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第1話

 目の前で、男が喘いでいる。  見間違いか、そうでなければドッキリか。吉崎東児はそっと目を閉じ、瞼の上から多少乱暴に目をこすった。 「っ、ぁ、お願い、鍵、取って」  喘ぐ男の幻は消えてくれはしない。それどころか、吉崎に懇願してくるのだ。 「鍵、お尻に、入ってるの……んっ、取って」  いつも通り大学の講義を受けて、裏庭の隅にこっそり停めてあった自転車を取りに来ただけだ。  その大事な愛車を迎えに来てみれば、下半身をさらけ出してシャツ一枚をしどけなく羽織った男が、両手を手錠で縛られタオルで目隠しをされ、自転車のすぐ側の木にもたれかかって喘いでいたのだ。  ――悪夢だ。 「ね、早く……」  消え入りそうな男の声は、けれど明らかに欲情の色を持っていた。そして悪夢というのはそう簡単に消えてくれるものではないらしい。  いっそ無視して立ち去ろうと思った吉崎の視線に飛び込んできたのは、愛車から伸びる硬質の鎖……嫌な予感にかられながらその先を追うと、なんたる事か男の両手を戒める手錠へと繫がっているのだ。  つまり。吉崎の自転車にこの男はつながれているのだ。そして男が先ほどから口にしている鍵、というのは手錠の鍵という事らしい。  ――それが、どこにあるって? 「や、もう、イきたいっ、早く、これとってぇ!」  男の喘ぎは更に盛り上がって、吉崎の混乱も最高潮になる。 「鍵、取ればいいのか?」 「うん、ここに、ぁっん」  男が地面に膝と縛られたままの手をつき、四つん這いに這った時、吉崎はもはや何が何かわからなくなった。  未知との遭遇もいいところだ。混乱する頭のままで手を伸ばすと短い尾のように、そこからはゴム製のものが垂れていた。どうやらコンドームの中に鍵を入れ、それを尻に入れられているらしい。 「わああ、マジかよ」  目を閉じてゴムの端を強引に引くと、するりとそれは抜けた。頭の中でクラッカーの弾ける音がする。 ――よくやった、よくやったぞ俺!  「ほら、これ」  男の白い尻を直視しないように目をそらしつつ背を叩くと、男は身を震わせて今度は両手を差し出してくる。 「鍵、開けて、お願い」  男の癖に、妙に艶っぽいのはどういう訳か。いや気のせいだ、動揺しすぎておかしくなっているのだ俺は、と一人言い訳をしながら、震える指でなんとか鍵を開けた。  今度こそ胴上げでもしてもらいたい気分だった。頭の中で見知らぬ人たちに囲まれ拍手喝采を浴びている空想に浸っているうちに、男は苦しげに身をよじって立ち上がる。だいたい、何故こんな目にあっているのだろう。  ようやく落ち着きを取り戻しながら、吉崎はそっと頭を掻いた。 「あー、その、大丈夫か?」 「え?」  男はびくりと肩を揺らし、慌てたように目隠しを取る。その目をまともに見てしまい、吉崎は大きく口を開いてしまった。 これまでは、なんとなく意識的に顔をじっくりみないように視線を逃がしていたが、吉崎はこの男を知っている事に気づいてしまったのだ。  普段は眼鏡をかけて前髪を下ろしているから、眼鏡をはずして前髪を上げている今と印象は違うが、間違いない。 「う、そ。みなみ? 三並良?」 「っ! 吉崎っ」  同じ高校出身で今は同じ学部。関わりはないが、時折、何か言いたげに吉崎を睨むから、もしかして嫌われているのかもしれないと思っていた。とにかく地味で大人しく目立たない存在、それが三並だった。  それが、だ。  赤く染まった頬に、このあられもない姿。驚くなという方が無理というものだ。  三並は明らかに動揺していたが、乱れたシャツの前をかき抱いて大きくかぶりをふる。 「っふ、ぁ、も、お前、どっか行けよ!」 「いやでも、お前、大丈夫か」 「んっ、頼む、も、イきたいから」  声に快楽が滲んでいる事になど、気づきたくなかった。これは、同意の上で行われている迷惑な「プレイ」なのだろう。  ――服剥いて手錠で放置って、どんだけSなんだよ。 恐ろしい女もいるものだ。何にしろ、これ以上関わりあいにならない方がいいのは目に見えている。  吉崎に見られている事は分かっているだろうに、三並は欲望を吐き出したいのか、止めることなく下半身に指を絡ませていた。 「んっ、んぁ、いく、イっ、く」  やけに妖艶な声が耳を揺らし、吉崎は我にかえった。このまま呆然と同級生の自慰を見つめても、自分には何の得にもならないはずだ。慌てて自転車に乗ると、声も掛けずに立ち去った。

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