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犬塚利一のとある一日
犬塚利一のとある一日
犬塚利一の朝は早い。
アラームをセットした時間よりも五分早く目が覚めて、アラームを止めることから始まる。起き上がり、歯磨きを済ませて顔を洗うと、すぐに朝食の用意と、同時進行で弁当の支度。朝食を済ませて、再び歯を磨いてから、スーツへと着替える。テレビに流れる朝のニュースを流し見ながらコーヒーを飲み、スマホへと手を伸ばして、見慣れた名前をタップする。
――おはよ。今日も無理するなよ。
習慣となっているのは、恋人へのメッセージ送信。
勤務先が変わって多忙を極め、遂に倒れたのは記憶に新しい。
心配するしか出来ないが、この時間に一言伝えるのが、生活の一部となっていた。返信が来ないこともあったけれど、既読は必ず着く。それだけでも、安心できた。
ジャケットを羽織り、玄関を出る。
これが、犬塚の毎朝のサイクルだった。
心を無にして、満員電車に揺られて、勤務先に着く。
犬塚の勤務先は、大手のゲーム会社の下請けとなっている小さな会社だ。プログラム技術や、企画力などを、各種ゲーム会社に売り出すのが、犬塚の営業としての仕事だった。ゲーム好きが高じて就職した会社だったが、最初は慣れない仕事に四苦八苦した。しかし、元来の器用さで、手の入れどころと抜きどころがわかってきて、今ではすっかり慣れてきた。営業成績も、そこそこだ。しかもこの会社、ホワイトである。定時退社が推奨され、給料も安定しているので、職場には何の不満もない。
「犬塚さん、おはようございます!」
オフィスに着くと、爽やかな挨拶が聞こえる。これも毎日のことだ。
「おはよう」
スーツ越しでもわかる胸筋、歯を見せる眩しい笑顔の持ち主は、後輩の村山だ。秋の後輩の友人であり、思えば彼から合コンの誘いがあったからこその出会いだった。当時を思うと、懐かしくすらなる。
「やっと金曜日ですね」
「待ち遠しかったのか?」
「今夜デートなんで」
「いいねえ」
へへ、と照れくさそうに笑う後輩の肩を、軽く小突いてやった。
彼もまた、あの合コンで出会った筋肉フェチの彼女と無事にお付き合いすることができ、今も仲睦まじくやっているらしい。たまにこうして、幸せそうな報告が聞ける。
「犬塚さんはどうなんすか」
「ん?」
「あの後、何もないんですか?」
「ご心配なく」
「はあ」
「毎日幸せだよ」
「マジすか、え、マジすか?」
タイムカードを切るところまで着いて来て、興味津々といった様子を隠さずに何度も聞いてくるから、つい笑ってしまった。村山はこうして犬塚のプライベートを度々聞いてくることがあるが、その度に誤魔化している。
「最近職人ジョブのレベルが全部カンストしてさ」
「へえ、すごいっすね」
「そう、何でも作れるし金にもなる」
「さすがっす」
「な、幸せだろ?」
「そっすね、……え!?」
「ほら、朝礼始まるぞ」
「あ、うす」
ゲーム好きなことを公言はしていないけれど、村山にはたまにこうして話している。彼は、どうしてこの会社に就職したんだ、と聞きたくなるほどにゲームに関しては疎いから、誤魔化す口実に丁度いい。
朝礼が始まれば、あとは、業務開始、だ。
おおまかに、相手先に出向いて直接営業する日と、オフィス内で営業の資料を確認したり作成したりする日がある。今日は後者で、パソコンに向かう時間が長い。そういう時にだけ使うブルーライトカットの眼鏡を掛け、カタカタとキーボードを叩いていく。
上司の愚痴を笑顔で聞いたり、営業先に電話をかけて日程の調整をしたり、後輩に指示を出したりしていれば、あっという間に午前中が過ぎ、お昼の時間になる。やっと、眼鏡を外して、肩を回した。座りっぱなしは、流石に堪える。
「犬塚さあん」
昼休憩の時間が始まると、まずはこの、猫なで声を聞くのが日常となっていた。
声の主は、後輩の女の子。胸を強調するシャツと、短すぎるスカートが目に毒だ。男性陣には人気があるらしいが、犬塚は最初から苦手意識を持っていた。ぐいぐい来る女子には、いい思い出はない。
「一緒にお昼行きませんかあ」
「あー、ごめんね、俺お弁当」
毎日毎日同じやり取りなのに、何故諦めてくれないのか。
弁当箱の包みを持ち上げて見せてみると、「あ~ん!」と身をくねらせて残念がる。
「もー、いつになったら一緒に行ってくれるんですかあ」
「ほら、もういいでしょ、早く行こ」
「あっ、今度あたしもお弁当持ってくるんで」
「ほらほら行こう」
「一緒に食べましょうね~~~!」
頼れる女子社員二人が両サイドから彼女をがっつりホールドして、連れて行ってくれて感謝するしかない。次は敢えて弁当を作って来ない方向で行こう、と胸に誓う犬塚だった。
「モテる男も大変っすね……」
同じく弁当を手にした村山が、しみじみと呟いた。
軽く肩を竦めて、席を立つ。
天気が良い日は、屋上で食べるのが気持ち良い。
解放されている屋上は、四方が高いフェンスで囲まれ、バレーボールやバドミントンができるコートも設置されている。今日は爽やかな晴れ空だ、実際にバレーボールに勤しんでいる社員たちも多い。
村山もくっついてきたがそのままにして、犬塚は設置されているベンチへと腰掛けた。
そこで漸くスマホを出すと、珍しく、メッセージの受信を知らせていた。
『犬塚さんありがとー! 今日超元気! 行って来ます!』
そのメッセージの後、二人がやっているネトゲのキャラが「がんばる!」と宣言しているスタンプが押されていて、つい口許が緩む。手で覆って誤魔化しながら、もう片手で返信をする。
『今晩家に行ってもいいか』
まあ返信は夕方かな、と画面を閉じようとするが、意外にもすぐに既読がついた。少し待つと、新たなメッセージが下に続く。
『マジ!?! もちろん!! おなしゃす!!』
『了解、ご飯作っておくな』
『ありがとう犬塚さんあいしてるー! 午後もがんばります!』
愛の言葉の安売りに思わず肩を揺らしたら、隣の村山が「どしたんすか」と驚いている。それはそうだろう。緩く首を横に振って、スマホをしまう。
「いや、ゲームの話」
「そうなんすか……」
「なに」
村山が惚けたように見てくるから、つい尋ねると、ぱち、と瞬いた。
「本当に幸せそうだなあって」
「ああ、」
朝の会話を実感したんだろう。
きっと村山の頭の中では、ゲームと犬塚の幸せが結びついているはずだ。
「幸せだよ、すごく」
そして大きく頷いて言うのは、決して嘘でも、誤魔化しでもない言葉。
「ねえ見た? 犬塚さんのあの笑顔!」
「最近すごく幸せそうよね~」
「絶対彼女できたわよね~」
「あ~ん、狙ってたのに~!!」
「あんたじゃ絶対無理だって」
――とは、そのやり取りを遠目から見ていた女子社員の話。
午後も同じような業務だ。月曜日に行く営業先の資料をまとめ、最終確認をし、上司の愚痴を聞いて、後輩のミスをフォローしたら、もう退勤時間だ。他の社員と同様に帰り支度を始め、定時で会社を出る。
この話を秋にしたら、「マジっすかそんな真っ白な会社があるなんてマジで信じられねー羨ましいあっ俺転職していいですか!」と血走った目で言われた。
――今夜は労ろう……。
倒れてからは、多少の負担は減ったようだが、それでもまだ帰宅の時間は遅い。以前は毎日のようにインしていたネトゲでも、平日は全くアキの名前は見かけなかった。
土日は、今日のようになるべく秋の家に行って料理を作るようにしている。過保護と言われてしまえばそれまでだが、嬉しそうに見えるので、まあいいだろう。
今日の夕飯は、秋の好きなオムライスだ。
会社帰り、秋の家の最寄りのスーパーに寄って、材料をカゴの中に入れて行く。自分だけなら質素になりがちな食事も、相手がいると、色々と考えるようになるから不思議なものだ。秋が好きな、生クリームの乗ったプリンもカゴに入れて、会計を済ませた。
時計を見ると、もう18時だ。まだまだ仕事を頑張っているであろう彼のことを思い描きながら、恋人の家へと急いだ。
――合鍵を使うのは、まだ慣れない。
キーケースに自宅の鍵と一緒に掛けているシンプルな鍵を取り出し、オートロックを解除するこの瞬間は、妙な緊張感が走る。人知れず息を吐きながら、エレベーターを使って、部屋へと向かう。
部屋の扉を開ける瞬間が、二度目の緊張の時だ。鍵を回し、扉を引く。家主がいる時とは打って変わって、暗く静かな部屋が犬塚を出迎えた。電気を点け、部屋の中へと入る。
スーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツ姿になって、買ってきた食材を早速冷蔵庫へ仕舞った。最初に来たときには、ほとんど何も入っていなくて驚いたものだ。今も、犬塚が週末に買ったものの名残が中心になっているのだけれど。
ワイシャツの袖を捲って、キッチンに立つ。料理は元々嫌いではない。しかし最近は、その先にある、「超美味い!」と美味そうに食べる恋人の顔を見るために行っている節がある。――それも、悪くない。
包丁で鶏肉を細かく刻みながら、ふと目についたゲーム機に、いつもならばこの時間にはログインしているネトゲを思い出した。
小さい頃からゲームをするのは好きで、生活の一部だと言っても過言ではない。有名タイトルは網羅してきたし、マイナーゲームにだって手を出してきた。ネトゲも同様で、話題に上がるようなゲームには一通り触った。合わなくてすぐに辞めるものもあれば、今プレイしているゲームのように、長く続けられるものもあった。慣れない頃には、ネトゲ特有の人間関係に疲弊することもあったけれど、今では適度な距離感を掴めるようになった。
『すみません、誰かウェルトン手伝ってくれませんか』
アキが初めてしたというチャットを思い出した。
『いいよ、自分も丁度行くところなんだ』
偶然にも進度が同じだったから、気まぐれでそう助け船を出したのが、始まりだ。インする時間も同じくらい、進行度も同じ、幾重の偶然が重なって、毎日のように一緒に遊ぶようになったのだ。
『ごめごめん、電車がめちゃくちゃ混んでてさー』
偶然とは怖い。
後輩の村山に、「最初誘ってた友達が急に駄目になっちゃって、犬塚さんこういうのあんまり好きじゃないと思うんすけど、来てもらえませんか……」と頭を下げられてしまい、渋々参加した合コンで、遅れてやってきた男の存在感は大きかった。
無造作に整えた明るい茶髪、たれ気味の大きな二重が目立つ甘めの顔立ちという整った見た目とは裏腹に、明るく砕けた言動と、さりげない周りへの気遣いに、モテるだろうな、と思ったが、現実はそう甘くないらしい。
『カノジョとか恋愛とか、そーゆー気分じゃないんだよね、今ー』
合コン帰りにほろ酔い加減でそう言っていた彼が、
『俺のこと考えてくれてんのはすげー嬉しいんだけどさー?』
『その間に他の人と結婚されたらって思うとさあ』
まさか、ネトゲでのことを、酒に任せて零してくるとは思わなかった。
時折、似ているな、と思うことはあった。
言語センスだったり、素直な感情表現だったり、何かしたら必ずきちんと礼を言ってくるところだったり。勘違いや偶然で済ませていたことが、このときの彼の発言が、決定打となったのだ。
――運命というのは、存在するのかもしれない、とも思ったのも、このときだ。
コンソメのスープを温めて、出来立てのチキンライスにふわふわの玉子を乗せたときに、ガチャリと玄関のドアが開いた。着崩したスーツ、黒いデイパックを背負った秋の姿が見える。
「おかえり?」
「た、だいま! うわあすげー美味そうな匂いする! わー犬塚さんありがとうありがとう超ありがとう……!!」
キッチンに立ちながら緩く身体を傾けて出迎えると、目が合ってから急いでスニーカーを脱いで廊下に上がった秋が、後ろから抱きついてきた。笑って受け止め、ふわりとした頭を撫でてやる。
「一日おつかれさま」
「犬塚さんもでしょー、スーツで料理中とか……マジ、かっけーっす……」
身体の向きを変えて正面から抱き返し、背中を撫でると、秋の頭が肩口に乗る。しみじみと言う様子に笑って、頭をもう一度、ぽん、と軽く叩いた。肩を軽く押して、離れるように促す。
「飯からにするか? 風呂入る?」
「それとも俺、って続かないの?」
「それは最後のお楽しみ、だろ」
「じゃあ、飯からの風呂、からの犬塚さんでおなしゃっす」
「はいはい、了解」
いつもの軽口に肩を揺らし、「そうだ」と、秋の顎を指先で捉えて、掠めるような口付けをその唇に落とした。秋は突然のことに一度瞬いて、時間差でじわりと赤くなる。数え切れないくらいしたキスにも、未だ慣れないらしい。
「おかえりのちゅー?」
「忘れてたからな。ほら、支度」
「うっ、犬塚さんマジずるい……」
背中を丸めてリビングへ向かう秋の後ろ姿を目で追いかけて笑みを深め、犬塚は夕食の準備を終わらせた。盛り付けた皿をリビングのローテーブルまで運んで行く。
スーツを脱いで、Tシャツとスウェットという部屋着に着替え、手を洗ってきたらしい秋が改めてリビングに入り、テーブルに置かれたオムライスの皿を見つけると、目を輝かせた。
「うっわ、マジすげー美味そう!」
「オムライス好きだったよな」
「好き好き、つうか犬塚さんの料理ならなんでも好き!」
「そりゃどうも」
至極嬉しそうに笑う秋に、揺れる尻尾の幻覚が見えて思わず目を擦る犬塚である。ゲームのアキは犬の獣人で、<喜ぶ>の表現でいつも尻尾を揺らしていた気がする。
犬塚は笑って、腕を伸ばして秋の頭をくしゃりと撫でた。自覚はしていないが、最早癖のようになっている仕草だ。
「酒、飲むか」
「えっ、あるの」
「金曜だしな」
「用意周到すぎっしょー!」
「一週間頑張ったご褒美な」
「もう、もう……犬塚さんあいしてるー!」
勢い余って飛びついてきた秋に、バランスを崩し掛けながらも全身で受け止めて、「はいはい」と背中を何度か撫でてやる。
「あっ、本気にしてないっしょ」
「馬鹿、本気にしたら大変なことになるだろ」
「大変なこと」
「飯食う暇がなくなる」
「あっ、それは、大変」
わざとらしく秋の耳に、ふ、と息を吹きかけると、慌てて離れていく。「サラダにスープもあってマジ美味そうだなあ」なんて白々しく言って、食卓の前で正座をする秋に目を細め、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。それを持って戻り、缶を秋に手渡す。
「ん」
「あざあっす!」
すぐにタブを開けて、犬塚の方に掲げてくるから、犬塚も同じように缶を掲げて、秋のものとコツリと合わせた。
「一週間おつかれっしたー」
「ん、おつかれさま」
早速喉を鳴らして飲む秋と同じく、犬塚も缶を傾ける。麦の香りが喉を通っていくのが堪らない。缶を置くと、秋が手を合わせた。
「いっただきます!」
「召し上がれ」
犬塚も手を合わせ、スプーンを手に取る。視線はどうしても、目の前で大きな一口を開けてオムライスを頬張る彼へと向かってしまう。もごもごと何度か咀嚼し、飲み込んだ後に浮かべるのは、満面の笑み。
「うっまい! めっちゃくちゃ美味いっす、すげー美味い!」
「そうか、よかった」
「あっ、スープも美味い! サラダも!」
一口食べるごとに大袈裟な感想をくれる秋に思わず笑いながら、安心して犬塚も手を進め始める。うん、確かに良く出来ている。一人で作るときよりも断然と美味く感じるのだから、目の前にいる男は、全くすごい人だと思う。
――幸せ、というのがあるとするならば。
何気ない話をしながら、二人で食卓を囲むこの瞬間のことを言うのだろう。
じんわりと胸に染みる暖かさに、感じ入った。
――そんな、奇跡と偶然が折り重なった上にある、ある日常的な一日の話。
「食後のデザートまで完備とか……もう……マジ……」
「何だ」
「犬塚さん結婚して……」
「プロポーズは俺からの予定だから駄目」
「それ世界一カッコイイ断り方だね!?」
「それ食ったら風呂入るぞー」
「うん、……うん?」
「飯、風呂、俺、の順番だろ?」
「それだと風呂と犬塚さんがセットになるのでは?」
「何か問題でも?」
「あ、……ありません……!!」
おいしくいただきました。
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