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第3話

 スタンドにつるされた点滴のバッグと、それにとりつけられたいくつものポンプ。機械仕掛けに薬液を注入し続ける注射器。そのすべてが、今ではすっかり見慣れたものになってしまった。ドラマで見るよりもずっと静かな室内は、時が経つにつれて増えてゆく荷物のせいで、まるで賃貸アパ―トのようでもあった。そしてその家主は、部屋の真ん中のベッドでずっと眠り続けている。もう、10年にもなるのか…。最近では顔がパンパンに膨れてしまって、かつての面影さえかすんでしまっている。電解質がどうとかで、むくみがとまらないんだそうだ。もうこうなっては、先は短いと宣告されたのはつい1ヶ月ほど前のことだった。 「…行ってくるよ。どちらにしてももう少しの辛抱だ」  そういってアタッシュケースを手に取って、病室の扉をくぐった。  今日は約束の日だ。  相変らず金庫の扉のように重い鋼の扉を開いて、最初に奴らに会ったあの場所に立ち入った。あの時は…こんなに緊張していただろうか?いや、まだましだったような気がする。奴らを見た時から、不気味な恐怖感は日ごとに募って行くばかりだ。それに…あの日、アサトに会った日からずっと迷っていたことがあった。その回答を今日は…出さないといけないのだ。  最初から危険な賭けではあったが、どうもあの日から彼のあの、真剣な瞳が脳裏から離れなかった。何か重大な意味があるのではないかと。そして、本当は最初からすべてを見透かされ、そして踊らされていたんじゃないかと。あの、恐ろしいほど美しい化け物に…。  不安と緊張は重石のように足にまとわりついて、一歩一歩が驚くほどに重い。呼吸を整え、それでも意を決して歩を進めると、やがてあの時見た光景と同じ、ソファとベッドのある部屋にたどり着いた。 「ああ、待ってたよ。セールスマンくん。相変らず時間通りだね」 「……恐縮です」  最初にあった時ぶりに見る京介の姿は、相変わらず美しい。見慣れることなんてなさそうなほどの鮮烈さだ。今日はさすがにその言葉通り俺を待っていたのか、きっちりと華美な服装に身を包んで煙管をふかしていた。室内に香のような香りの煙がくゆって、ゆらゆらと消えてゆく。つい、アサトは…とその姿を視線で探したが、近しい場所には見当たらない。 「アサトならちょっと前から寝てるよ。そこで。疲れちゃったみたい。ふふ…随分仲良しさんになったんだね」 「えっ…!?あ、いや…そんなことは」  指さされたベッドは、天蓋から垂らされた布によって中が見えないようになっているが、確かに良く見れば僅かに彼の肌の色がちらりと見えた。随分深い眠りに落ちているのだろうか。身じろぐ様子すら見えない。そんなふうにじっと見つめていたからだろうか、揶揄うように言われた言葉に慌てて否定をするも、にやりと楽し気な笑みを浮かべてじっと京介が俺の顔を見つめてきた。 「あれ?そうなの?この間アサトに抱いて…もしくは、抱かせてもらわなかった?君の煙草の匂いがついてたから、ついそうだとばかり思っていたけれど」 「いっ……や、そこまで、は…」  それもお見通しってわけか…。急にばつが悪くなって、視線を彷徨わせてしまった。耳に届いた愉快そうな笑い声から、この動揺もあけすけに伝わってしまったのだろう。羞恥心が目元を熱くさせた。 「なんだ、けちけちせずに楽しませてあげればよかったのに…。アサトは悪い子だね。あとで叱ってあげないと」 「……や、そんな。当然ですが、そういうつもりでお会いしたわけじゃないので…」  まるで世間話をしてやれば、くらいの軽薄さで性行為を勧める様子がどうも馴染めない。そりゃあ最初に会ったときから飲み物を飲んだり、タバコを吸ったりという程度の行為と同じくらいのノリで目の前ではじめようとする貞操観念なのだ。馴染むはずがない。それと比べれば、男娼だ、淫売だという表現まで持ち出して不機嫌をあらわにしていたアサトのそれのほうがよっぽどかまともな価値観に思えた。 「ま、君がいいならいいよ。僕はその辺はどっちだっていいしね。ただ、誰かの匂いのついたアサトを抱くのは好きなんだ。そういう意味じゃあ…十分だったし」 「そうですか…」  よせばいいのに京介の口ぶりから、ああ、あの後もこいつらはたっぷりと楽しんだのか。なんて思いが頭をよぎって、心底げんなりとした。少しばかり悔しいとすら思った自分が憎らしい。やはりここは良くない。多少なりとも俺はこいつらに確実に毒されている。 「…ところで」 「ん?うん」  仕切り直し、というように言葉を発し、早々と本題に入ることにした。 「お取引の件ですが、実は……詳細をお伺いする前にお伝えさせて頂きたいことがあります」 「へえ?なんだろう。話してみてよ」  どきりと胸が高鳴る。追い立てられるように動悸が早まって、徐々に首筋に冷や汗が浮かんでいくのがわかる。今になって思うと、鋭く吊り上がった京介の目は蛇のようだ。じっと見つめられては射すくめられたような心地だ。呼吸さえ徐々に苦しくなってきた。  いや…しかし……  決めたんだ。あの日、アサトに忠告された時からずっと考えて…。  もしかしたら今から口にする言葉で全てが破綻するかもしれない。  京介の機嫌を損ねて…それこそ…俺も死ぬかもな。  だが、だとしても……  このまま黙って事を進めてしまう事の方が最悪の結果を招くような気がしたのだ。  俺の中の第六感ともいえる部分が嫌な予感をありありと感じていた。 「…メデュサの瞳の件ですが…実は……私は貴方に…お伝えしていないことがありました」 「うん、それで?」 「っ…実は…。私が所持している宝石は……片方は本物ですが…今日お持ちしたもう片方は……本物ではありません…。よく似た、別の宝石です…」 「………へえ…」  京介の声色が変わった。低く、唸るような……だけれどどこか笑みを含んだものに。今まで聞いたことのない音に、ぎゅうと心臓を握られたような恐怖を感じた。京介の双眸を見ていたはずの視点は何時の間にか逃げるように床に落とされて、押さえつけられたように上げることができない。 「ふうん…それってさ、つまり、僕を騙そうとしてたってことなのかな?最初から僕を虚仮にしてたってこと?」 「いえ…ち、違います。決してそんなことは……いえ……その…。  ……虚仮にしようだなんてことは…微塵も…。ですが、騙そうとしていたのか…と、言われれば…そう、…ということになりますね…」  言葉にしてしまえば、なんて恐ろしいことを告げているのだろうと実感する。ただでさえ、何度も繰り返されたありふれた商談でもこんなことはあってはならないし、恐ろしい未来しか見えないのだが、更に今は得体のしれない男を相手にこんな言い訳がましいことをしているのだ。自ら詐欺の自白をするようなもの…いや、そのものなのかもしれない。とにかく、最悪の状況だ。それでも、もう、取り返しはつかない…。 「…申し訳ありません…。言い訳にしかなりませんが……私の手に渡るはるか以前に、メデュサの瞳の片方は行方が分からなくなっていました…。この宝石は二つ揃っていることに特別の価値がある…しかし…貴方の興味を引くような品物を他に用意できなかった…。私は、どうしても貴方の持つ力に頼りたかった………浅はかでした。申し訳ありません…」  いくら言い訳を述べてもきっと、この男には退屈な詭弁として届いているに違いない。それでも、このまま首を掻き切られてでもこの取引をまだ、諦めきれなかった。 「…すみません…!申し訳ありません…!いくら謝罪したところで意味はないかもしれませんが…。お金で補えるのであれば、望まれるだけ用意します。だから……だからどうか、取引をやめることだけは…!  都合の良いことだとわかっています。ここで殺されても文句は言えません……でも…殺すのであればどうか、全て終わったあとに…それで許されるのであれば……どうぞ、そうして頂いてもかまいません…ですから…」  夢中になって言葉を連ねているうちに、自然と膝は折れ、床に正座していた。這いつくばるかのように頭を下げ、きっと今京介からは情けなく土下座をする俺の姿が見えているだろう。男の穿いた靴のヒールが、目の前で床をこつんと蹴った。  今、彼は何を想っているのだろう。まだ俺が殺されていないということだけは確かだが…。 「ふ、ふふふ…ああ、そう、なるほどねえ…ふふふ…」 「……え…?」  頭上に降り注いだのは、怒りではなく、楽しげな笑い声だった。ゆっくりと視点を上げると、肩を揺らしながらさも楽し気に笑う男の顔があった。その表情は…今まで見た何よりも邪悪なそれで… 「ッ……!!!」  感じたこともないような寒気で体がこわばった。怖い、恐ろしい、いや、言葉でなんて表せない。この感情を…。ただ、そのわずかな肩の揺らぎだけでも俺の命を簡単につぶしてしまえそうで、最早呼吸も上手くできない。塊のように吸いこもうとした空気が喉に詰まって、窒息するのではないかと思うほどに、苦しい。 「あっははは…!いやだなあ…そんな顔で見ないでよ。ふふ…僕がまるで、ひどいことしたみたいじゃない。  ああ、おかしい…。大丈夫、怒ってないよ。そう。そうなんだ…ふーん…へえ、これは、予想外だったなあ」  そうなんだ、へえ、などと何度も繰り返しながら、何度もうなずいて1人で納得する様子に、ぽかんとしてしまった。呼吸は未だに苦しいままだが、確かに彼の言う通り、その表情からは怒りは感じられなかった。むしろ…楽しいとでも言わんばかりだ。 「ねえ、なんでそれを今僕に言おうと思ったの?黙っていればばれなかったかもしれないのに…今更。それを教えてよ。殺されても仕方ないって言ってたよね?そこまでの覚悟をしてどうして言ったのかな?」 「…それ…は」  今まで俺と会話していた時の退屈そうな仕草とは打って変わって、初めて興味深げにこちらに身を乗り出してきた。一体なにがそんなに面白いというのだろう。全く見当がつかないが、一応のところは命拾いをしたようだ。 「……怖く…なった、からです。…あなた方にお会いして……騙し通せる相手ではないと…感じました。直感のようなものです…大きな理由はありません…」 「へえ、そう、そうなんだ。ふふ……でも、それだけの理由で命を投げ出せるものかなあ?僕が知ってる人間っていうのは…一部を除いて大概、みっともなく命乞いをするものだと思うけれど…。  君は馬鹿が付くほど正直で素直なのか……それとも、  ……誰か、親切な人が忠告をしてくれたのかな?」 「…!!」  ぎくり、と心臓が跳ねる。忠告。そのフレーズに、あの日のアサトの言葉が脳裏をよぎった。  …やっぱり…あれは…… 「ま、いいや。そう。じゃあ…そういうことならさ、アレ、返してくれる?渡してた薬」 「ッ…それ…は!」  す、と差し出された手から逃げるように体を強張らせると、くすくすと笑いながらそれも面白いというように京介は目を細めた。やはりか…咎められたり、報復されたりしないだけまし…そう考えて、取引は結局なかったことになるのだろう…普通に考えたらそれが当たり前だ。何せ俺は詐欺と言われても仕方ないことをしたのだ。手ひどく痛めつけられないだけありがたいと思わなければならない。…だけれど…諦めきれない。握ったままの小包を、差し出せずにいた。 「ふふ、勘違いしないでよ。取引をやめるって言ってるわけじゃないんだよ。ただ、”それを返して”っていってるんだ」 「……は?」  …取引は、やめない…?どういうことだ?見上げた先の京介は、俺の僅かな隙をついてするりとその指先に小包を掴んで自らの眼前に引き寄せた。 「僕ね、最初に君から取引を持ち掛けられた時から決めてたんだよ。君と…同じことをしようって。  君は偽物を僕に渡して、僕を騙そうとしたよね?だから…  僕もそうしようと思ってたんだ。君が……僕に本当のことを話さずに帰るつもりなら、僕も本当のことは話さないでおこうって。  ……ふふ…僕は君が嘘をついたまま帰るほうに賭けていたんだけど…外れちゃったみたいだから、仕方ないね。まあ、なかなか楽しめたよ。ミニゲームならこんなものかな」 「な…に……」  静かに、静かに、血が冷えていくのを感じた。  それじゃあ…つまり、最初からわかって…そのつもりで……  京介の指先は厳重に巻き付けられた包装を一つ一つ引きはがして、やがて試験管のような容器に入った美しい液体を晒して見せた。薄紫の液体の中には、何かが浮かんでいるわけじゃないのにきらりきらりと時折何かが反射をして、絶えず光を放っている。その奇妙な美しさは、京介にも似ている。 「ふふ…綺麗でしょう?これねえ、僕のお気に入りの1つなんだ。  せっかくだから、これを人間に使ったらどうなるかっていうのが見たかったんだけど…負けちゃったんじゃあ仕方ないね。これはまたの機会にするよ」 「……それは……、なんなんですか…?薬…では、ないんですか?」  過程から考えれば、俺の求めるものではないことは確かだ。だが、用途がわからない。ただの偽物なのか…いや、違うだろう。京介のお気に入りというほどのものだ。何か…きっと……恐ろしいものであるに違いない。 「これ?興味あるの?ふふ…これはねえ、ある生き物の涙だよ。世界で1、2を争うくらい美しい涙だと僕は思うけれど、とっても面白いんだ。  この涙は酷く痛めつけられた時だけに流すものでね、いやあ、これだけ集めるのは大変だったなあ。涙って思った以上に出ない物なんだね。死ぬまでに2本分取るのが精一杯だったんだ。我ながら忍耐強く良くやったと思うよ」 「……―――!」 「なかなか強情っぱりでね…最初の1滴を搾り取るまでが大変だったんだよ~本当に。…ああ、まあ、別にそれはいいか。君には関係ないことだものね。  これはねえ、ふふ…使うととっても面白いんだ。この涙に触れると、魂に疵が付くんだ。…君たち人間は魂なんてないと思ってる人が多いみたいだけど、確かにあるんだよ。  一番無防備で…柔らかくて…誰も守ってくれない…。  そこにね、直接傷をつけられるんだ。痛みを与え続けられる。身体が朽ちても、逃げられない。眠ることも休むこともできない苦痛を与え続けられる…。  どう?愉快でしょう?今まで色々な種類の生き物に試してみたんだけど、退屈しないんだよね。それに…人間ってとってももろくて、ついついうっかり死なせちゃうことが多いんだけど…精神や感情だけは生き物の中でもとびきりに豊かだなって、そういうところは買ってるんだ。  そんな人間の魂なんて、凌辱しがいがあるじゃない。本当は僕も君と一緒に見に行こうと思ってたんだけどね、これは次の機会だね。うん。賭け事は代償を払うまでが楽しいんだから、ここでフイにしたらつまらないもの」 「…………」    言葉が、出ない…。  うそだろう、そんな。  そんなものがこの世にあるのか?にわかには信じられない…。  だけれどさも楽し気に、饒舌に捲し立てる男の様子はやけに真実味を帯びていて…  そして何より……  苦痛を与えることを悪びれもせず「面白い」と言い切る姿が  恐ろしかった。  嘘、いやそれどころか  悪意も、善意も、良心もなく心底から、何も、全てが自然な事のように  愉快だと、楽しいと言い切ったのだ。この男は……。  化け物だ  はっきりとそう、確信した。  そして、それをこいつは俺に……使わせようとしたのか。  すべてをわかっていて、なお 「……あなたは…俺に…それを………」 「ふふ、嘘をついていたのは君なんだから、僕もちょっとした嘘をついただけだよ。  ああ、でも残念だなあ。君みたいに真面目で、正直で、素直で…一生懸命で…そんな子がここまでして助けたいと思った相手にこれを注ぐ姿が見たかったのにな…。  君の後悔する顔は最高に…興奮できるって思ったんだけどなあ…残念。  君みたいな子って、割と好みなんだよね」 「は………」  心の中が、空っぽだ。俺は今何を感じているんだろう。ただただ、茫然と目の前の床を見ていることしかできない。つまりこいつは、俺の気持ちも、想いも、必死さも、全部手に取るように、それこそ細かくつくりの1つ1つを眺めるようにわかっていたのに  いや、むしろわかっていたからこそ  俺に毒を渡したんだ…。  俺がこの手で、とどめを刺せるように…  あまつさえ、死ぬよりも苦しい目に遭わせるように。  そしてそれを目の当たりにした俺が、悔恨と絶望をかみしめる様を、暇つぶしのバラエティでも見るかのように見物し、笑い飛ばすつもりだったのだ。 「でもちょっとチープだったかな~。もうちょっと趣向を凝らしてもよかったかもね。まあ、暇つぶしじゃしょうがないよね。楽しんでもらえたかな?」 「……楽しんで……?」 「そう。君からしたら、なかなかスリルがあったんじゃないかなって。うーん、僕も君の立場だったらもうちょっと楽しかったのかもしれないね。うん、まあ、これはこれで良しとするよ。やっぱり人間の精神って面白いね。そういうところ、気に入ってるんだ」  無邪気な子供のようににこにこと笑って、屈託のない表情を見せつける京介は、心の底からこの行いの全てがゲームだと思ってるようだ。最早目の前のこの男に対して、何を感じてよいのかが分からない。アサトがあの時言ったように、鋭く、明晰なのだろうが子どものようでもあり…何より…俺の想像をはるかに超えて…残虐だ。  凍り付いてしまったかのように感覚のない指先に視線を落とす。  俺は何故、こんな化け物に近づいてしまったのか。    今更後悔したって遅い。だがこれこそが、俺の人生の中で最も恐ろしい災厄であることは間違いがない。  そうか  もし本当にこの世に呪いなんてものがあるのだとしたら    きっとあの宝石が手に渡った時から俺は、得体のしれない化け物の瞳に魅入られてしまったのだ。  利用されていたのは俺だったんだ。きっと。  行き先のなくなったアタッシュケースを手に取ると、鍵をかけていたはずなのに衝撃でそれはぱかりと大きな口を広げた。中に入っていた名もない大粒の宝石は、俺のことをじっと見つめるように青い光を放っている。今更、何というわけでもないが。 「へえ、それが代わりの宝石?見せてよ。なかなかいいじゃない」  俺の返事を待つ前に、京介がアタッシュケースの中から透明な容器に入った宝石を拾い上げる。光にかざしながらしげしげとその色を見て、ふうん、なんて興味深げな声を漏らしている。 「へえ、いい石だね。代わりというにはもったいないくらい。本物よりも綺麗なんじゃないかな?青色のほうのさ…」 「は…??」  まるで本物の宝石を知っているかのような口ぶりに、つい京介の表情を見てしまった。今気づいたが、長い前髪の奥に隠された二つの瞳は、青と赤の色をしている。  ……メデュサの瞳と同じだ。  そして失われた方の宝石は、青色のほうで… 「ほら、見てみてよ。君もそう思わない?これが本物なんだけどさ、君が用意したものの方が美しいよねえ」 「…!これは…」  調度品の上に置かれた何かをその手が取ったと思った瞬間、それをこちらに無造作に投げてよこした。慌てて強張ったままの掌でそれを受け取ると、それは俺が用意したものよりも深い青色をした大きな宝石だった。蛇の目のような陰影を刻む輝きが、あの赤色の片割れと全く同じだった。  まぎれもなく、本物のメデュサの瞳だ。 「お金はいいよ。まあ、元からもらうつもりはなかったけどさ、その代わりこの宝石を頂戴よ。  きれいだし、君に似てまっすぐな光が気に入っちゃった。  ふふ、偶然とはいえなかなかいい物と出会えたみたい…こういうのも悪くないね」  俺の用意した宝石を眺めながら、上機嫌に京介は笑っている。  俺はと言えば……つい、笑ってしまっていた。  心底呆れたんだ。自分に。見透かすとか、それ以前の問題だ。俺はこの化け物に最初から分かり切った嘘をついていたんだ。そんな自分の間抜けさに嫌気がさした。まるで引き合うように、呪われた宝石は再会を果たしたわけだ。 「ふふ…ある意味これも運命とか言うヤツなのかな。  僕はあんまり運命論を信奉していないんだけど……まあ素敵な偶然があるっていうのは悪くないよね。ロマンチックだもの。  はい、じゃあ改めて約束のものを渡しておくよ。これは紛れもなく本物だから、安心してね」  そういって差し出されたのは同じような試験管に入った金色の液体だった。中央に鳥の羽根のようなものが浮かんで、先ほど見せられた液体に負けないほどに美しい。 「あとは君が一晩くらい僕らと遊んでくれたら…本当は最高なんだけどさ、さっきも言ったけど力加減が分からなくてついついいつも死なせちゃうんだよねえ…。だから、今日はやめておくよ。  さ、もう帰っていいよ。  アサト、お見送りしてあげて。使い方はアサトに聞けばわかるから」  じゃあね、と笑ったその笑顔からは、既に俺への興味は微塵も感じなかった。彼の言う通り、ひとしきりゲームを楽しんで満足したのだろう。差し出された試験管を握りしめ立ち尽くす俺の傍に、いつ起きたのだろうかいつの間にかアサトが立っていた。 「行くぞ」 「……あ、あぁ…」  ぶっきらぼうに告げられ、歩き出したその背を追う。 「……ありがとう、ございました……」 「いいえ、こちらこそ。元気でね」  去り際に京介に声をかけると、一瞥をくれただけであっさりと別れを告げられた。…漸く、胸を締め付ける恐怖がわずかに緩んだ気がした。  ほ、と小さな安堵と吐息を吐き、改めて金色の液体を見つめる。  ……しかし、これは本当に本物なのだろうか…。  あんな…残虐で冷酷な男のことだ…また、嘘をついているんじゃないのだろうか…  京介の前から逃れられたというのに、また新たな疑念と不安がむらむらと湧き上がってきてしまった。  本当に…信じていいんだろうか。 「…安心しろよ。そいつは本物だ。  お前が思う通りアイツはひどい嘘つきだが、こういう時に嘘はあんまりつかねえからな」 「……!」  俺の心を見透かしたように振り向きもせずアサトが吐き捨てた。 「そうか…ありがとう……」  なぜか、京介と同類の悪党かもしれないのに、アサトの言葉だけは信じてよいと思ってしまった。ふう、ともう一度ため息を吐いて、壊さぬようにアタッシュケースの中にそれをしまい込んだ。  長く、暗い廊下をアサトの背を追って歩く。  その首筋には相変わらず、真新しい赤色が散らばっている。 「…その…ありがとう」 「…は?何がだよ」 「…してくれただろ…忠告。…助けて、くれたんだろ…」  囁くような小さな声で礼を告げると、その目がわずかにこちらを見た。表情には相変わらず不機嫌が浮かんでいるが、最初に会った時のような不快さは感じなかった。それに、俺は確かに命拾いをした。彼のおかげで。 「うぬぼれるなよ。お前の為じゃないし、そんなつもりもない。  知ってただけだ。アイツのコレクションの中にあの気味の悪い石があんのが。  それに…アイツの思い通りってのが気に食わないだけだ」 「は…?」  ぶっきらぼうに礼を突っぱねられたが、気になったのはそこではない。  心底忌々しそうに京介のことを形容する様子が引っかかった。 「いや、それでも…助かったのは事実だ。あのままだったら俺は……友人を…殺してしまっていた…。  いや、それどころか……アイツの言ったことが本当なのだとしたら…それ以上に…」 「……そうかよ。友人、ね」  興味があるようには見えなかったが、ふん、と鼻を鳴らすアサトに、つい話がしたくなった。話せる時間はあといくらもないが、それでも。 「…ああ…。アサトには関係のない話だけどな…。  どうしても助けたい…いや、治したかったんだ…。そのためなら俺の命なんてどうだっていいって、そう思って」 「………」  俺の話をさえぎるでもなく、咎めるでもなく、アサトはただ黙っていた。だがおそらく、聞いてくれているのだろう。 「……唯一無二の親友なんだ。…あいつはすごく頭がよくて…馬鹿な俺とは大違いだった。  でも、人付き合いが下手なやつでさ…。大学生の時から卒業したら、2人で会社を建てようぜ、なんて言ってたんだ。その時は冗談のつもりだったんだけどさ……なのに妙にとんとん拍子に進んで…ホントに会社を建てることになったんだ。  …10年くらい前の話だ。  アイツの発想ってのはすごくてさ、コネも何もないのに飛びつくようにいろんな企業がアイツのアイデアを買って行って、あっという間に俺たちは億万長者になった。宝くじ当てるよりも凄い金が次々転がり込んできてさ…。  でも、いいことって続かないんだよな……。  デカい商談がまとまった夜に祝杯だって2人で酒のんで…俺はホントどうしようもないバカだから…酔っぱらって車道に飛び出して……気づいたら俺の代わりにアイツが車に跳ね飛ばされてたんだ…。  そっから…もう10年も経つのに……目が覚めないんだ。1か月前にとうとう医者に、もうそろそろ死ぬって言われて……もう、どうにもならないって」  喋ってるうちにぼろぼろ涙がこぼれてきた。なんで、こんなところで、ほとんど知らない男にこんな話をしてるんだろう。だけど、誰にも話せなかったんだ。今まで。こんな俺を目の前の男は見もしない代わりに、突っぱねもしない。 「もう10年も経つのに……時間が止まったみたいなんだ。忘れるなんて、嘘だ。忘れられるはずがないんだ…。  あいつが死ぬって言われた時、何度も受け入れそうになって、仕方ないって思ったはずなのに、結局どうしても許せなかった…。金ならいくらでも出すのに……皆無理だっていうんだ…。  なあ、馬鹿だって思うだろう?なんとなく、感じてたんだ。最初はそうは思わなかったけれど、あの日お前に会ってから……お前が不機嫌だった理由。  なんでこんなとこにきたんだって…馬鹿めって、そう思ってたんじゃないのか?  お前…優しいもんな」 「……妄想癖も大概にしろよ。全部お前の妄想だし、優しいとか寝言かよ。ボランティアにでも参加したほうがいいんじゃないのか?それか、優しさって言葉を辞書で調べてみろよ」  嘲るような笑いと共に、これ見よがしな嫌味を突きつけられた。けれど、嫌じゃない。どうしてだろうか。彼らしいとすら思う。着いたぞ、と言う代わりに扉を雑に親指で指し示して、壁に背を預けたアサトが漸くこちらを見た。 「あ…、その…身の上話を聞かせて…すまない。  ……その……」  じっとこちらを見つめる緑の瞳は相変わらず俺を射貫くようにまっすぐだ。俺のことを馬鹿正直と言ったが、アサトだって大概そうだと思う。咎められないのをいいことに扉の前で立ち止まって口元を擦った。そして別れる前にどうしても、聞きたかった疑問を口にすることにした。 「…謝りついでに…一つだけ教えてくれ。…答えたくなかったら、それでもいい。でも、聞きたいんだ」 「何だよ。下らねえことだったら殴るぞ」  殴るくらいで済ませてくれるのか。やっぱり優しいじゃないか、なんて思いながら少し言葉を選んだ後、意を決してそれを形にした。 「……その…お前と、京介の関係のことだ」 「……は?」  ぴくり、と不機嫌そうに眉が動く。違う、そうじゃない。貶したいんじゃない。 「違う…あの、そうじゃなくて…。  納得がいかないんだ…その……。  はっきり言うと、お前がどうして…京介の……パートナー?をしているのかって。  最初は…あんなに美しくて…金も、力もある奴だから…お前が望んで京介に取り入ったんだと思ってた。すまない…それについては謝るよ…。  だけど……今はそうは思わない…。というか…  そもそも、お前がどうしてこんな…男相手に性を売るようなことしてるんだって…それが納得いかない。  お前は俺なんかよりもずっと腕っぷしも強い…それは分かってる。頭も悪くないし、何より……そうやって誰かに付き従って、囲ってもらおうとするような奴じゃ…ないと感じるんだ。  なのに…お前の…その……それは……一朝一夕の物じゃない…というか」  上手過ぎるんだ。男をその気にさせることが。  あんなにも気味が悪くて、汚いとすら思っていたのに、あっという間にその甘さに蕩かされてしまう魔性がアサトにはある。それは僅かな間に築かれたものじゃないだろう。見た目が美しいとか、女性っぽいとか、そんなこともない。むしろ、目の前の男の様子と、やっていることが、全く乖離して結びつかない。恐らくずっとずっと前からそういう生活を続けていなければ身につかない。だが…いくら貧しい生まれだったとして、恵まれなかったとして、この男がそんな道を選ぶような気はしなかった。  むしろそれを選ぶくらいなら自分で舌を噛み切って死んだ方がましだと思うような気がする。 「ハ、なんだそりゃ。どうしても聞きたい内容がそれかよ…物好きだな。  というか、ブライバシーとかデリカシーとか、日本人ってのはもうちょっとしっかりしてると思ってたけどな」 「…う……すまない……」  呆れた、という代わりに見下すような視線が投げられる。だが怒ってはいないようだ。むしろ何かを考えるように瞳がくるりと上を向き、そしてもう一度俺を見た。 「……色々言いたいことはあるが、面倒臭ぇ。簡単に答えてやるよ。  俺とアイツの関係か。一言で言えば単純だ。  親子だよ。  忌々しいが、アイツは俺の実の父親だ。つっても…母親なんざ居ないがな」 「……――――え……?」  親子…?  その言葉の意味が一瞬わからなかった。ゆっくりと思考がその音に追いついて、言葉の意味を思い出したころには、あまりのことにまた、泣きだしそうになった。  なんだ、それ……  親子…ってことは……アサトは、京介は……  結びついた答えに、耐えられなかった。あまりのおぞましさに、吐き気すら感じるほどだった。  じゃあ、アサトはあいつに……あの男にそうやって教育されたから…こうなってしまったのか。  生まれた時からここにいて、そして…ずっとあの男とそうやって過ごしてきたのか…。  それじゃあ、最初からあいつは、こうするために…… 「おいおい、聞いといて吐きそうだってツラすんなよ。お前が望んで聞いたんだろ?…後悔すんなよ」  あの低い笑い声を響かせてじっとアサトがこちらを見ている。その表情が今になって酷く悲しいものに思えて、また、頬を涙が伝って落ちた。 「なんで…そんな……あんまりだろ。そんなことってあっていいのかよ。  なあ、アサト……どうして逃げないんだよ……こんなところにいたって…あいつに…」 「じゃあお前はアイツから逃げられるのか?さっきはそうできたか?」 「ッ……!!」 「…できねえことを人に勧めるなよ。イライラさせんな」  俺の両手はいつの間にか縋るように、アサトの腕をつかんでいた。それを振りほどくわけでもなくひどく冷静に俺の顔をじっとその瞳が見つめている。何を想っているのだろう。底なしの闇のような瞳の奥の感情が知れない。 「……なんでお前が泣くんだよ。本当…変なヤツだな。お前。  …今更どうってこともねえよ。  こちとら生まれた瞬間に、アイツに全部奪われてんだ。  …この身体も、心も、思考も、何もかも…何一つ俺のものじゃないって、ただそれだけだ。  全てがアイツの所有物。死すら自由にならない。  …それだけ。ただそれだけだ。  これでも四六時中アイツと一緒にいるからな。心底反吐が出そうだが、アイツがどうしてほしいとか、何が好きとか……満足させる方法とか…  そういうのは染みついてんだよ。  …それに比べりゃお前みたいな奴、その気にさせることなんてワケないってこった」 「でも…このままだとお前も…ひどい目にあって殺されて…捨てられるんじゃないのか…?そんなの…」 「はは…ひどい目ってどれのことだよ。もう今更何がひどくてなにがひどくないんだかなんてわかんねぇよ…!  ……殺してくれんならそっちのがましだ。  …あいつは意図的に俺を作った。…自分が満足できる、気に入りの玩具を作るためにな。何千、何万って作り直しを繰り返して、それをゴミみたいに捨てて…やっと成功したのが俺なんだとよ。  だから俺を手放さない。飽きてくれりゃあどれだけいいだろうな。  そんなわけだから……俺は寝てる時以外アイツに体中嘗め回されるか、それともアイツの気のすむまで痛めつけられて遊ばれるかのどっちかしか選べないんだよ。  ……お前が見せられた、あの紫の不気味な汁使われたりしてな…。  それでも…全部をなかったことにできるから性質が悪いんだよ。あいつは…。  壊すだけなら、壊しきれればいいのにな」 「…………!」  悲しくて、辛くて、もう何を言葉にしたらいいかわからない。  ただ、彼の腕を握ったこの手がどれだけ無力かってことを知らされるだけだ。  嘆きを吐き出す彼の言葉は悲しく濡れて、瞳は苦しそうに揺らいでいた。それでも…逃げられないんだ。それだけは確かにわかった。そして…誰も助けてくれる相手がいないのだということも。  どうして  こんなに触れた肌も、瞳も、温かいのに。  その心を表すみたいに柔らかいのに。  京介とは違う。親子だと言っても、彼には確かに血が通っているんだと感じさせられた。  例えば人間ではなくたって、俺と違うところなんてないって  むしろ、俺よりも愛情深いんじゃないかって  そう思うくらいだ。  だけれど彼を支配しているのは…あの善も、悪も、それどころか…愛の在処すら感じられない化け物だ。  この事実が最初に会った時よりも恐ろしさを濃くしていた。 「その薬は飲ませてもかけても同じ効果だ。どんな傷だって病気だってたちどころに治す。  さあ、行けよ。もう話すことなんてない。質問は一つだけだ。もう答える義理もない。  ……親友とやらが待ってるんだろ?さっさと行け。  …それで、もう二度と面を見せるな。  せっかく手に入れた奇跡だろ。酒でも飲んで、全部夢だって忘れろ。  俺の事も、アイツのことも……もう二度と思い出すな。わかったな」  俺が出来ないことを悟ったのだろうか。ゆっくりと穏やかな仕草で掴んでいた両手を振りほどかれた。  ふ、と最後に見た彼の顔は…  悲しく笑っていた。    ありがとう?ごめん?なんて声をかければいい?  どれもこれもその場しのぎにしかならないことは俺が一番よくわかっていた。だから、ただ一つ頷いて…目の前の重い扉を開いた。  真昼の閃光が、鋭く目を射貫いて、痛いくらいだ。  茫然と、なのに脚は着実に目的地へと進んでいた。  悪夢だったのだろうか。いや、それだったらどれだけ良いか。  この世界に確かにあんなことが存在していることを認めたくなかった。  まるで他人を消耗品のようにしか思っていない残酷で、恐ろしい男と  そして歯を食いしばって貪られるだけの悲しい男がいるってことを 「…忘れられるわけ……」  俺は確かに奇跡を手に入れた。  だがその代償は……  今見ている世界の全てが居心地悪くなりそうで  降り注ぐ陽光から隠れるように背を丸めた。  

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