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episode.8-1 「Möbius Loop」

何処だ。 瞼をこじ開けた。5ミリ生まれた視界から、情報を手繰り寄せる。 ピントが合わない。 苛立ち、ガウスフィルターを剥ぎ取ろうとしても。何も見えない。 頭が割れそうだ。 こんな感覚、まるで河漢の底だ。 もう現世でないのか。死ぬのだろうか。 何一つままならない、少年の頭上へ、恐らく人の様な物が影を落とした。 「…もう目が覚めたの」 神さまの声かと思った。 少年――戸和はこれまで無神論を通してきたが、降って湧いた様な柔らかい声質が、凡そ俗世のものでなかった。 「あと1週間は寝ているべきだったよ」 額に彼のであろう手が降りた。 自分が熱を持っているのか、ひやりと肌を覚ました。 「君に色々説明する事があるけど、未だ早い。もう一度導入剤で寝てもら…」 「今で良い」 がっと戸和の手が掴み返した。 自分ですら驚いた。瞼を開けるのも困難な身体が、咄嗟に掠れた声と筋力を捻り出していた。 「…今、教えてくれ」 その縋り付いた手に、彼は逆らわなかった。 徐々にエッジが戻る。 輪郭を掴んだ視界には、眼鏡を掛けた白衣の男が佇んでいた。 「そう…じゃあ始めよう。僕は主治医と君の身柄の引受人でもある。名前は御坂康祐、宜しく」 レンズを隔て、両眼がすっと狭まった。 なんて奇妙な男だ。 安堵と共に、恐ろしい。アンビバレンスを抱かせて思考を奪う。 「先ず、君の容態について話そう」 彼は隣に掛け、カルテを示して説明を加えた。 医者のカルテなんて甚だ理解し難い。 そう計っていた少年は、御坂の出した図表の解り易さに瞬いた。 多分、子供に向けてもう一部書き直したのだろう。 黙ってオリエンテーションを受ける。 ある時、戸和の視線が一所に留まった。 「…この∞ウイルスとは?」 流暢だった御坂の解説も止まる。 どうも肝を突いたらしかった。 様変わりした眼の色に、反射で身構える。 「全て説明するよ」 それが今から約3年前、戸和がプロジェクトへ巻き込まれた嚆矢だった。 要約するとこうだ。 過激派の地下活動家と行動を共にしていた戸和は、捕縛され国営の…少年院とは別の施設に収容されていた。 それが先般、突然妙な研究所へ送られたかと思えば、台に抑えこまれ注射器を刺されていた。 当然反発したが、遅かった。 間を置かず出現した、顕著な異変。沸騰しそうな熱。 体内で暴れ回る狂気に呼応して、何人か殴り飛ばした覚えがある。 それから只管に泥沼の中を漂っていた。 必死に目を開けたら、この男が居た。 説明を請い、今に至る。 「毎日定時に抗生剤が必要になる。ただし症状を抑えるだけで、完全な回復に向かう薬じゃない」 革命家とはいえ14歳の少年だ。 身体に勝手に訳の分からないウイルスを打ち込まれ、怒り心頭に発していた。 必然、目の前の男に掴み掛かっていた。 残念ながら漸く動いた右手だけで。 「…何が主治医だ。この人殺しが」 善人面で実験に巻き込みやがって。 「――そう、この化物を創ったのは僕だ。謝罪はするが綺麗事を言うつもりは毛頭ない。幾ら弁明した所で時間は戻せない、何時だって選択出来るのは先の事だ」 喘鳴していた少年の力が緩んだ。 何だろう、この医者の絶対的に揺らがぬ色は。民衆が祭壇に祀る、天上人みたく。 「君の答えを聞こう、目の前の男を殺して復讐に終わるか」 ジジ、と天井の四隅で何かが震えた。 監視カメラがまんじりともせず2人を囲い込んでいた。 「生き地獄で僅かな光明を捜すか」 固唾を呑む。 沈黙で浮かんだのは、只々純粋な憶測だった。 この男、恐らく自分に投薬を指示した人間でない。 もしそうであれば、手脚を自由に放置などしない。大体経緯を説明する必要も無ければ、研究の肝など先ず開示しない。 「何を企んでる…?お前…」 製作者ではあるが。 今回の件は、寧ろまったく預かり知らぬところで起きたのではないか。 瞬きも忘れて睨みつける少年に、御坂は突然眉尻を下げて微笑んだ。 「…∞ウイルスは元々、体組織再生による回復を目的としていた。否、最終的には“蘇生”だね」 それで温かい手が頭をくしゃりと撫でるものだから、落差に混乱して閉口した。

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