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思い出した。
あれは間違いなく、身も凍る2月の街路。
先に希望なんて無いが
だからと死ぬのも癪だった。
兎に角身を隠す場所を捜し、合わない靴でアスファルトを這いずっていた。
胃もカラで喘鳴し始め、遂に膝をつく。
矢先、俄に頭上を影が覆う。
どうにか首を擡げると、妙な人間が自分を覗き込んでいた。
「よう、若人」
何だコイツは。
御年5歳にして、胡散臭いという表現を知った。
しかめっ面の相手を見て、少年はさも不思議そうに眉を寄せていた。
「おおどうした?さては其処のイタ飯でも食ったな…ありゃ地元でもクソ不味い事で有名でよ。新参よ、やっちまったな」
何もやっちまっていない。
勝手に此方の境遇を決め、納得し出した男に二の句が継げない。
文句も取られた隙に手を引っ張られ、気付けば相手の宿に誘拐されていた。
到着しようが奴がいい加減な飯を用意しようが、その先も面白いように反論出来なかった。
後にそういう人間なんだと分かった。
牧の知る八嶋徹とは、端からそういう男だった。
しかも知れば知る程、本当に頭から爪先までいい加減な奴だった。
給料計算は常にガバガバで端数を繰り上げていたし、近所の川には何故か鮪が泳いでいると言い張った。
唐突に唯物論を語り出したかと思えば、脳筋で数十キロ先も自転車を飛ばしたりする。
更に妙な事に、八嶋の場合突っ込む気も起きないのだった。
それは常に何がどうした?と言わんばかりに、ドヤ顔をしていた為か。
それとも牧の誕生日や好きな物は、ひとつも間違えず逐一覚えていた為か。
「今年はゲーム買ってやるよ」
結局タイトルは的外れの物を買ってくるのだが。
毎年祝われる誕生日に、始めこそ牧は気恥ずかしくて突っぱねていた。
10も近づく頃になれば、何を飽きもせず祝っているのかと口を尖らせた。
そもそも何が目出度いのか。
他人の生まれた日に、どうして八嶋が喜ぶのか。
「分かってねえなあ、お前」
ある年疑問をぶつけてみれば、相手はちょっと小馬鹿にしたように笑った。
そして牧の知らない顔をして、じっと此方を見ていた。
否、知らない訳じゃなかった。
思えば毎年、彼は此方を祝う度に
ともすれば、日常の取り留めもない、
重要でも特別でもない瞬間に、
見上げればいつもその顔をしていた。
牧の知識にもない形容詞で、底にある本意を掴めなくて。
にも関わらず擽ったさを覚える。
余りにも懐かしいその表情、
途方も無く求めたその表情、
それを今になってこの場面に辿り着いて、
自分は何故、唐突に思い出しているのだろうか。
「やあ」
白衣を靡かせる男の目前、牧は屋上で金縛りにあっていた。
過去も、何処を捜しても居なかった。
八嶋の影が何故か、最も憎むべき敵の中に潜んでいた。
風に煽られる一帯。
牧は白昼夢の如き現実に、毫も動けなかった。
ただ感情だけが揺さぶられた。
融解して、堰を失って。
溢れ出た後悔が、次々と片目から伝い落ちていた。
「…返してくれ」
根拠は微塵もない。
だけれども、牧は聡い頭の隅で、この男が仇では無いと悟ってしまった。
それでも謝罪を零す相手に、訳も分からず引き金を引いていた。
弾は逸れ、白衣を僅か裂くに留まった。
「君は何かを分かりかけている」
真相の事だろうか。
混迷する思考で、意図の読めない御坂の台詞を追う。
最早このシーンで、どうして良いかも分からぬ自分を。
研究者の瞳は、果てしなく柔らかにいっそ見守っていた。
「さっきね、あの子が来たよ…君を追い掛けて」
青年は処理出来ない儘、必死に言葉だけを伝った。
「こんな危険な場所に何も持たず飛び込んで。分かるかな。どんな無謀な勇気で、どれだけ君を心配していたか」
分かれないが故、青年は今日の哀しい場所まで来てしまったのだ。
御坂は黙る相手を前に、ただ微笑んだ。
君が気付くのに、未だ遅いなんて事はないのだから。
「大丈夫、何時だって引き返せるよ」
この世界には数えきれない繋がりがある。
繋がっているからこそ、絡まって解けない結び目が生まれる。
君が走り、その糸はあらゆるものを巻き込み、時に絞めて意図せず殺し。
君が走り、複雑に絡む度に君自身も縛られ、もう微塵も身動きが取れなくなる。
どうすればいいか。
君をあらぬ方角へ惹きつける、憎しみを勇気で絶つしかない。
誰かを愛する心に比例して、憎む心は強くなるが。憎しみを消したからと言って、決して愛が薄れる訳じゃない。
「君は恐れてはいけない、自分を許す事を」
八嶋徹の居ない世界を受け入れた、自分を責めてはいけない。
「君が救えるのは死んだ人間じゃない、生きた人間と君自身だ」
絡まって苦しいのならば。自分を繋ぐ糸を冷静に見詰める。
そうすれば気づく、君を愛している、必要としている人。
「…幸せになりな。誰も怒りやしないよ」
そう言って牧の手前、御坂は自身の銃を構えた。
何かを慈しみ抜いた目が、今度こそはっきりと八嶋と重なる。
自分を護り、最後に飛び込んだ。
目を見開き、形のない息を吐く。
この数秒が、果てのない永遠に感じた。
逸脱した屋上の世界、二発目の銃声でそれは唐突に、膠もなく終わりを迎えていた。
互いだけが知っている、零区内戦の最後の真相。
御坂康祐は恐らく、自らの存在を絶ってプロジェクトを根絶しようとした。
牧は今日まで片時も眠らず、彼が間際にくれた言葉の意味を考え続けていた。
幾つもヒントを貰ったに関わらず。
内側の溶け切らぬ牧の心は、未だ理解に到達出来ずに居る。
然れど頭の端には、確かに渉が引っ掛かっていた。
それから千葉が、自分を終わりまで見捨てなかった上司が引っ掛かっていた。
(俺は、戻りたいのか)
あれから逃亡した牧は、別れを告げる様に移転前の事務所を訪れていた。
結成初期のRIC跡地は、尚もテナントが入らず伽藍堂だった。
いい加減行かなければならない。
執着を払い、打ちっ放しのコンクリートから立ち上がる。
そうだもしかすると、御坂に相対して八嶋を見つけた様に。
あの時彼が何を考えていたのか、どんな想いを抱いていたのか。
感じ取れる年齢に向かえば、自分の知り得なかった、新しい彼に会えるのかもしれない。
牧は西日の差し始めた廊下を過ぎ、部屋を後にした。
その時背後で突然、割れた硝子を踏み抜く音がした。
咄嗟に壁に身を隠し、臨戦態勢を取る。
息を殺して覗き込んだ先、想像だにしない顔が陽に照らされていた。
「おい、銃を降ろせ」
非常に聞き慣れた声だ。
だがしかし、直前まで敵対していた声だ。
「話がしたいんだ」
耳を疑ったが、言う通り彼は手ぶらで距離を詰めてきた。
構えていたSMGを降ろし、牧は呆然と気配を待ち受けた。
今直ぐ眉間を撃っても不思議でない男が、もう殆ど目と鼻の先まで近づいている。
殺す目的でないなら、何故自分を捜していたのか。
幾分落ち着いて思考し、じっと黒く浮かぶ双眼を探る。
答えは直ぐに現れた。
彼の目は、もう怒りを含んではいなかった。
「…なあ、牧」
コイツは勿論、御坂の遺体も確かめたのだろう。
そうすれば、結末の引き金も理解した筈だ。
「教えてくれないか、アイツの最後を」
懇願を受け、牧の表情は見る見る透明になっていた。
そうか彼が自決を選んだことで。
一つの未来が確実に方角を変え、繋がる未来を転換したのだ。
銃を肩に担ぎ直し、自然と了承を呟いていた。
今なら同じ地に立てるやもしれなかった。
考えていた内容は奇遇にも、戸和も同様だった。
初めて互いを理解しようと見合わせる。
2人は何方ともなく橙の階段へ歩き出し、行き先を同じくビルを後にしていた。
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