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第1話
「あ、オレの野菜ジュースがない」
思わず声に出した後、しまったと振り向いた。
こちらに背を向けてソファに座る同居人には聞こえていなかったようだ。
聞かれていたら朝から面倒くさいやり取りになっていたのは容易に想像できるだけに、一人安堵した由人(よしと)は静かに冷蔵庫の扉を閉めた。
仕方なくそのままお湯を沸かし、インスタントのコーヒーを入れたが、既にトースターから出していたパンは冷えてしまっていた。
(……くそ……)
不愉快さの原因である相手を視界に入れて食べたくない。だが、同居しているこの部屋はさほど広くもなく、由人は数歩歩けばたどり着けるソファには行かず、流しに凭れて立ったまま食べ始めた。
同居を始めてもうすぐ二年。
これが男女ならばそろそろ、なんて互いの両親と顔合わせに発展するのだろう。
(……朝から何考えてるんだか)
冷静な思考を取り戻すために、目の前でテレビを見る相手の後頭部をじっと見つめた。
自分はゲイだと自覚したのはお年頃になる頃で、自分が同性相手にしか興奮しない人間なんだと気づいた時はそれなりに落ち込んだ。
普通ならここで日々悩み暗い思春期を送ったりするのだろう。
ゲイだと自覚してまず由人が起こした行動は、母にそれを打ち明けることだった。
中学校から帰宅した由人は、風呂場のタイルを丁寧に擦り掃除する母の背中に向けて、ただいまと言った後そのまま打ち明けたのだ。
母は泡のついたスポンジを手にしゃがんだまま振り向き、あぁ、そうだったの。へぇ。それだけ言うとまたタイルを洗い出した。
それだけ?由人がそう言うと、何言ってんのよ、と偉大な母は曲げていた腰を伸ばして立ち上がり、ゲイ宣言をした息子を見て呆れた顔をした。
【それ、母ちゃんが言って変わるもんじゃないでしょ。安心しなさい。幸い母ちゃんは自分の息子を世界で一番可愛い男だと思ってるから】
よその家庭からすれば少し変わった母だったが、とにかく彼女は懐が深い。
その時、母の言葉に感動しながら由人は思ったのだ。
人生を共にするパートナーは、母のように懐深い人にしよう、と。
(は~、何でこう正反対の奴と同棲してんのかな~、俺)
大学二年の時に友人を介して出会った。切れ長の目は鋭く、とても男らしくて痺れるような衝撃を受けたのだ。
(ビビッときちゃったとか……なんか今考えたらバカだな)
冷めきったトーストは美味しくなくてコーヒーでなんとか流し込むと、そのまま向きを変え皿を洗い出した。
「由人、さっきからなにぼんやりしてるんだよ」
背中にのしかかってきた静樹(せいじゅ)に心臓が跳ねた。
「べ、別に」
「……ふぅん。なぁ、俺今夜は職場のヤツらと飲みだから遅くなる」
肩に乗せられた彼の腕は、由人より逞しくずしりと重い。
話す声も耳に近く、身体が揺れてしまいそうになるのを何とかこらえた。
接触は嬉しい。だがそれとは反対に聞かされた言葉は辛かった。
「わかった、飲み過ぎんなよ」
「誰に言ってんだよ」
薄く笑う声が耳元で聞こえたせいで、彼の息が耳にかかった。
静樹はすぐに由人から離れ、出勤の準備の為に洗面所へと向かったようだ。
由人は手のひらの中にある柔らかなスポンジを強く握りしめた。
親にもゲイである事をあんなに簡単に言えた自分なのに、恋人である彼には思った事を口にするのが苦手だ。
上手くいっていない訳では無いと思う。
日常もこうして触れてくれるし、キスもしてくれる。
ただ、普通の恋人と違う所はひとつ。
「はぁ?まだセックスしてへんの?」
控えめにジャズの流れる雰囲気の店で大声で言われてしまい、由人は慌てて目の前の友人の口を塞いだ。
「声が大きいっ」
「ええやんか、ここはそういう店やねんから」
ジャズが流れる店内はさほど広くはないが、静かに酒を楽しむ客達は全て男性だ。
歓楽街の外れにあるこの店には、よく見ないと気が付かないような小さな看板があるだけの外観で、ひっそりとしている。
「そうだとしてもだよ。大きな声でそんな……下品だし」
「あ~、そうでっか。下品な言葉で悪ぅございましたなぁ」
シックな雰囲気の店だが、若者が普段着で入ってもそれ程浮かない気軽さもあるこの店は、ゲイの間では人気の店だ。
カウンターの中には高齢のマスターがいつもそこにいて、少し飲みたい時に来てもゆったりと出来る。
そんな店で知り合った彼とはここでしか会った事はないし、お互いプライベートを深く話し合ったことは無い。
ただ彼が関西の出身だろうという事と、かなり相手を取っかえ引っ変えして楽しんでいるという事だけは知っていた。
「そこまで言ってないだろ。ただ、汐月(しづき)くんの声が大きいから注目浴びやすいんだよ」
「目立ったほうがええやんか。カウンターに座ってるんやし、オレは今夜遊んでくれる人探してるんやし」
雰囲気が良く上品に見える店でも、そこは暗黙のルールがある。
相手を探している者はカウンターに座るというもので、由人もここで一人で座っている男性が二人になって店を出ていくのを見送ったことがあった。
「……話聞いてくれるって言ったじゃん」
「せやから聞いてるやん。でもさぁ、由人クン面倒くさいんやもん」
「は?俺?俺の何が面倒くさいんだよ」
「女の子みたいに細かいことブツブツゆーとるやん」
「それは汐月君の前だけじゃん。あいつにはそんな事言わねぇもん」
「それや!」
突然汐月に指を差され驚いた。
彼はパッチリとした愛らしい瞳を細くしてわざと低い声を出した。
「本人にはよう言わんで、行くな言われとるゲイバーにコソコソ来てグチグチ言い過ぎやねん。そんなに文句あるんやったら本人に言うてスッキリしたらええやんか」
それは自分でも分かっている。言いたいことは言えばいいし、静樹は言葉遣いはあまり優しくはないが、由人が何か話をしている時は黙って最後まで聞いてくれる。
そう、完全に恋に落ちた時もそうだった。当時付き合っていた彼氏と別れたばかりの由人は、大学の飲み会で酔っ払い、静樹を捕まえて延々と愚痴を聞かせたのだ。
酒のせいで何を話したのかははっきり記憶にないが、彼は鋭い瞳を優しく向けてくれた。そうか、辛かったな。とその大きな手で頭を撫でてくれたのだ。
「ちょっと、由人クン、聞いてんの?」
「あ、ごめん。トリップしてた」
「宇宙の旅に出るのはオレがお持ち帰りされてからにしてくれへんかな」
「……汐月君はさ…、今日もし誘われたとして…、その、」
「するよ、セックス」
「じゃなくて!……その後…、つ、付き合ったりはしないの?一晩だけ?」
ずっと聞いてみたかったことを口にすると、彼は少し長めの髪をかきあげて一口だけ酒を飲んだ。
「付き合いたい思うような相手には当たったことないなぁ」
「……そうなんだ」
一晩だけの遊び。頭に浮かべたそれは、ここ数ヶ月由人の頭を占めている。
付き合うようになってからすぐに静樹とは一緒に暮らし始めた。
彼は元々ノンケで、愛想はそれほど良くなくてもそのルックスのせいでよくモテる。
キスはすぐにしてくれた。一緒に暮らすようになってすぐに、互いの肌にも触れ合った。
だがそれ止まりだ。
キスをしながら互いの濡れた性器を重ねて擦って、射精して終わり。
「……なんやの。浮気されてんの」
「…………わかんない」
社会人になって一年目。彼はそのイメージとはかけ離れた化粧品メーカーに務めている。
上司が女性で同僚も女性だらけだと話していたが、嫌そうにしていた割にはマメに飲みの席にも参加しているし、朝帰りも少なくない。
翌朝リビングのソファに放置された彼のスーツから、強く主張する女性の香水が匂う。自分のテリトリーを荒らされたような気がして捨ててしまいたくなるが、流石にそれはしたことは無い。
「あー、あれなんか。由人クンとセックスせーへんのは外の女としてスッキリしてるからちゃうかって事?」
汐月の言葉に胸が重く傷んだ。両手で包んでいたグラスを見つめていると、自分の指先が震えている気がした。
「………それこそちゃんと聞いたらええやんか。んも~、ほんま面倒くさいなぁ、由人クン」
「だから、俺は面倒くさくない。……明るくオープンなゲイだったんだよ…」
自分の性癖を受け入れてくれた家族のお陰で、ひねくれずに青春時代を過ごすことが出来たと自負している。
それは恋愛に関してもそうで、好きな相手には誤魔化さずにきちんと好きだと伝えて向き合ってきた。
例え、男は無理だと言われても、それはそれで仕方ないのだから。
なのに、静樹に対してだけはそれが出来ないでいる。
勝手に飲まれてしまった野菜ジュースの事すら、文句を言えない。
こんな関係なのに、由人は間違いなく静樹が好きだ。
それだけは彼の凛々しい瞳に捕えられた日から何一つ変わっていなかった。
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