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第2話
古くなった写真を片手に、人気のない廃ビルの屋上で煙草をふかした。
写真の中で笑う男は、俺の記憶の中でも年を取らない。その笑顔の映像は、あの時から止まったままだ。
「………」
そうやってあの時の面影と向き合う決めたのは自分なのに、どうしても居心地が悪くてまだ半分ほどもある煙草を足元に落とし、つま先でにじった。何かをしていないと落ち着かないような、気を紛らわせたいような、そんなよくある感情だ。だが胸の奥がどうにも苦しくて、眉間に深々と皺を刻ませた。
「クソ……」
苛立ちが抑えられなくて、思わず口元を中指で擦った。それにしても、待ち合わせの場所と日時を指定してきたのは向こうなのに、遅い。定刻はとっくに過ぎているのに、例の京介という男は姿を現さなかった。いや、それ以前にこんな場所を指定すること自体、あの派手好きそうな男のイメージとはかけ離れている。まさか、気が変わってすっぽかされたのではないか。そんな疑念が秒針の進みと共にざわざわと胸に立ち込めてくる。じっと一つだけの出入り口を見つめているが、足音すら聞こえない。この状況も、俺の苛立ちに拍車をかける。
「おい」
「!」
ゴツ、と重い靴底の音が背後で響く。次いで聞き覚えのある低く掠れた声…。
慌てて後ろを振り向くと、見覚えのある無骨な男が立っていた。
「……アサト」
あいつだ、京介のところにいた…あの、男。
今日も闇に溶け込みそうなほど頭のてっぺんから足の先まで黒で統一された服を着ている。前回と違うのは、コートではなくフード付きのパーカーを着ていて、これ見よがしに露出していた上半身を隠していることくらい。アンバランスにフェイスラインの髪だけが長いうっそうとした黒髪の間から、鋭い光を放つような緑の光が二つ、こちらを見据えている。そしてそれは、あの時と同様に不機嫌を表していた。俺が名を口にした瞬間、それは一層深まった。
「…あ?馴れ馴れしい奴だなお前」
「…いや、すまない。…その、つい」
あの時と同じ、隠されもしない敵意がビリビリと伝わってくる。俺が不用意に名前を呼び捨ててしまったこともあるだろうが、そうでなくても彼は出会ってからずっとそんな調子だ。こちらを好ましく思っていない、というのがいくら鈍感な奴でもわかる程に顔に現れている。そこまで徹底されると、こちらも軽い敵対心を抱いてしまうというのは道理だろう。形ばかりの謝罪は自分でもわかる程そっけなかった。
「腹の立つ野郎だな」
チ、と聞こえよがしに舌打ちが響く。言葉すらも全く装うことがないのか。奔放ながらもある程度品のあった京介と違い、このアサトという男は無骨どころか野蛮であるように感じられた。こんな男が、何故京介の…
「まあいい、仕事だからな。受け取れ」
「っ…!…あ、ああ…」
余計なことを考えているうちに、気づけば眼前まで近づいていたアサトがこちらに小包を投げて寄越した。掌サイズ程の小さなそれを慌てて受け取れば、催促するように投げたままの手をこちらに向けている。俺が手に持っていたアタッシュケースを渡せと言っているのだろう。そこには、約束通り1つの宝石が入っていた。
「…丁寧にしてくれよ。…落としたらどうするんだ…」
「知るか。渡して、受け取るだけが俺の仕事だ」
だから早く、というように指先を伸ばしたままアサトが高圧的にこちらを見ている。俺より僅かばかり背は小さいようだが、目線はほぼ同じだ。こうやって見れば見るほど、その辺に歩いている若者と変わらない。至近距離で見た相貌は整っているとはとても言い難く、小ぶりな鼻と口と不釣り合いな大きな三白眼がジトリと陰鬱にこちらを睨みつけている。唇だけがいやに艶めかしくて、どうも安っぽい印象をぬぐえない。何度か仕事で出向いた治安の悪い街の裏路地で、一晩二束三文で買える娼婦と同じ印象だ。俺にそういう意味での男の良さはわからないが、どのみち評価できるところなど若そうだって、それくらいのように感じられる。
というか…男の、 くせに…
「………」
突きつけるように無言でアタッシュケースを差し出すと、目の前の男の眉がぴくりと小さく動いた。また、不機嫌そうに。やはりどうも先ほどから俺の一挙一動が気に入らないようだ。しかしそもそもこの男に俺が威圧される覚えも、腹が立つと罵倒される覚えもない。不躾なのはお前だろうという意味を込めて、態度を崩さずにいると、突然、アサトの口角がぐいと引き上げられ、歪な笑みを浮かべた。
「ハ、てめえ」
「…!?う、ぁっ…!?」
その手がアタッシュケースを掴んだ…と感じた瞬間、とてつもなく強い力で引っ張られ、前方にバランスを崩した。倒れぬよう一歩踏み出したところまではわかっていたが、気づけばアサトの鼻先が俺のそれに触れるくらい近くて、何よりネクタイの結び目を捕まれ、逃げられぬよう引かれていた。
「じろじろじろじろと…鬱陶しいんだよ、お前。そんな目で見るなよ。殺したくなるだろ…」
「…な…!」
動けない…!どこにそんな力があるんだってほどに奴の力は強かった。体勢を整えようと無理に丸められた背を伸ばそうとしてもビクともしない、ネクタイを握る手は僅かに指を絡めたくらいの力加減なはずなのに、どれだけ身じろごうと振りほどけなかった。そんな様子を見て、くつくつとさも愉快そうにまた、アサトが喉を鳴らした。
「…ああ、なあ。どうだ、屈辱か?こんな…そうだな、男に媚を売って生きてる様な…軽蔑すべき淫売に力じゃ勝てない、なんて、さあ」
「……!!」
じろ、と緑の瞳がまた、恨めしそうにこちらを睨みつける。なのにその瞳の奥には明らかな愉悦が浮かんでいて、ぞくりと背筋が震えた。目の前でゆっくりと首を傾げて見せたアサトの、フードに隠れた首筋に生々しい歯型と鬱血の痕がやたらに赤く浮かんでいた。歯牙が皮膚を破ったのだろう、ところどころにある血の跡は、先ほど滲んだばかりのように新しい。
「なんでお前がムカつくのか、教えてやるよ。
…お前、ずっと俺をそういう目で見てんだよ。今だって、そうだ。
気持悪ィんだよ。この間もそうだったな…。わざわざ俺にわかるように、ご丁寧に軽蔑してますって顔しやがって。
……そのくせ嘗め回すみたいにじろじろじろじろ……吐き気がするぜ」
「…はっ…!?ちが……ふざけるなよ!誰が…お前みたいな…」
「何が違うんだよ。男のくせに、男に身体売ってるクソ野郎がってツラにそんだけ書いててわからないとでも?
その上お前の何がいいんだって探りたがってんだろ。見下されてんのがわかんだよ。
こんな淫売ごときに不機嫌なツラされてムカついてます、そういう男なんだから、そういう目でみてもいいだろっていうのがさぁ。
……お前、正直すぎんだよ。…だから、アイツに目ェつけられんだ」
「…は…!?」
突然饒舌に捲し立てられ、面食らったものの何より心臓が冷えたのはその内容が図星だったからだ。そんなにはっきりと嫌悪と侮蔑を表してしまっていただろうか。そして、自分でも思っている以上にアサトを見下してしまっていたのだろうか。僅かに自己嫌悪が頭をもたげたが、だからといって素直に謝る気にはなれなかった。
「…!そもそも…!お前が最初から俺にそういう態度をとるからだろ…!不機嫌な態度ばかり取られて気分が悪いのはこっちも同じだ。しかもこんな…
お前の考えてることなんて俺にはわからないがさしずめ……お前のご主人様を取ったりしないから安心しろよ…!」
「…はァ…?!」
至近距離で見たアサトの額に怒りでくっきりと血管が浮き上がるのが見えた。どうだ、言ってやったぞという満足感が胸に広がる。そうだ、奴に対して感じていた怒りの正体はこれだ。俺に向けられた明確な敵意の正体は、そんなくだらない嫉妬なんじゃないかと感じていたからだ。冗談じゃない。気味の悪い関係に巻き込まれるなんて。確かにじろじろと無遠慮な視線を投げてしまったかもしれないが、それは納得がいかないからだ。何故、あんなに美しい男がこんなありふれた、どう見ても高級ではなさそうな男娼を囲っているのか。コイツが気に入ったら高価な宝石を買ってやってもいいだなんて言われるほどのお気に入りになったのか。俺にはわからないがその地位はこういう男にとっちゃどうしても守りたい立場なんじゃないのか。だからそれを脅かすような存在は全て気に入らないんじゃないのか。くだらない、汚らしいプライドのようなものが…
「……ハ」
「あ…!?」
「…は…ははは…てめえ…」
「いっ…!!!!!~~~~ッ!!!!」
地の底から獣が唸るような低い笑い声が聞こえた…と、思った瞬間俺は強かに背をコンクリートに打ち付けていた。あまりの衝撃で一瞬呼吸が出来ず、逃げるように丸めようと思った背を無理やりにのけぞらされ、ぱくぱくと酸素を求めて唇が戦慄いた。
「意気地なしのクソ野郎と思ったらなんだ、意外と面白ェな、お前。…まあ、腕っぷしは遊びにもならねぇくらい弱いが…けどその目は気に入った」
「…っ!は…!?…な、ん…」
ちかちかとかすむ視界を擦り直上を見上げると、そこには二つの緑の光が俺をじっとりと見下ろし、確かにとらえていた。身体を起こそうともがいても、何かがずっしりと下半身にのしかかって動くことができない。アサトが跨っているのだと気づいたのはその数秒先だ。じたばたと情けなく両手を動かすと、咎めるように頬を掴まれ、強引に上を向かされた。
「…――!!」
「俺はお前とは違います、ってか…。最高にムカつく態度だが言い切ったってのは悪くねえ。
なあ、ご褒美にお前に教えてやるよ。俺とお前がどう違って、いかにお前が忍耐強いのか、さあ。
面白そうだ……。
……ああ、そうだ、最初に言っとくのを忘れてたが、京介からはお前を 殺すな とは言われたが
犯すな とは言われてないんだ。……わかるよな?」
「……ひ……!!?」
ぞわ、と体中から一気に血の気が引いた。まずい、まさか、コイツ…!
「わかってたよなあ?お前が言う通り、俺は見境のない淫売だからな、そのくらい平気でできんだよ」
「や…め……!!」
「嫌なら抵抗してみろよ、ホラ。好きにしていいぜ。俺の舌を噛み千切ってもいい。そんなの…割と頻繁にされてるからな、だとしても…やめてやらない。止めたきゃ力ずくで止めろよ」
降り注ぐ言葉にどんどん愉悦の色が乗ってくる。なんなんだ、コイツ…!今更目の前の男を見くびり、散々に煽ってしまったことを後悔した。まさか、こんなに暴力的で、嗜虐的な奴だったなんて。京介に対して口は悪いものの従順に従っているものだから、威圧的な態度も見栄を張ってるのかとばかり思っていた。流石に、ここまではしないだろう…なんて、たかをくくっていたんだ。今になって「あいつらは、危険だ」と言われた言葉を思い出したが、既に遅かった。獣のような吐息を吐く男の、濡れた舌先が首筋をぬるりと伝った。
「…が……」
気持ち悪い…。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!!
生理的な嫌悪感が体中を支配して、泣きだしそうだ。情けないことに体中がガクガクと震えてどうしようもできない。さっきから抵抗のためにせわしなく動かしていた四肢も、いくら奴に当たっても無駄なあがきだと実感するのには1分もかからなかった。圧倒的な力で支配されるというのはこんなにも恐ろしいのかと、久しく忘れていた恐怖が腹の底でムクムクと大きくなっていく。
怖い、怖い…!
「はは…。軽蔑していた男にいいようにされる気分はどうだ?……ああ、そんなに暴れんなよ。大人しくしてたら良くしてやるのに…」
「い、…やだ、やめろ…やめてくれ…!俺が、悪かったから…!!」
「…ハ、今更遅ェよ」
耳元で、さも楽し気な声が響いた、低くくぐもった声は妙に色っぽく艶が乗っていて、興奮の色を隠しきれていなかった。そのまま舌先が、耳朶を舐り、淫猥な音を無理やりに押し込んでくる。言葉は荒っぽいし、無理やりに抑え込まれているのに奴の触れ方は妙に甘くて…優しい。奴の掌が体中を這って、慈しむような愛撫を重ねてくる。やがてそろりと慰めるように頬を撫でられた瞬間、恐怖だとか、嫌悪だとか、それら全てぐちゃぐちゃになって、真っ白になった。自分でも、混乱しているのだということがわかるくらい…なのに…
「…何だよ、寂しいのか?」
「は…」
気づけば、あんなにも抵抗していた右手が、縋るようにアサトの首筋に触れていた。にやりと意地悪そうな笑みを浮かべながらも、肩を竦め、首を傾げるような動作をして俺の掌にその肌が摺り寄せられる。しっとりと汗ばんで、まるで、吸い付くみたいな触り心地だ。指先がじんと熱くなった。
「いいぜ、好きに触れよ。…ほら、口開けろ」
「……!ぁ…」
何で…?そう考えるより先に両の指先が吸い寄せられるようにその肌に触れた。項に…そして、肌と布の間を掻き分けるように鬱血の痕が並ぶ首筋や鎖骨、そして肩口を撫でた。心地が良い、どうしてかわからないけれど、もっと触れていたいとすら思った。
「ッ…ん…ぅ…」
夢中になってその肌を撫でていると今度は唇に軽く親指が押し当てられ、重なった歯列を甘く開かされる。なぜか抵抗することもなくそれを受け入れれば、あの軟らかそうな唇が甘えるように重ねられて、それだけでただうっとりとしてしまった。あとはもう、されるがままだ。情けないくらい…。噛み千切っていいなんて言われたのに抵抗するふりもできなかった。むしろあんなに気味が悪くて、恐ろしくてたまらなかったのに目の前の男に委ねていれば次々と甘い快楽を与えられるのだと体が期待してしまっているようだった。そんなはずがないのに、愛されているんじゃないかと錯覚するほど優しく口内を舐られて、つい もっと とでもいうようにその唇に吸い付いてしまった。
「は、は…お前、さあ…。チョロすぎんだろ。さっきまでの威勢はどうしたよ」
「……っ…!それ…は」
意地悪な笑いと共に耳元に落とされた言葉は、俺の正気を僅かに引き寄せた。…けれど、もうさっきまでとは違ってしまったことは、自分でも良く分かった。言い訳をいくらもしたいが、その肌から指先を離せない。なじられても良いから、悪態をつくその唇でもう一度口づけて欲しかった。できるなら…もっと…堪能したい。ゆっくりと首をもたげて見下ろす男の姿があんなにも汚らしく見えたはずなのに、今では魅力的に見えてるのだから驚きだ。そして、頭の中で そうか、だから と一人で納得していた。
「所詮どんだけ偉ぶったって…同じじゃねえか。こんな男におっ立ててるんだからさあ…」
「ぅあ…!」
アサトが意図的に腰を落とすと、強い刺激が腰に響いて一気に恥ずかしくなった。それなのに奴は楽しそうにニヤニヤとわらって、ぐり、ぐりと何度も苛んでくる。意地の悪いやつだ…だけれど、アイツの言葉は間違ってない。今更になって自分を恥じてももう遅いが、じ、と訴えかけるようにその瞳を見据えると、奴はフンと鼻を鳴らして笑った。
「残念だが今日はここでおしまいだ。そろそろ帰らねえと京介が不機嫌になる。…子どもじゃねえんだから後は1人でできるよな?」
「…なっ…!!」
俺の懇願を断ち切って、しかもそれさえも面白いというように意地悪く終わりを突き付けアサトはゆっくりと立ち上がった。遊ばれた、という屈辱と羞恥心が体中を包んで、それなのに一向に収まらない欲望に心の底から自己嫌悪した。結局、ここまでが奴の仕返しだったのかもしれない。そして俺は、すっかり嵌ってしまったわけだ。
「…その…悪かったよ…」
「…は?」
アタッシュケースを拾い上げて、軽く服を叩いたアサトがこちらを見下ろしている。あれだけ不愉快だった視線も、今はそこまでとも感じない。
「……無遠慮だった。失礼なことをした。……口先で謝っても仕方ないとは思うが…悪かった。…全部、お前の言う通りだ」
「………」
じっと俺を見下ろしながら、何を思っているのか。俺にはわからないが視線の中からあの険悪な光は少しだけ影を潜めたような気がした。もう一度、すまない、と口にすると、奴は歯型のついた首筋をガリガリと掻き毟った。
「……別に。俺はお前にムカついたから吠え面かかせてやれりゃそれでいい。だからそうした。それまでだろ。どうだっていい。
……と、いうか」
「…ん…?」
そこまで言って、アサトは ぐ と押し黙った。何かをじっと考えるように視線を定めてから、ふ、と瞼が柔らかく降り、次にこちらを見た時は妙に真剣な色を浮かべていた。
「…忠告してやるよ。バカな考えは起こさないことだってな」
「…は?」
「アイツを出し抜こうだなんて考えるなってことだ。人間の考えることくらい…あいつはハナからお見通しだ。…アイツと取引をするってことは…それも含めて取引の一部ってことなんだよ」
「…何…」
「……喋りすぎたな。クソ…。さっさと帰れ。落とし物だ」
そう言って差し出されたのは例の写真だった。俺が待ちぼうけている間眺めていた、あの…。
「あ……」
礼を言おうとして顔を上げると、もうそこにアサトの姿はなかった。扉の音もしなかったのに…。いや、来た時もそうだったが、まるで闇の中から現れ、消えるように。
「………」
奴らは人間じゃない。
仲買人の男から言われた言葉を思い出した。なんとなく俺も、そんな気がしている。
だが、けれど、ほんの数秒前に見たアサトのあの瞳は……
人間と同じ温度を感じた。
「…忠告、か」
小包を拾い上げ、中身を確認しようと包装をほどきながらそう呟いた。
もしかして、アサトは見透かしていたのだろうか。
俺が京介に嘘をついているのを…
だとしたら京介もそれを……?
「これは……」
ほどいた包装紙の中には、リボンをかけられた箱と、小さなメモが挟まっていた。
”約束の品だよ。
使い方を教えるから、もう一度僕のところにおいで”
「……どうして…」
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