「痛い?いたいの…?」
「渉…」
「ねえ、っ駄目だよ、病院いこう…大変なことになるよ」
怖くて仕方がない様子だった。
それで矢も盾もたまらず縋ってくる少年を、戸和は働かない頭でじっと見ていた。
「なあ、渉」
「…えっ」
必死な肩を掴む。怯えた少年は、一寸身を引こうと縮み上がった。
「お前、本当に何も覚えてないのか」
またその目だ。
病院で会った時からそうだ。真っ直ぐ見透かす様に貫いて、何も知らない自分が恐ろしくなる目だ。
「何…何のこと」
「此処に来る前の事…多分引き出せないだけで、何処かに仕舞い込んでるんだよ」
肩に食い込む指が、熱い。
凡そ人肌では無い、燃える様な体温だった。
「お願いだから思い出してくれ」
「やだよ…ずっと何言ってるの…?わかんないよ、覚えてないこと、聞かないでよ…」
今度は渉の方が必死だった。
明らかに様子の可笑しな相手に、未熟なアイデンティティを揺さぶられる恐怖と、日常が壊れる兆候すら感じて。
食い荒らした後を押さえ、苦悶する瞳の奥が光る。
獣の色に、少年の喉が短い悲鳴を紡いだ。
「頼むお前が少しでも覚えてたら…もしかしたら」
背景は何も動かず黙っていた。
それが突然、けたたましいコール音で両者の会話を断絶した。
渉の身体が大仰に跳ねる。
事務室の固定電話は主任への直通だった。
誰も取るものは居ない。着信は留守電に切り替わり、スピーカーから発信者の割れた濁声が響き渡った。
『――どうもお世話さんです、孝心会の大城ですけど未だ戻られてまへんのかいや?副社長からメールでもうた中間報告の件なんやけど』
電話機を見守る2人はぴくりとも動かなかった。
事情が汲み取れない、渉ですら青い顔をして。
『本人にも社長にも繋がらんけえ、気付いたら折り返したって下さいや。出来ればワシの方に頼んます、若頭もブチ切れてもうて話ならんさかい…何かド偉い事になっとるみたいやけど、黒幕は確定らしいですの』
朗々と台詞を紡いでいた。
壮年の男の声が、突然商売道具のドスを込めた。
『ほんまなら今日明日にでも仕掛けますわ。元よりおまわりなんぞ何も怖ない商売や、関係あらへんわ』
渉は物言わぬ相手を覗き見た。
視線を解さず、青年は立ち上がり鞄を拾い上げた。
『…胸糞悪いシャブ作りよった所長、処刑するまで誰も収まりまへんで』
足取りは不安定ながらも歩き出す。
留守電は背後で事切れ、真の沈黙が一帯を満たした。
最後に何か、渉が呼んだ気がした。
然れどもうひとつも振り向けない、青年は一連の始末をつけるべく部屋を後にしていた。
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