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「柚木って彼女居るの?」  肩に重みがかかる。岡嶋が顎を乗せたのだ。 「嫌味か。知ってるだろ」 「俺を好きなこと?」  心臓が、飛び出るかと思った。たが、僕の顔を覗き込む目が笑っていたから、ああ、いつもの冗談だと気付き、僕は、務めて友達の顔を作る。 「好きだよ。普通に」 「普通に」  普通に、とオウム返しをして岡嶋の顔をのけ、腰を上げる。波に足を付けると、青い光が一層強くなる。 「そろそろホテルに戻ろうか」  僕が云うと、岡嶋は一気に飲み干したビールの缶を、アウトドアチェアの肘掛けに置き、ふちを人差し指の先でなぞった。 「ホテルってエロいね」 「酔ってる?」 「かも」  手を引いてやるべきなのか。立つ気配がない。酒に強い岡嶋が酔うなんて、珍しいこともあるものだ。 「寝るのか、岡嶋」 「うん、寝たい」 「ここで? ホテルで寝ろよ」 「柚木エロい」 「お前ね、置いてくぞ」  アウトドアチェアに深く腰掛け、項垂れるように俯いて、呼びかけても返事をしない岡嶋は、本当に寝てしまったのか。 「岡嶋、起きろ」  惚れた男の顔を叩かせるなんて、罪な奴だ。軽く頬を平手で打つと、岡嶋がその手を掴み、顔を上げた。  目が合った。酔ってなどいない、素面の、そして見たことのないくらい真剣な眼に捕らわれる。刹那、岡嶋の息が唇に触れて僕は上半身を引いた。  心臓が早鐘を打つ。乱れた脈の音がうるさい。岡嶋が、何か云っている。 『気持ち悪い』  先日見た夢が蘇り、恐怖が嘲笑いながら首筋を撫でた。  ああ、僕はまた、大切な友達を失ってしまうのか。  ふっと、目が眩んだ。  落ちていく――深い、深い、真っ暗な闇の底へ。沈んでいく僕を、岡嶋の声が引き上げた。 「柚木!」  水のはねる大きな音がして、上がった飛沫が火の粉のように、波が引いたあとの濡れた砂浜に落ちる。 「やっちまったなあ」  気付くと僕は尻餅をついていて、上に乗った岡嶋が濡れた髪を掻き上げて笑った。 「手」僕の手を掴んだままの大きな手を見る。「離せば良かったのに」 「一蓮托生て云っただろ。嫌なら柚木が離して。俺からは絶対に離さないよ」  ロマンティックな景色がそう思わせるのか。深い意味など無いはずの言葉に期待してしまう。岡嶋は、ただ、優しいだけなのに。  今、口を開いたら気持ちが溢れてしまいそうで、俯いて唇を噛み締め、岡嶋に、暗くて見えないだろうがそんな表情(かお)を見られないよう、寄せる波に顔を逸らした。  転がっていたトマトジュースの缶が掬いあげられ、青い海に引き込まれていく。僕のこの恋心も持って行ってくれたら、どれだけいいだろう。  波の音だけが静かに聞こえる。そこに、岡嶋の声が入る。 「お前さ」  顔を上げた。見上げる岡嶋につられて空を見る。 「俺が幻想を抱きすぎって云ったけど、違うよ」  星が流れた。今、願い事をするなら、岡嶋と友達のままでいられますように、か、それとも、岡嶋と恋人になれますように、か。どちらでもない。岡嶋と一緒に居られますようにと願うだろう。 「覚えてる? 大学の歓迎会の、居酒屋で。お前、1人だけトマトジュース飲んでてさ。先輩にビール勧められて困ってたみたいだから、俺がレッドアイ作ってやったの」  覚えてるよ。忘れるはずがないじゃないか。  岡嶋の横顔に、心の中で呟いた。 『レッドアイ。すっきりしてて飲みやすいよ』  先輩に飲めと押し付けられたビールと僕が飲んでいたトマトジュースを取り上げて空のグラスに割り、そう云って寄越してくれた岡嶋に、僕は恋をしたのだから。 「柚木、美味しいって、ひと口しか飲んでないのにもう顔真っ赤にしてさ、笑ったろ。以来お前の顔がちらついて離れなくなって、どんな女の子と話したり食事したりキスしたり、エッチしてても考えてしまうんだ、柚木なら――て。無意識にお前と彼女を比べてたんだろうな。それじゃあ誰と付き合っても長続きしないはずだ」だって……と、岡嶋の顔が僕に向いた。 「俺は多分、柚木、お前が普通にじゃなくて好きなんだ」  いつもの冗談と取るには、岡嶋の眼は、目が合ったあの刹那と同じ、真剣で、真っ直ぐに、僕を見ていた。 「一目惚れ、だったんだと思う」  僕の頬を軽く撫でる指。その手を握って、僕も好きだと云いたい。星に届くくらい、初めて逢った日から今まで、これからもずっと、岡嶋が好きだと叫びたい。でも、僕は岡嶋の手を払った。   「だめだよ、岡嶋。『多分』や『だと思う』じゃあ、だめなんだ」  俺も、ほたるのこと好きかも。キスしてみようよ。  そう云って、友達だった彼は、キスのあとに気持ち悪いと去ったのだ。 「僕は、友達の岡嶋を失いたくない」 「恋人の俺は要らないの?」  問いかけに僕は首を激しく横に振る。そして、食ってかかるように云った。 「欲しいよ勿論。恋人になれるなら、それがいい。でも、岡嶋はゲイじゃないだろう? キスをしたり、いざセックスをしようってなったとき、やっぱり気持ち悪いと思うかもしれない。そうなったら、きっと、もう、僕たちは友達としてすら一緒に居られなくなる。それだけは嫌だ!」 「じゃあ、誓うよ。この海に誓う。星が証人だ」  岡嶋は突然立ち上がったかと思うと、僕の手を引いて海に入り、空に向かって叫んだ。 「俺、岡嶋直人は、柚木ほたるが汚くて臭い屁をこいても変わらぬ愛を誓います」  静かな海に声が響く。  呆気に取られて見ていた僕は、振り向いた岡嶋に「どう?」と訊かれ、思わず失笑した。 「なんだよ、それ」  笑っていると大きな手が頬に触れ、いつの間にか流れていた涙を拭う。 「いい? 柚木」  不安が消えたと云えば嘘になる。でも、それ以上に岡嶋のふざけた誓いを信じようと思った。  僕は頷く代わりに目を閉じた。岡嶋の呼吸が近くなり、唇がそっと、壊れものに触れるように優しく重なる。  ゆっくり離れて息を吐くと、その胸に掻き抱かれた。 「ああ、やっぱり俺、ほたるちゃんが好きだ」  僕をぎゅうっと強く抱きしめて云った声は、岡嶋はどこに行ったと思うほど惚気けている。 「ほたる?」  あ、と小さな声を漏らした岡嶋。しまったと悶えんばかりに僕の首筋に顔を埋め、観念したように溜め息を吐いた。 「名前聞いてから、可愛いなって、心の中でずっとそう呼んでた」  岡嶋って、結構デレるタイプなんだ?  好きなもの、好きなこと。僕の知らない岡嶋を知れば知るほど愛おしくなって、今また、もっと愛しくなった。  広い背中に手を回し、僕より一回りは大きいその躰を抱く。 「僕も直人が好きだよ」  案外自然と出てくるものだ。意識しないようにずっと名字で呼んでいたけど、その必要がなくなったから、箍が外れてしまったのか。 「普通に、じゃなくて?」 「普通にじゃなくて!」  額をくっつけて笑い合い、そのまま見つめ合う。そしてキスをした。今度は、さっきより長く、深く。  汗に混じった岡嶋の匂い、肌に触れる体温――10年分の想いが溢れたキスは、レッドアイの味がした。

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