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第1話

 固く閉ざされた鋼の扉の前で、俺はふうと一息つくと改めてネクタイを締め直した。今日の取引相手がこの扉の先にいる。そして、ここから先は俺の一世一代の勝負にもなる。そう確信していたから。今では肌になじんだ重い腕時計を一瞥し、時間を確認すると既に約束の時間の数分前だった。時間になれば勝手に入ってくれ、そう伝えられていたはず。ドアノブに手をかけてそのまま引こうとするが、それは今まで開いたどんな扉よりも重かった。  まるで、こちらに来るな…とでもいうように。 「…あれ?もう来たの?早いねぇ。  ……ああ、そうか。君ってそういえば日本人だったっけ。どうりで」 「…!」  薄暗い部屋の中から、涼やかな男の声が響く。けれど音自体は美しいはずなのに、妙に首筋に絡みつくような、嫌な心地の話し方だ。思わずうなじを撫でながら、一層居心地の悪さが強くなった足元を見下ろした。そこから、右、左…どこを見ても居心地が悪い。いかがわしい占い師の店にも似た内装は、いかにも高級そうな調度品や装飾品で統一されているのにそれを照らす明かりはなんとも頼りない。全て間接照明頼みなためか、部屋の上半分は真っ暗な闇で塗りつぶされて、吸い込まれそうな闇が溜まっている。  そして部屋の最奥に置かれた大きなベッド、その奥から先ほどの男の声は聞こえたようだ。 「まあ、いいや。…ふふ。呼びつけたのは僕だものね。約束通り話を聞こうかな…。アサト」  ベッドの天蓋から垂らされた布、その隙間からすらりと2本の脚が覗いた。その光景にどきりと心臓が跳ねる。腿、肩、背、と徐々に露わになる男の姿に息を呑んだ。見られることを厭わないのか、一糸纏わぬ姿で立ち上がった彼は、今まで見てきたどんな生き物より…美しかった。 金糸のような髪、陶器のような肌とはまさにこのことか。 まるで…神の寵愛を受けていると証明するかのような恐ろしい美しさだった。 目が、離せない…。 「それで」  気付けば彼はどこからか差し出された服を身に纏わせて、眼前のソファに腰かけた。 「面白い取引を持ってきてくれたって聞いてるんだけど、本当かな?僕飽き性だから、手短に話してよ。大事な日課を中断してるんだ。それに見合う話じゃないとね、セールスマンくん」  どうぞ、と装飾された長い爪で目の前のソファを促され、会釈を挟んで腰かける。対面からじっくりと眺めた彼は、その相貌も、瞳の色も、この世のものとは思えない端麗なつくりをしている。思わず、背筋に鳥肌が立った。 「…ええ。では本題から。  例の…仲買人を通して一度お伝えた内容ではありますが、現在私が所持している宝石を購入して頂きたくお伺いしました。その…ええと」 「京介、でいいよ」 「ああ…はい。京介…様。…は、その…、美しいモノをお探しになられていると紹介を受けたので…。  …美しく……所謂……いわくつきのものだとなおよい、と…」  そこまで話すといかにもにっこり、という様子の笑顔を見せられ、先を促された。導入はまずまずのようだ。 「私が所持している宝石は…通称、”メドュサの瞳”と呼ばれるものです。ご存知でしょうか?」 「ああ、知ってるよ。最近ね。…というか、仲買人の彼に教えてもらったのだけど。  よくある類のものだよね。持ち主を殺すとか、呪うとか…。話としては三流だと思うけれど、最近は特に退屈だから色や形が良ければ買ってもいいかなと思って」 「…はあ…」 「そうだ、アサトが気に入るなら買ってあげようか?どう思う?」  ちら、と彼が部屋の奥に視線を送ると、ゴツンと重い靴底の音が響いた。衣擦れの音ともに闇の中から出てきた男は、彼に負けず劣らず異様な容姿をしていた。黒ずくめのコートやブーツ、手袋…やたらに着込んでいるくせに、胸やら腹は露わになっていて、ハッキリ言って妙な服装だ。決して美しいとは言えない面立ちには不機嫌が浮かんでいて、じろりと攻撃的な視線が無遠慮に向けられた。  その瞳の色だけは美しいが、今にも噛みつかれそうな敵意に肚が冷える。 「俺には必要ない。…お前が決めろよ」 「ふふっ、君は宝石って柄じゃないか。でもアンバランスな感じがいいんじゃない?ピアスなんかにしたら、揺れて…とても…魅力的だと思うけどなあ」  アサトと呼ばれた男に視線を定め、何かを夢想するように彼は目を細めた。いやに熱っぽい色を持った視線は男の耳元に注がれ、そしてそれを辿るように長い指先が伸ばされる。  …気味が悪い。  そう感じたのは俺だけではなかったようで、アサトとかいう男もその指先が耳朶を撫でた瞬間、チ、と小さく舌打ちをした。 「俺が決めることじゃない」 「それもそうだね」  ニヤ、と満足そうに彼の口角が持ち上がり、先ほどまでの張り付けたような笑顔にじわじわと感情の色がにじみ始めた。だがそれは…良いモノだとはどうも思えない…邪悪なものだった。それすらも、今まで見たことがないような…悪意だとか、邪心だとか、そういう類のものだと確信できた。それを恐ろしいほど整った相貌が表すのだから、直視することも憚られた。  目の前の光景を避けるように視線を落とすと、子どもをからかう大人のようにくすくすと愉快げな笑い声が耳に届いた。 「…ねえ、それって今どこにあるの?今日は持ってきていないんでしょう?」 「え…、あっ…と、その……」  取引の先を促され視線を彼に戻した矢先、飛び込んできた光景にぎょっとした。  京介の指先が、アサトの耳朶を滑り落ちて、首筋を、鎖骨をなぞって、やがて細くくびれた腰を撫でた。まるで手形のように刻まれた刺青のある脇腹を見せつけるように満足そうに撫でたあと、明らかな意図をもって自らのほうに引き寄せた。 「…今日、は、お持ちしていません…。お話がまとまってから…と」 「ふふ、そうだよねえ、当たり前だよね。ごめんね、意地悪しちゃった。君って真面目そうだから、からかい甲斐がありそうで。  …でも、いいよ。取引の話進めてもらって」 「…あ、はい…」  京介の行為の意味は、俺も、誰よりもアサトも明確に感じ取ったのだろう。ちら、とこちらに緑の光が一瞬だけ寄越されたが、諦めたように小さなため息と共に引き寄せられるまま京介の膝を跨ぎ、身体を寄り添わせた。するすると瞬く間に肩や腕から服を剥がされ、漸く今、ああ、なるほどと彼の異様な服装に合点がいった。そんなこと、察したくはなかったが。アサトのうなじや背中に残された色濃い情事の痕が、この光景の異常さを際立たせていた。  立ち居振る舞いから用心棒か何かだと勘違いしていたが、どうやら彼は… 「お話ばっかりだと飽きちゃってさ。いいよね。話ならこのままでもできるし。それで、代金は何がいい?お金…でも…だったらわざわざ僕に売らないでしょう?…あの仲買人は意外と…そう、親切だから」 「ええまあ…」  このまま話を続けるのかよ…と、呟きたい気持ちを抑えて咳払いを一つした。アサトのほうを見れば、彼は最早俺のことは忘れることにしたのか、その無骨な容貌からは想像できないくらい、甘く、柔らかい手つきで京介の頬を撫でている。しなやかに反らされた腰を何度も掌で探り、好色な笑みを浮かべた京介が胸元や首筋の肌を唇で堪能したのち、ふっくらとしたアサトの唇を吸ったまま、さも上機嫌な様子でこちらをじっと見つめてきた。 「っ……あなたにしか用意できないものを……用意、して、いただきたくて…」 「ふぅん?」  確かにあの仲買人は外道ではあるが、僅かばかり親切心は持ち合わせているようではあった。俺の望む物を提供できる相手は知っているが、正直、やめておけ、と少なくとも3度は言われた。  危険すぎると。    彼が知る連中の中でも、別格だと。  嘘か誠か、奴は人間じゃない とも。  だがそれでも、どうしても手に入れたいものがあった。いくら危険でも、これに縋るしかないのだ。むしろ人智を越えた何かが確かにあるのだとしたら、例の宝石を手に入れた時点で最早俺は災厄に纏わりつかれている。そもそも、こんな取引を思いつく時点で、俺だって十分にイカれてるんだ。  後戻りなんてできない。 「……貴方は……どんな病も…傷も…治すことができる、と、お聞きしました」 「………」 「それが…どんな方法かはわかりません…が…。  ……治してほしい人がいます。……できますか?」  アサトの口内で遊ばせていたのだろう舌先をそろりと引き抜いて、それは糸を引きながら弧を描く彼の口元を這った。その時の表情はまるで……獲物を見つけた獣のようですらあった。たった一瞬、ほんの1秒にもはるかに満たない時間に見えた光景なのに、恐怖心がざわざわと騒ぎ立てて、今にもここから逃げたいと本能が訴えていた。だけれど情けないことに膝がガクガクと震えて、たとえそれを実行できたとしても腰がぬけて動けなくなってしまっていただろう。…元より、逃げ出すことなんてできるはずもないが…。 「…うふふ…そう。なるほどねえ。だから僕なのか。合点がいったよ。  確かにそれはお金じゃ買えないものね。ただ…いくら僕でも死人は蘇らせることはできないんだけど…それは知ってるよね?」 「…はい。存じております…」 「じゃあ、いいよ。それでいこうか。どういう形がいいのかな?…何か、持ち運べるようにして渡せばいい?薬とか」 「……?…ええ…では、それで」  京介の言っている意味は正直よくわからなかったが、形なんてどうだっていい。それが、事実であれば。正直あらゆる傷や病を治せる…だなんて、眉唾としか思えない。だけれど、それに縋るしかもう、道はない…。金なんて惜しくない。最初から無理だ無理だと繰り返す連中に注ぐより、幻想に縋ったほうがましだとすら思えているのだから。  そしてようやく…ここまでたどり着いたのだから。 「でも…そうだね、君はそんな幻みたいな話に縋るなんて切羽詰まっているのだろうし。というか何よりこういうことで騙したりっていうのは僕の美学に反するから、こうしようよ。  君の言う”メデュサの瞳”っていう宝石は、一対の物なんでしょう?だったらさ、まず片方の宝石を薬と交換しよう。薬が手に入ったら、君はすぐにそれを試せばいい。効果が本物だとわかってから、残りの片方を僕に渡してくれればいい。…どうかな?」 「…え…?いや…いいんですか…?」  確かに薬の効果が本物かどうかなんて、使わなければわからない。ただのビタミン剤を渡されて騙されるなんてこともあるだろう。だが、それでは片方の宝石を俺が持ち逃げしてしまったっておかしくない。親切すぎる取引だ。伺うように京介のほうを見ると、装っているのか本心なのか無邪気ともいえる笑顔でまた、にっこりと笑って見せた。 「もちろん。僕が提示した条件だもの。…それに、君はまじめで懸命だと見込んでいるから…僕を裏切ったりしないでしょう?何より、今はとても気分がいいしね」 「はあ…」  それは取引の話なのか、この状況の話なのか。都合がよすぎるのが逆に恐ろしい。うまく運びすぎて、全く現実感がなかった。 「じゃあ…それでお願いします」 「ん、いいよ。じゃあ、また連絡するから。連絡先は変わらず、でいいんでしょう?」 「はい…」  そこまで言うと京介は軽く頷いて見せ、あとはこちらになんて興味はないようだった。おそらく例の大事な日課とやらに夢中になりたいのだろう。低く唸るような声で不機嫌そうだったアサトは、今では信じられないくらい甘い吐息を吐いて肌を上気させていた。京介が上機嫌に話をしてくれたのはこの男の手練によるものでもあるのだろうかと、すっかり出来上がったような横顔に視線をやると、射殺されるかと思うほど鋭い瞳で睨まれてしまった。彼のためにも、何よりこれ以上こんなものを見せつけられないためにも、早々に退散したほうがよさそうだ。不快だし、不気味だ。 「ふふ、君も一緒に遊ぶ?こう見えてアサト、とっても上手なんだよ。試してみない?」 「いえ…それでは、また」  そう口にして立ち上がるころには、膝の震えも治まって、平静を取り繕うことができた。ペットの自慢でもするような口ぶりでおぞましい行為に誘われては、最早たまらず逃げ帰りたい気持ちが勝ってしまって、扉まで進む足取りは不躾にもやや速足だった気がする。  異常な連中だ…何もかもが。今見聞きして、会話した内容が全て悪夢だったんじゃないかと思える。空気すら異質で、どんよりと重くて、悪意と邪悪を形にしたようなのに、だとしても京介という男は異様に神聖なものに見えたし、その気ままな在り様が似合ってさえいた。あのむせ返るような色の匂いさえ、すべて…。 「……クソ……」  近寄るな、と警告するかのように鳥肌が収まらない二の腕を何度も擦って、一気に現実の色彩を取り戻した景色の中を黙々と歩いた。  早く帰ろう。日常に戻りたい。  だけど  だとしても  もう、奴らとの縁は結ばれてしまったんだ。俺はもう、奴らに知られてしまった。  無関係でなくなった恐ろしさを、俺の一番深いところが何よりもありありと感じていた。  …それに俺は  奴に、京介に…一つだけ嘘をついている。

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