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第2話
あれはなんだったんだろう。
講義室でぼんやりと視線を走らせてみると、斜め前では見慣れた姿の三並が真剣な様子で教授の講義を受けている。
さえない眼鏡でシンプルなシャツに色の薄いブラックジーンズ姿は吉崎の知っている三並そのものだった。数日前に見てしまった痴態を窺い知るような雰囲気はどこにもない。
――夢、じゃねえしなあ。
それは間違いなく現実の出来事だったのだ。
三並は講義が終ると誰よりも早く講義室を出て行く。その瞬間、確かに目が合った。何か言いたげな鋭い視線は、けれどすぐにそらされた。その後姿を見送りながら、吉崎は小さく息をついた。
「なんだよ、溜息なんて珍し」
隣に陣取っていた小林が茶化すように吉崎の肩を叩いたが、取り繕う笑みを浮かべるだけで精一杯だ。
「あのな……もしもさ、もしもなんだけど。お前、知り合いのヤバイ姿見たらどうする?」
「んー、別にいいんじゃねえの? 仲いいヤツがヤバイ事に手出してたら止めるだろうけど。そうじゃないヤツだったらそんなの本人の自由じゃん」
小林のあっけらかんとした言い分に、吉崎は少しだけ心が軽くなった気分だった。
――そうだな、そんなの三並の自由だし。
どえらい姿を見てしまった事はもう忘れてしまうに限る。もともと、三並とは普段から交流が多いわけではないのだ。
「うっし。調子戻ったわサンキュ」
「なんのなんの。今日もバイト?」
「おお、苦学生は大変なんだよ」
「また飲みに行くわ。頑張れよ」
小林に、おう、と手を上げて吉崎も講義室を出る。今日も居酒屋でバイトなのだ。早く帰って準備をしなければならない。
この間の件があってから、自転車はおとなしく自転車小屋に止めていた。
バイトは週に六回だ。夜は居酒屋で、時間が空いているときはアパートの大家の手伝いをしている。
吉崎の実家はいわゆる大家族というやつで、吉崎はその長男だった。明らかに裕福でない家庭なのだが、教師になりたいという吉崎の夢をかなえるために両親は大学に入れてくれた。もちろん、それに胡坐をかくわけにはいかないので、できる範囲はバイトでまかなっている。
大家はその事情も知っているので、小さなアルバイトという形で力仕事などの声を掛けてくれた。結果、吉崎はかなり助かっていたし、忙しく過ごす日々は実家の賑やかさから離れた寂しさも消してくれた。
そんな訳で、今日もいそいそと居酒屋のバイトに向かった。
店ではフロアと、状況によっては皿洗いもする。今日は休日前の夜という事もあって、客も多かった。そんな中で、吉崎は見知った顔を見つけて、思わずげんなりしてしまう。
――げ、三並。
大学からはかなり離れた居酒屋なので、知り合いがくる事はまれだ。それなのに、よりによって三並とは、と吉崎は頭を抱えたくなった。
昼間に小林と話した事で少しは三並を意識しないようになれたかと思ったが、そう上手くはいかないらしい。
せめて三並が気づかなければいいと思ったが、三並の連れに呼ばれてしまった。内心で眉をひそめながらも、慣れた営業スマイルで席に寄ると案の定、三並は吉崎に気づいて目を見開いた。
「いらっしゃい」
小さく呟くと、三並も小さく会釈を返した。
「君、このメニューだが」
吉崎を呼んだ三並の連れも、どこかで見たような顔だった。
――誰だっけ、このおっさん。
おっさん、とは言っても三十代後半くらいなのだが、確かに見覚えがある。向こうは吉崎に覚えがないのか、特に気にする様子もなく注文をしてくる。三並は顔をふせて、もう吉崎を見ようとはしなかった。
――なんだよ、変なやつ。
「吉崎君、五番テーブル!」
苛立ったような先輩の指示に従いながら、時間を過ごすと気づいた時にはもう、三並の姿はなかった。
戦争のようなバイトを終えて、ぐったりしながら店を出たのは十二時過ぎだった。
「疲れた……」
思わず呟くほどに、今日はやけに疲れた。
いつもなら大通りをゆっくりと自転車で帰るのだが、今日は少しでも早く帰りたいと、近道ができる公園を横切ることにする。ここはデートスポットになっていて、いつもなら通らない。しかし今日は本当に疲れている。自転車で飛ばせば、周りも気にならないだろうと公園に踏み入ると早速のベンチで仲むつまじくあれやこれやしている姿とぶつかる。
――マジでもうホテルでも行けよっ。
恨み言を唱えながらも、少しでも人気のない方向を選んでいるうちに、明らかにあやしい茂みに近づいてしまった。
――こういう場所が一番やばいって。
猛スピードで去りたい所だが、オシャレな石畳風にしているせいで生憎道が悪く要安全運転だ。
「んっ、あっ」
茂みから零れた声は、やけにハスキーで……いや、むしろもっと低い。
――男同士かよお!
否応なしに、先日の三並の声を思い出した。
――待て、本当にこの声……。
頭に焼き付いて離れない、鼻にかかった声は聞き覚えがある。
――嘘だろ。
まさか、また、三並の濡れ場に行き合わせる事になるなんて。しかも相手は男だ。
「あっ、や、痛いっ」
「そんな事言って、こういうのが好きなんだろうが」
罵るような男の声に煽られるように、三並に似た声がいっそう甲高く鳴いた。
早く去らねばと思うのに、何故か吉崎は足を止めてしまう。男の声が冷淡だった事も気になったし、あの三並をこうも変貌させている相手を知りたいという妙な好奇心もあった。
「じゃあな、しばらく忙しいから連絡してくるなよ」
まるで吐き捨てるような声と共に、茂みから男が姿を現し、吉崎は慌てて顔をそむけた。横目で見た男の姿は、さっき居酒屋で三並と居た男だった
――うえ、ビンゴ。
そんな気がしていたとはいえ、この茂みの向こうであれこれしてたのが三並だと思うと、気が重い。この前の事からすぐなのだ。これではまるでわざと見ていると思われてもおかしくはない。無視して帰るか、とも思った。
けれど、相手はさっさと帰ったのに、未だ茂みの向こうでは動く気配もない事がどうしても気になった。この前の事といい、さっきの男の態度といい、それは愛し合う営みとは別世界の事に感じるのだ。
――くっそ、これも乗りかかった船か。
一人ごちながら、吉崎はそっと茂みに手を伸ばした。がさ、という音に明らかに驚愕したような雰囲気が伝わってくる。
「あー、三並?」
吉崎がそっと呼ぶと、益々動揺したのだろう、軽い悲鳴が聞こえた。
「う、っわぁ」
「あーその、悪いな、たまたま通りかかったんだよ」
姿の見えない三並に声を掛けると、声は返ってこず、代わりのように鼻をすする音が聞こえた。
「三並、泣いてるのか?」
「う……ほっといて、くれ」
その声は間違いなく三並のものだった。ほっとけと本人がいうのだから、それがいいはずだ。吉崎とて、そこまで面倒見がいい方でもない。それなのに、どうしてか放っておける気がしないのだ。
「悪い、そこ行くぞ」
「えっ、やめ」
抗議は受け付けなかった。茂みに身を入れると、大きな木の幹にもたれかかった三並がしどけない姿で座り込んでいる。乱された服を慌てて整えてはいるが、白い肌はうっすらと灯る街灯の光に暗く輝いているようだった。
その顔には涙の跡がある。
「……彼氏、先帰ったのか」
「ああ、いつもの事だから」
いつも。いつも、あんな乱暴な仕打ちをされているというのだろうか。
「お前、趣味悪いんじゃねえの」
「っ、大きな世話だ」
「そりゃそうなんだけど。こんな姿で放っておけるわけないだろうが」
吉崎の言葉に三並はハッとしたように自分を見下ろしてから、小さく背中を丸めた。
「大丈夫だ」
「あのな、そんな格好で歩いてたら職質されるぞ? いいから、早く用意して立て」
「吉崎?」
「俺の家、近いんだよ。風呂くらい貸してやれるし」
「っ、いい。そんな事、できない」
「この間といい、これも何かの縁なんだろ。早く帰りたいから、さっさとする」
――そういや、見たことあるんだよな、あの顔。
どこでだったかと首をひねる間に、三並はなんとか通りを歩けるくらいの格好にはなった。
「ほら、ついて来いよ」
「……何で、そんなにしてくれるんだ?」
どうして、それは吉崎が自分でも首を傾げてしまいそうになる疑問ではある。
「ほっとけないだろ、普通は」
ただ単にそれだけの事なのだ。
「お前は……そういうヤツだよな」
三並はそのまま黙ってしまい、なんとなく吉崎も黙りこんだまま夜道を歩いた。
いつもより道のりを長く感じながら、ようやく部屋に着いたときには妙に疲れていた。
「ほい、どうぞ」
ワンルームの狭い部屋だが、物が少ないので人一人呼ぶくらいは難ではない。まだ遠慮しているのか、三並は玄関で突っ立っていた。
「ほら、入れって」
電気をつけて明るい所で見ると、シャツの汚れと眼鏡の汚れが気になる。
――こんなにして放って帰るなんて、マジでろくでもねえな。
「吉崎、シャワー……」
「あ、そうだな、こっち」
シャワーへ案内して三並の姿が見えなくなると、吉崎はなんとなく息をついた。むかむかする。男同士であんな事して、という嫌悪感がないわけではないが、それよりも三並の扱われ方が酷すぎて頭にくるのだ。好きでやっている、いわゆるプレイならば吉崎がどうこういう事ではないだろう。
――でも、あいつは泣いてた。
さっき声を掛けたとき、三並は泣いていたのだ。同意でなければ、こんなのはただの暴力にすぎない。ぐるぐると考え込むうちにしばらく時間がたっていたらしい。
「あ、吉崎」
耳触りのよいアルトの声で呼ばれて、跳ね上がりそうになった。
「おう、服、悪いな俺ので」
「いや、ありがとう……」
こざっぱりとした三並は、シャワー上がりだというのに、もう眼鏡を掛けていた。吉崎の貸したTシャツに身を包んで、気まずげに目を伏せた三並はどこからどう見ても、普通の男だった。
――そんなヤツに酷いことしやがって。
思い出したらまた苛立ってしまい吉崎は慌てて頭を振った。
「何か飲むか?」
「いや、いい。俺に構わなくていいから。もう帰るし」
「泊まっていけよ。布団くらい貸すし」
「っ、駄目だ、泊まるなんて――お前は明日も忙しいだろう、ゆっくり寝てくれ」
三並は小さく頭を下げると、本当に出て行こうとするから、思わずその腕を掴んで止めてしまう。
「痛い」
「あ、悪い。けど、もう今日はお前もゆっくりした方がいいんじゃねえの? いいから泊まれよ」
「でも、明日もバイトあるだろ?」
「なんだ、良く知ってるなあ。まあ、俺、ほとんどバイトしてるからな」
「知ってるよ、お前の事は」
どこか妖しげに笑って、三並はそっと吉崎の手を払いのける。妙に儚げで、手を離すのが怖いと思った。
「あーじゃあ、せめてメシに付き合えよ、俺まだなんだ」
「……何、食うんだよ」
どうやら付き合ってくれるらしい。
「適当なのだぞ。んー、チャーハンくらいしかできねえか」
「作れるのかお前」
冷蔵庫から、卵とネギとハムを取り出して、卵を三並に渡した。
「何だ?」
「割って。もしかして出来ないとか?」
「卵くらい割れる」
ネギをカットして、フライパンで香ばしく炒めると、三並はどこか興味深そうにそれを見ていた。
「三並、自炊しないのか?」
「うん、ラーメンくらいしか作れない」
「チャーハン簡単だから覚えろよ。っつっても、俺の適当だけど。ネギとハム炒めて卵流し込んで、そん中にメシ入れて炒めるだけ」
吉崎が説明しながら工程を進めるたびに、三並は感心したように相槌をうっていた。
やがて、シンプルなチャーハンが出来上がる。
「すごいな」
「いや適当だし。食う?」
れんげですくって三並の前に差し出すと、微かに戸惑いをみせながらも、三並はおずおずとれんげに口をつけ、吉崎を見つめた。
「美味しい!」
まるで見た事もない程に、くったくない笑顔を浮かべて、三並はもう一口とねだった。
「そうか、よかった。良かったら食えよ。俺また作るし」
そのまま吉崎は、もう一人前のチャーハンを作り、三並は静かにそれを食べている。
――今なら、聞ける気がするな。
思い切って、切り出す。
「三並、お前、なんであんなヤツと付き合ってんの」
「そ、そんな事、吉崎には関係ないだろう!」
「そりゃそうだけど……いや、俺にも関係あると思うね、あんなトコばっか見せられて。助けてやったろうが」
三並は何か言おうとしていた言葉を飲み込んだのか、唇を噛みながら眼鏡越しの上目遣いで吉崎を睨んでくる。吉崎も負けずに睨み返し、少しの間張詰めた空気が流れた。
それを崩したのは、三並の方だった。
「何で、そんな事、聞くんだ」
「何でってお前辛そうだから。あんな奴やめとけよ、趣味悪いぞ」
「お前に言われる筋合いはないだろう! 俺はゲイなんだよ、貴重な同類なんだよ、お前らみたいに、すぐ別の相手を見つけられるわけじゃないんだ、そう簡単に別れられない」
三並の怒声は、けれどどこか悲鳴にも聞こえた。
大きな世話なのはわかっている。ゲイの事情なんか知らないし、知りたくも無い。もうこんなやつに構うな、と頭の奥の方で理性という冠をつけた自分が叫んでいるのはわかっていたが、それでも。
――放っておけるかよ。
親しくは無かったけれど、やたら目だけは合った。高校の頃からずっとだ。気になる存在だったことは否定しようがない。
「お前があいつを好きなのなら、何も言わないけどな、泣いてたじゃないか」
「それでもっ! 俺にはあの人が必要なんだよ。それに、ちゃんと声は好きだから」
「声ってお前……俺にはお前がいいようにされてるように見えるけど。あんな奴でも、必要なのか?」
「だって……一人になりたくない」
それは、一瞬聞き間違いかと思うほどに微かな声だった。けれど、確かに吉崎の鼓膜を揺らす。え、と聞き返す暇もなく、三並はドアを開け放って飛び出していった。
追いかけようかと思った足は、鈍く一歩前に出ただけで、それが吉崎を冷静にさせてくれた。別に追いかける必要などない。三並とは特に深い付き合いでもない、たまたま乗りかかった船だしと構っただけなのだから、これで関わるのを止めてしまえばいいのだ。
それでも、最後の言葉は気になった。
「わっかんねえな、あいつ」
何かはらんでいるように、時々じっと見つめられる視線を思い出して、吉崎は頭をかいた。もう関わらない方がいい、また頭の奥で理性の声がした気がするが、吉崎はそれをぼんやりと聞いていた。
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