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第3話
次に顔をあわせたのは、数日後だった。いつものようにシンプルなシャツと飾り気のないジーンズ、見慣れた三並の姿だ。いつもと違うのは、吉崎に声を掛けてきた事だが。
「あー、これ、ありがとう」
差し出された紙袋には、吉崎が貸したTシャツが綺麗にプレスされて入っていた。
「わざわざクリーニング出したのか? 悪いな」
「いや」
三並はそのまま、別の席へと座ろうとする。咄嗟にその手首を掴んでしまったのは、自分でも説明できない衝動だった。
「な、に、吉崎?」
「いや、あー、ここ空いてるぜ、座れば?」
「いい、他も空いてるから」
冷たくあしらわれて、少しムキになる。
「いいから座れって」
強く手を引いて隣に座らせると、三並は眼鏡越しの責めるような視線で吉崎を睨んだ。
「何だ、急に」
何だと問われても、吉崎は答えを持っていない。ただ、もう少し話したいと思っただけなのだ。気になっている、それはもう間違いのない事実だった。
――仕方ないよな、あんなの見せられちゃ。
三並が男の恋人に大事にされていないのは確実で、知ってしまったのだから助けてやるのが人情に違いない、そう自分に言い聞かせて、無理矢理納得する。
――これは良心なんだ、うん。
「吉崎、もう行っていいか」
三並は考え込む吉崎を怪訝そうに見つめてから、小さく息をつく。
「手、離してくれ」
そういえば掴んだままだった手首を離そうと思ったが、そのタイミングで教授が室内に入ってくる。が、見慣れた白髪姿の教授ではなく、年若い男がマイクを取った。
「今日は先生が急用なので、代わりに助教授の橋口が担当します」
吉崎の手の中で、三並の手首がびくりと跳ねる。
「おい、こいつ」
吉崎は目を細めて三並に視線を送った。
目の前で講義を始めた橋口は、三並と飲みに来ていたあの男だった。
「助教授かよ」
確かに見たことがあるはずだと、吉崎は内心で舌を打つ。あんな事をするやつが、同じ校内にいてまして助教授だなど、信じたくないくらいだ。
苦々しい気持ちで講義を聞いていた吉崎だが、隣の三並がかたかたと震え出したことに気づいて首を傾げた。
「おい、どうした」
「なんでも、ない」
そんな事を言いながら、三並は苦しそうに浅く息を繰り返している。
「っふ……」
微かな声を漏らして、三並は机に突っ伏した。その手が何か救いでも求めるように空を掻き、吉崎の腕に触れると、ぎゅうと握り締めてくる。まるで縋られているようで、心臓が跳ねた。
「み、三並?」
「よし、ざき」
まるで吐息のように呼ばれたかと思うと、三並はおもむろに立ち上がり、ふらふらと講義室を出て行った。助教授の橋口はそれをちらと見たが、何も言わずに講義を続けている。
――あいつ、今、笑わなかったか?
三並を見送る橋口の口の端、微かに笑みが乗っていたのを吉崎は見逃さなかった。
――またあいつ絡みかよ! くっそ。
そっと立ち上がると、橋口の目を盗んで講義室から出た。三並の姿を探すと、ちょうど廊下の角を曲がった所で見つける。
「三並」
「っ! 吉崎、なんで」
「具合悪そうだから大丈夫か?」
「も、ほんとに、ほっといて、くれないか」
三並は浅く息を繰り返している。その目尻が赤くて、苦しげな表情に、吉崎はやっと気づいた。
――こいつ、発情してんのか?
だとすれば、橋口のせいなのだとすぐに分かってしまい、やたらと苛立つ。
「おい、お前」
耳元でわざと息を吹くと、三並は弾けるように顔を上げた。
「も、離せ!」
吉崎の手を払って三並は近くのトイレに飛び込む。それを追って、逃げ込んだ狭い個室に滑り込む。
「おい、出ろよ」
「お前っ、何かやられてんのか?」
思い出すのは、自転車に括りつけられ、あられもない姿で放置されていたこと。
「あっ、んっ、やだ、出て行ってくれ」
あの時は尻に鍵を入れられていた。
頭に血が昇っていくのを感じながら、吉崎は三並のジーンズに手を入れる。
「嘘、だろ、吉崎っ」
「今日も、何か入れられてんのか?」
「や、やだ、馬鹿、触るな、ぁっ」
下着の中に手を入れて、尻を探ると、細い紐のようなものが指に触れる。
――嫌な予感しかしない……。
引き返すなら今だと思ったが、その瞬間に橋口の笑みを思い出して、舌を打った。まるで、お前には出来ないだろうとでも言われている気分だった。意を決して、その紐を引くと、三並が背中から跳ね上がった。
「ああっ! いや、吉崎、勘弁、してくれ」
吉崎の肩に縋りついた三並は、聞いた事もない程に甘い吐息を漏らしていて、頭がくらくらする。嫌だと言いながら、まるでもっと深い快楽を求めているかのようだった。
「ちょっとは我慢しろ」
そのまま、紐を強く引く。
「あっ、あっぁ!」
ずるりと、何かが抜けた感触は、前に鍵を引き抜いた時とはまるで違う圧力だった。つまり、きっと、それなりの質量も持っている。
「なんだよ、これ」
「……っ、どうして、お前っ、こんな事!」
「それはこっちの台詞だ。なんで、あんな奴の言いなりなんだよ、どうせこれもそうなんだろ?」
ズボンから手をはずし、抜きだしたものは、予想どおりピンク色をした小ぶりのローターだった。こんなものを仕込んで講義を受けていたなんて、信じられないし、橋口に怒りを覚えている。具合が悪そうなのは、これを動かされたからか。
「なに、遠隔操作とかできるやつ?」
ローターを床に叩きつけて、三並に顔を寄せると、苦しげに呻いただけだった。
こんな事までさせるくせに、一人は嫌だから別れられないというくせに、三並は酷く苦しそうだった。それが吉崎には我慢ならないのだ。
「お前が幸せならいい。でも、そんな辛いならやめろよ」
「っ、俺がどうだろうとお前には関係ないだろう。もう、ほんとに構わないでくれ」
「じゃあ、もう見るなよ! お前、ずっと俺を見てただろう、あんなに見られたら嫌でも気になるんだよ!」
何かを含んだような、熱い視線。意識せずに居られるほど、吉崎は大人ではない。
「気になるんだよ、お前が」
三並はまるで重大な秘密を暴かれたかのように呆然と立ち尽くしているところを見ると、あの視線は無自覚だったのだろう。
そして、その意味がわからない程、吉崎は子供ではないのだ。
「何、お前、俺が好きなの?」
「なっ!」
馬鹿な事を言うなと、怒られるかと思ったが、三並はただ赤くなって立ち尽くしている。そしてそれは、吉崎の言葉を肯定しているのだと思わずにはいられない。
「まじかよ」
「違、違う、そんなんじゃない、たまたまだ」
狭い個室で追い詰めると、すぐに体が触れ合う。それに息を飲んで顔をそらす三並は、まるで知らない男のようで、吉崎も微かに怯んだ。
その時、だった。
ぱたぱたと駆け込んでくるような足音が聞こえ、思わず息を飲んだ。個室には鍵をかけていない。三並の服はまだ乱れたままで、床にはローターが転がっている。こんな場面を見られたら、言い訳も思いつかない。
背中に冷たい汗をかく吉崎と身を固くする三並のいる個室前を足音は過ぎ去って、別の個室に入ったようだった。ほっと息をつく二人の耳に、この場所に似使わない声が微かに聞こえた。
「もう先生、こんな所で」
それは可愛い女性の声だったのだ。ここは男子トイレだ。そして、女性の言った言葉の意味……。三並と顔を見合す吉崎だったが、続いた男の声で眉をひそめることになる。
「悪い悪い、ちょっと苛々しててね」
それは、紛れもなく橋口の声だった。いつの間にか講義が終る時間になっていたらしい。それにしてもだ。
――なんだよ、変態助教授め、女がいるのかよ!?
三並は知っているのだろうかと顔を窺うが、すぐに俯いてしまったのでよく見えなかった。
そのまま、橋口と女性は黙り込んだが、変わりに衣擦れの音やがたがたと何かにぶつかる音がする。
何をしているかなんて、考えるまでも無い。
――くそ、まじであいつ最低だ。
三並にあんなことをしながら、自分は女性とこそこそ楽しんでいるなど、納得いくわけがない。
まだ俯いたままの三並の腕を引くと、そのまま抱きしめた。三並はびくりと肩で跳ねたが、おとなしく吉崎の腕におさまっている。それが妙に嬉しくて、吉崎はより強く抱きしめる。
どれくらいそうしていただろう。
やがて、奥の個室が開く音がすると同時に、女性のくすくすと笑う声が、吉崎のいる個室の横を通りすぎた。
「じゃあ、また今夜」
橋口の声とともに、トイレには人の気配がしなくなった。楽しむだけ楽しんで、上手く抜け出したのだろう。
「三並」
耳元でそっと囁くと、ん、と力ない返事が聞こえる、
「大丈夫か」
「ああ」
三並はようやく吉崎の胸を押し返して、その腕から逃れた。柔らかい感触と、温かい体温が離れることを少し惜しく思いながら、吉崎は息をはく。
「あいつ、最低だな」
「そういう人だ」
傷ついているかと思った三並は、それでも思ったより平然としていて、驚いた。
「なに、お前、もしかして知ってたのか? 女がいること」
「まあな」
「知って……。お前、一人になりたくないとか言ってたけど、絶対あいつよりマシな奴いるだろ?」
「……同類探しは、この田舎では難しいんだ」
三並はどこか諦めたように笑うから、吉崎は益々分からなくなった。
――好きでたまらないから、酷い仕打ちに耐えていたわけじゃない、そういうプレイが好きなわけでもない、相手にしてくれるから、って。
「訳わかんねえよ。だったら、相手にしてくれるなら誰でもいいって事かよ?」
「そうじゃない、もういいだろう?」
三並は吉崎の肩を軽く叩いて、個室を出ようと背を向ける。華奢な肩だとぼんやり見つめると一緒にキッチンに立った時の事を思い出した。
――楽しそうに笑ってたな、あの時。
こんな事がそんなに楽しいのかと、嬉しくなるくらいに。
知らず、その肩をつかんで引き寄せていた。
「吉崎っ!?」
「俺じゃ、駄目なのか」
「は……」
「お前、俺をいつも見てただろ、俺が好きなんじゃなかったのか?」
「それは、もう、忘れてくれ」
三並は所在なさげに目をそらし、何度も大きく首を横にふる。こんなに、儚げなやつだたろうかと、吉崎は喉を鳴らした。自分がおかしい事は、どこかで自覚している。
――でも、このまま、こいつをほっとくなんて、やっぱできねえ。
乗りかかった船、それはつまり、運命にも似ているのではないだろうか。引き寄せて抱きしめると、三並が切なげにうめく。
「嫌っ、こんな事、するな、よ」
「俺も、嫌だ。お前を、あんな変態のとこに戻すなんて我慢できねえもん」
力づくで抱きしめると、またびくりと跳ね上がる。
「なあ、三並。本当に、嫌なのか?」
「――っ……そんなわけ、ない、だろう」
それは、ともすれば聞き流してしまいそうになるほどの囁きだった。けれど、吉崎にはしっかりと聞こえた。それで充分だった。
「俺が、好きなんだろ?」
「お、お前の方が、あの人より性質悪いぞっ、くっそ」
華奢な肩から続く骨が浮いていそうな背中を指でなぞると、甘い声が零れた。
「っふ、ぁ」
「あんなすごいことするくせに、こんな事でも感じるんだな」
「そんなの、お前が」
「俺が、相手だからか?」
悔しそうに顔をそむけた三並の頬骨の辺りはうっすらと赤く、白い首もほんのりと色づいている。
酷く、心地よかった。
――こいつ、そんなに俺が好きなんだ?
途端に、腕の中の男が愛しい存在に思えてくる。
「なあ、あいつと別れろよ」
「そんな急に」
「なんだよ、未練があるのか? あんなやつに。一人が嫌なら俺が居てやるから」
吉崎の言葉に、三並ははっとしたように顔を上げ、はじかれるように吉崎を突き飛ばした。そのまま、個室から飛び出していく。
「おい!」
「お前じゃ、駄目なんだよ!」
その意味を考えるうちに、三並はもう去ってしまって、慌てて廊下に出た時には姿が見えなくなっていた。
狭い閉鎖された空間から外に出ると、ふと頭が冷静になる。
――俺は、何を言ったんだろう。
もしかしたら、一種独特な空気に流されたのかも知れないと思ったが、まるで狙ったように窓から見えた橋口の姿に、やっぱり腹が煮え繰り返る。
――もう絶対、あいつの好きにさせねえし。
この想いが何なのかなんて、もうこの際なんでもいいと思った。
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