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第4話
あれからどれくらいの時間が経ったんだろうか。
朦朧とする意識の中で、1週間前に見た景色と同じものを見た気がする。
夢と現の間、自分が誰かもわからないような状態で、ただ、時折薄紙を通して見えるみたいな世界を見ては、また、夢の中に堕ちてを繰り返していた。
「…ね、ね、ねえ…起きて、よ」
時々笑みを含みながらそんな音が聞こえたが、その意味を理解するより早く意識を手放してしまっていたのだからどうしようもない。結果から言えばむしろそれでよかったのかもしれないが。何せアイツの気味の悪い触れ方や姿をまともに見なくて済んだのだから。
漸く意識が鮮明になるころには、覚えのない行為の痕と、渇いた体液の不快な感触に眉をひそめていた。
「………」
またやられた。そう気づけばため息しかでない。京介の力の恩恵を受けない身体じゃあ気づかないうちに何度絶頂を味わわされたのか、まるで数キロを全力疾走させられたんじゃと思うくらいの疲労感がどっと押し寄せて、和紙と木でできたランタンの薄暗い光に照らされた布団に一度は起こした身体を横たえた。その隣に、まといの不健康そうな身体が寄り添わされる。本当に不快だ。それ以外の感慨もない。
「…お、お、おはよ…起きたん、だね。アサトくん…。ふ、ふ……全然、起きないから……そ、そ、そのまま、しちゃった。…や、やっぱり、君の身体って…す、すごいね…。眠ったままでも…い、イけるし…すっごく、気持ちいい…。ふふ…でも、眠ったままのが…声は、可愛かった、かな…?ちょっと、あ、甘えるみたいに、さ…」
「…黙れよこのクソ野郎。好き放題やりやがって……お前とはしねえって言ったはずだろ…」
「で、で、でも……勝った方、が…好きにできるって…君のルールだって、そ、そ、そうでしょ?」
「………」
出た。また京介の入れ知恵か。どうやらアイツはまといのことを異様に気に入ったらしい。俺を黙らせる手口をいくつも吹き込んだんだろう。確かにそりゃあ俺のルールだ。そして、俺はコイツに不意を突かれたとはいえある意味負けた。だからそれを言われたら返す言葉もない。できるとしたらただ小さな舌打ちだけだ。生憎自分が普段してることを他人にされて、俺はいいんだと言い張れるほど面の皮は厚くなかったようだ。そんな自分にもうんざりする。
「き、き、君が起きたら…そ、その……ふ、普段、京介さんにしてる…みたいに…、して、って…お願い、し、しようと思ってたんだけど…」
マジかよ、どんだけ強欲だ。細い上に薄っぺらい上半身を持ち上げて、奴が俺の上に覆いかぶさってくる。だが、俺の手首を掴んだ手には殆ど力が篭っていない。どころか、預けて来る身体はぐったりとして俺以上に疲弊しきってるようだ。
「……ひ、ひとまず…休憩、しよっかぁ…、お、お茶でも、飲んで…や、やりすぎちゃった…」
「…………」
バカかこいつは。
「……ふ、普段、お客さんなんて…よ、よ、呼ばない、から…こ、ここくらいしか…座るとこ、なくて…」
心底どうでもいい言い訳をされながら、通されたのは例の工房だった。汚い布団の上にいるのも、そもそも寝室でコイツと裸で二人きりというのも気分が悪い。だからお互い重い体を引きずってここまで出てきたというわけだ。とはいえ服は、どれだけ飢えていたのか知らないが、まといに散々汚されてダメにされていたから借り物の着物を着るしかなかった。体中から線香みたいな匂いがして俺の不機嫌をより一層引き立てる。だが変な所で肝の据わってる目の前の男は前回と同じようにあの苦い茶を入れて、俺の不快も不機嫌も全く意に介さないまま笑顔でそれを差し出してきた。
「…あ。…も、もしかして、り…緑茶、苦手?ま、前も飲まなかった、よね」
「気付いてんなら出す前に聞けよ」
今更聞いたところで既に淹れてしまったもんはどうしようもないだろうがと、じろりと奴の顔を睨むと困ったようにまたへらへらと笑っている。本当に、つかみどころのないヤツだ。掴みたくもないが。何を考えているのかがまったくわからない。京介とはまた違うが、不敵な様子を見せたかと思えば、とたんに自信なさげにする。態度に一貫性がないから、余計に不気味に感じる。
え~っと…なんて言いながら視線をきょろきょろ動かして、はっと何かを思いついた様子を見せた後、今度はどこかに向けて手を2回、ぱんぱんと叩いた。
「……何だよ突然…うるせーな…」
「……はい」
「…は…?!」
何してんだと見やった奴の背後へ、そっと近づく影に驚いた。まとい以外に住んでる奴がいたのか…。いや、こいつの作った人形か?ともかく、フードを目深にかぶって、うつむき加減に奴の指示を待つ人影の顔はこちらからでは見えない。だが…その声は聞き覚えがある。
「…あ、あ、あのね…、外で、飲み物、か、買ってきてもらって、いいかな?
そ、その…彼、に。え、え、えっと、何がいい?」
「……なんでもいい。甘くなけりゃな」
「………」
「あ~…コーヒーでいい。ブラックで」
「わかりました」
そんな明らかに困ったって雰囲気を出すなよ。お遣いを頼まれた人影は、俺と同じくらいの身の丈があるわけだから、子どもではないはずだ。しかしどこか物知らずな様子で、なんでもいい、なんて抽象的な答えじゃろくなものを買って来そうになかった。漸く迷いなく歩き出した背中を見送って、隣に座ったまといに視線を戻す。
「お前以外に住んでる奴がいたなんてな。こないだは見なかったが……あれも人形か?」
「…う、う、うん、そう。ぼ、僕の作った人形…。だ、だから、こ、この間はまだ、いなかったんだ」
「…そうかよ」
あの胸糞の悪い話を思い出した。
もう完成品なのか、それとも素材なのか知らないが、お使いに行った人影が人形だというのなら、やはりそれくらいのことは出来る知性を持ったものが素材ってことだ。人間か、はたまた、化け物の類か…わからないが、どのみちまといのやっていることが外道そのものであることには間違いがない。チ、と小さく舌打ちをして、奴との会話を打ち切った。だが、奴のほうはそんなことはお構いなしだ。頬杖をつきながら身を乗り出して、むしろ俺の表情をほほえましいとでも言いたそうに見つめている。
「…んだよ…、見てんじゃねえよ。気色悪ィな…」
「……ぁ、…ご、ごめん…。…ふふ…だ、だって…、ほら…おれ、いったでしょ…?き、き、君のファンだって…
君のこと…いっぱい、知りたい、から…。つ、つい……」
「………気色悪」
ギシ、と木造の椅子を軋ませて、露骨にヤツから顔を背けた。ここまで嫌悪感を露骨に見せられといて、一歩も退かないのはある意味才能なんじゃないかとすら思う。…まあ、どうせコイツも京介と同じ。俺の事なんて、対等とも思ってないから出来るんだろう。そういう考えが苛立ちに拍車をかけるとわかっているのに、どうも俺も自分を苛めるが好きなのか、つい考えてしまう。露骨に踵で床を叩き、深く息を吐くと諦めの悪いまといが顔を覗き込んでくるのがわかった。
「あ、あ、アサトくん、は、さあ…。う、う、生まれた時から、き、京介さんと、一緒に、いるの…?」
「…は?」
「い、い、いや、気になっただけ、なんだけど…、し、し、知りたい、なあって」
沈黙に耐えられなかったのか、心底どうでもいいが心底ムカつく質問が飛んできた。
思わず見たくもない顔を睨み返すと、相変わらずおどおどとした表情を浮かべているから余計に腹が立つ。だが、どうやらこのままバックレることを許してくれる様子もない。当然だが。はあ、とわざとらしく大きなため息をつくと、再び顔を背けて頭を掻いた。
「…こんなこと口にすんのは死ぬほど嫌だがあえて言ってやるけどよ…親子っていう言葉の意味がわかんねえのかよ?」
「…ぇ、…あ…ッ…、そ、そう…だ、ね。…まあ、そう言われると、そう、なんだ、けど…。ほ、ほ、ほら…おれたちって…う、うまれが…人間みたいに…ハッキリしないことが…あ、あるっていうか、さあ…?」
「………あぁ…」
何が言いたいのかは全然わからん。全然わからねえが、結局、こいつは自分がそういうクチなんだろう。なんども反芻するように、「へえ、そうなんだ」とか「ふうん」とか言っている。突っ込み待ちなのか知らないが、鬱陶しい。おかげでこちらは思い出したくもない記憶を呼び起こされそうで、余計に腹が立って仕方ないというのに。これ以上口を開きたくないとばかりにだんまりを決め込むと、居心地の悪い沈黙がしばらく続いて、それから漸くヤツが多めに空気を吸い込んだ音が聞こえた。
「…お、お、おれね、…け、煙の妖怪、な、なんだ…。み、み、見てたら、わ、わかると、思う、けど…」
「…ハ、確かに。死ぬほど今更だな」
くだらない、というように鼻で笑い、吐き捨ててやるがどうやらそこで話は終わりじゃないらしい。しゃべり方も、タイミングも、何もかもが間の悪い口ぶりで続きがその唇からこぼれていく。
「…そ、そ、そう…。に、日本、では…え、え、えんえんらっていう、種類…?み、みたい。
で、でも…おれは、他に…な、な、仲間に会った事なんて、な、ないんだけど…。
う、生まれたときから、ひ、ひ、ひとりで……。い、いつの間にか…そう、う、うまれてたから…
親、とか…友達、とか…よ、よくわからない、…そういう感じだったんだあ」
「へえ…」
「だ、だ、だから、ね…
だ、誰かと…つ、つながりがある、って…な、なんだか…その…いいことだ、なって思う…、んだ。
おれも、そ、そんな…つ、つながりが、欲しい。…って、そう、思ってたから」
「…そうかよ。…ない方がましな繋がりだってあるけどな」
一体何が言いたいんだか知らんが、随分俺と京介の関係のことを美化しているようだ。家族だとか、絆だとか…そんなもんじゃない。無い方がましどころか、天国か地獄かってくらい忌々しい繋がりがあるってことを、俺は身をもって知っている。そんな俺に一体何が言いたいのか。前向きな言葉でもかけて懐柔しようってのか。とにかく、不快だ。視界にすらその姿を入れないようにいよいよ逆方向に顔をそむけると、諦めたのかそこまで回り込むことはなかった。
「そう…、そ、そうなの、かなあ…?お、おれには…わからない、けれど。
で、でも…おれは…、なにか…つ、つながりが欲しくて…。…繋がってる、相手、欲しいって…、ずっと…思って、そう、…思ってたんだ…。だから…」
「…だから、人形を作ったってか?」
「!………、……そ、そう…」
「ッハハ…!そりゃまた悪趣味だな…!自分のエゴのために他人巻き込んでお人形遊びとはな。
…まあ、今更お前の気色悪ィとこが1つ2つ増えたとこでどうなるってわけでもねえけどよ。
…ただ……」
「……た、ただ…?」
そこまで言って、ふと、口を閉じた。
これ以上だはダメだ、口にしたら。
…このクソッタレのために、俺が傷つくことになる。
もう今更、そんなことで傷なんか増やしたくないんだ。
…つくづく、こんな自分が嫌になる。
―京介さんと全然似てないんだね―
まといの言葉が頭の中で繰り返されて、酷く苦いものでも食わされた心地だ。
…気分が悪い。
「……何でもねえよ。…じゃあ、思い通りになってよかったな。”天才人形師”とやら。
今ならもう、お前の欲しいモンなんて、いくらでも作り出せるだろ。それこそ、使い捨てできるくらいにな」
だから、俺なんかにわざわざ手なんか出さなくても良いだろうに、つくづくむかっ腹の立つヤツだ。
けれども、睨みつけたその瞳はわずかに揺れて、くるりと周囲を見回した後、またこちらに向けられた。
「………い、いや……、で、でも……その…。お、おれだって…、こ、好み、とか、ある、から…」
「……は?…だから言ってるじゃねえか。お前の好みのヤツを作ればわけねえってよ。
お前がどんだけ相手にされねえような男だって、お人形ならお前の言いなりになるんだろ?」
「…そ、そ、そう…なん、だ、けど……」
何とも歯切れの悪い言葉を繰り返しながら、その視線がずっと揺れている。まるで言いたいことを隠しているようで、むずむずする。
と、その指先がするりとこちらに延びて、目の前で止まる。触れられるかと思って身構えたが、どうもそうではないらしい。ゆっくりと背を屈め、奴が顔を近づけて来た。思わず払いのけたくなったが、その瞳がどこか…今まで見たこともないような寂し気な色をしているから、つい、反応ができなかった。視線が合わさったまま、動けない。
「……そ、う…なんだ、けど…。
…お、お、おれは…ずっと、1人で…生きて来た、から……、だ、だ、誰か、と一緒にいるって…あんまり、想像、つかなく…て。
…た、た、ただ、美しいだけ、なら…いくらでも…作れる。…で、でも…僕は、美しいから、好き、とかじゃなくて…。
……や、…や、やっと、見つけた。やっと……一緒にいたいなあ、って…お、思える…ひと」
「……はぁ……?」
要領を得ない内容のせいで、何が言いたいのか全く伝わってこない。
ただ、その瞳が相変らずこちらを捕えて離さないから、逃げることができないだけで…―
「…あの」
「!」
野郎2人で見つめ合うなんていう、薄気味悪い状況はその一言で打開された。
傍らから響いた声に弾かれるように視線を向けると、そこには先程お遣いに出たフードの人影がぽつんと立ち尽くしていた。片手にリクエスト通りのコーヒー缶を持って。
「ぁ、お、おかえり…!よ、よくできた、ねえ…!」
「……はい」
立ち上がったまといが缶を受け取り、くしゃりと頭を撫でる。それを嫌がるでもなく受け取ったそいつは、フードの下からこちらを見て…―
「……―――…!!」
フードの陰に隠された顔がこちらを見た時、思わず心臓が凍り付きそうになった。
その…顔は…―…!
「……な…んだ…よッ…!これッ…!!!!」
椅子の倒れる音が、けたたましく部屋に響く。
だが、それよりも心臓の音のほうがよほど五月蠅い。
フードの下の瞳は…―蒼色だ。
蒼い光が2つ、こちらをじっと見据えている。
けれど…それ以外は…―…!
「……ぁ、…あは、…気づいちゃった…?ふふ…ほ、本当はもうちょっとしたら…ば、ばらす、つもりだったんだけど…」
ささくれだった指先が、目の前の男のフードを指で払い落す。
陽の光にさらされた青年の顔は、どこからどう見ても……
…俺だ。
その顔立ちも、背格好も、そうだ、どこかで聞いたような声色も…
全部、俺そのものだ。
唯一、瞳の色が違うだけ……。
心臓の裏当たりが凍てつくように冷たい。
そうだ…意識を失う直前…まといが言っていた言葉を思い出した…
この人とそっくりな人形を造って と
外見も、中身も、性格も…
自分が本人であると認識している人形を造ってと言われる時
最後に、やらないといけないことがあると
…それを、見せてあげる と…
今、漸くその発言の合点がいった。
ひどく不気味で…知りたくもない事実だったが…知ってしまった。
目の前に立っているこの、鏡のような男がその証明だ…。
「…そういうことかよ…。
…なんで、てめえの気色悪い人形作りなんざ見せられなきゃならねえんだと思ってたが……
想像のはるか上を行く気持ち悪さだぜ…、クソ野郎…
その人形はてめえ用ってわけかよ……」
じっとこちらを見つめる人形の後ろから、するりとまといの指先が巻き付いていく。
枯れ枝のような指先が頬を撫で、それなのにその瞳はじっと俺のほうばかりを見つめている。
「…ふ、ふ…、そ、そう…。
お…おれの…、おれだけの…人形……。
よ、よ、漸く…作れたんだ……。
お、思い通りの姿なら…いくらでも、造れる、のに…。いくら、造っても……違うんだ。
…だから…、人形…造りつづけた、んだ…。
い、いつか…おれのための…おれが…一緒にいたいって…お、おもえる…人形に…
そ、その…モデル……
あ、アサトくん…!…き、君がふさわしいって…!」
「…―――…!…クソが…!」
やたらに饒舌なまといの声色は、今までにないほど熱を帯びたそれだった。
見開かれた瞳の中に浮かぶのは……明らかな狂気だ。
そして、耳元でこんな狂った会話を聞かされてるっていうのに、表情一つ動かさない、俺と同じ姿をした男…。
その光景すべてが、不気味だった。
人形の髪に鼻先を埋めながら、そのくせ頭の中では俺に重ねているのか、じっとりと欲と狂気を湛える視線がこちらを見つめている。俺のことを見ているようだが…違う。
こいつは、自分の世界に耽溺しているだけだ。
誰かと繋がりたい、なんていうくせに、本当に求めてるのは他人なんかじゃない。
……こいつがしたいのは、本当に人形遊びなんだな。
「……哀れなヤツだな…。お前…。
自分の言いなり人形に囲まれて、幸せかよ」
「……ふ、ふ…、い、意地悪、だなあ、アサトくん…。
だ、だって…君は、き、京介さんのもの、だから…て、手に入らない、でしょ…?
だ、だから…こうするんだ…。…ぁ、で、でも…目は…蒼のが似合うなあって、思って…そ、そうしたけど」
バカが。たとえ手に入るとしたって、お前は一緒だよ。
そう口にしてやろうかと思ったが、そこまで親切にしてやる必要もないから、やめた。
そのかわり、相変わらずじっとこちらを見ている人形に視線をやる。
…コイツには自我があるのか、どうなのか。
元はどういう姿だったかなんて知らないが、今じゃあすっかり俺と同じ姿だ。美しくもなんともない。こいつもまた、哀れな奴だ。
「……それで
最後にやることってのは…オリジナルに会わせるってことかよ。
…だとしたら
人形野郎、お前は本当にそれでいいのか?」
恐らく、この状況から考えて、最後の仕上げってのはこういうことだろう。
実際にオリジナルになったものを観察させて、擦り込んでいく。
どういうやり方かなんて知りたくもないが、その結果、自分をモデルとなった人物本人だと思い込んだ人形が出来上がると…。まといが口を挟まないあたり、おそらくその推測は正しい。
…けれど、だとしたら
コイツは本当にそれでいいのかよ
嫌だと言われたって、俺にどうすることもできないが
どうしてもそれが気になった。
「……お前だよ。人形野郎…。口きけねえのか?」
まといにまとわりつかれながら、ただ、じっと学習するかのように俺を見つめる男に問いかけた。まあ、最早この時点で自我なんて失われているかもしれないが。それでも蒼い瞳をじっと見つめていると、ゆっくりと唇が震えた。
「………僕は…、それでいいよ」
「……!」
随分と幼いものの言い方だ。俺とは全く違う。
…そして…やはり自我があったのか。その事実に唇をきつく噛んだ。
「…なんでだよ。お前…このままだと自分の事も忘れちまうんだぞ…。
その上、俺みたいな奴だと思い込んで生きてくって…」
いいわけねえだろ。
もうすっかり姿かたちは俺と同じにされてしまっているから、今更かもしれないが。だがこちらを見つめる瞳に迷いはない。ただ、静かに瞬きを繰り返すばかりだ。
「…いい。…どうせ…僕が僕のままでも…奴隷になっただけだろうから…。
このひとに買われなければ…そういう運命だったんだもん」
「……なるほどな」
「…それに」
「ぁ…?」
「無くなったほうがどんなに楽かって、思うこともあるから」
「――――!!」
それ以上は、もう何も言えなかった。
腹の中にあった疑問も、不満も、不気味さも、やるせなさも、全部全部、どこかに消し飛んだような。
…いや、むしろ
共感してしまったのか、俺は。
自分が自分じゃなくなったら、どんなに楽かと……
わかってしまったから、それ以上言葉が出なかったんだ。
「…そうかよ。…じゃあ、せいぜいそいつに可愛がってもらうんだな」
漸く出たのは、悪態じみた言葉だけだった。
まといが何かを言っている気がしたが、それも無視して踵を返す。どうせろくでもない事だ。大方続きをしようだのなんだのと言うつもりだろうから、さっさと帰るに限る。
京介に言いつけられようが…別に構うものか。
「…ありがとう、貴方、優しいんだね」
「……うるせえ。そんなんじゃねえよ」
背にかけられた言葉に吐き捨てる。
優しくなんかない。俺が、優しくなんてあってたまるか。
優しさなんて、さっさと捨ててしまったほうが楽なんだよ。
だから俺は―…
「…は?」
工房の出入り口に差し掛かったあたりで、突然京介から持たされた連絡用の端末が震えはじめた。
なんだ…?
早すぎる…。
改めて時間を見ても…まだここにきてから1日と経っていないのに…
ざわつく胸を抑えながら通話ボタンを押した。
『ああ、アサト?ふふ、急に悪いんだけど…戻ってきてくれる?出来るだけ早めにね』
「…―…!…ああ…」
クソ
嫌な予感がする。
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