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第3話

ぱちぱちと火の爆ぜる音がする。微かに肩からひざにかけてじくじくと膿んだように痛むが、他に感覚はない。何かの熱を感じる程度だ。熱、といううにはやわらかい。暖かいといったほうが適切だろう。 何か悲しい夢を見ていた気がする。幼い頃の、遠い昔の記憶のような。 地獄というものはこの程度のものなのだろうか。 そんなことをぼんやりと考えながら、重い瞼を持ち上げた。 視界に入ったのは、古ぼけた梁と茅の葺いた屋根だった。  何やらうまそうな匂いがする。ぬくい左側が気になって、首だけをそちらに向ける。 どこかの家屋のようだ。天井には干し肉や野菜が吊るされており、小さな箪笥と筵が引いていてある、どこにでもあるような家だった。固い板張りの床に、土壁と雨戸。冷気の流れ込む右側には土間が広がり、中央には鍋のかけられた囲炉裏と、仕掛けられた鍋はぐつぐつと煮だっていて――。 その向こうに、あの、自分を殺したはずの男が座っていた。 「⁉ ……ッ!」 「目が覚めたか」  慌てて身体を起こそうとしたが、胴体に激痛が走ってくずおれた。 「ふむ」 「な……」 にわかに男がのそりと立ち上がり、汁椀を持ってこちらに歩み寄ってきた。竜巳は身体と表情を強張らせる。 「……そんなに警戒せずとも、もう斬り付けるような真似はしない」  男は眼力強く睨め付けて来る竜巳を覗き込んで、そう囁くように言った。暗がりながら間近に見る男の顔はなかなかの男前だった。どこか憔悴した印象さえ受けるものの、はっきりとした目鼻立ちをしている。齢は二十半ばだろうか。暗がりの中でもなかなか端正な顔立ちをしていることが分かる。 「……なんで、俺を、助けた?」  少し警戒を解いて、まだ幼さの残る声で竜巳は問うた。男は一度開いた口を閉じて――静かに竜巳の身を起こすべく肩に手をかけた。 「俺の目的はあの土地にいる山賊を消すことだ。お前のような子供を殺すことではない」 「っ、ガキ、扱いするな……! 俺だって人の一人や二人殺した!」 「なれば、殺しの数は俺の方が上だな」  男はくつりと笑いながら、竜巳を腫物に触れるように扱った。じくじくと痛む身体を見下ろせば、胴に斜めに入った傷口に白い布があてられていた。表面に真っ赤な血が滲んで凄惨な有様ではあるが、傷は浅いようである。 「じゃあなぜ斬ったんだ。俺だけ生かして残しておけばよかっただろ」 「お前を野放しにしておいて、また盗人の真似事でもしだしたらどうする。その芽を摘み取るためと、賭けたんだがな。お前の勝ちのようだ」 「賭けた、って」 「半ば本気で殺すつもりだった」  一転、ひどく低い声色だった。男の眼光がきっ、と鋭くなる。  ――この男、いったい何者なのだろうか。  竜巳の背を嫌な汗が伝った。腰に添えられたこの手が、すぐにでも首を絞めにかかってくるのではないか――そんな畏怖を抱かせるかんばせに、竜巳は純粋に恐怖した。 「お、俺はあんたの世話になるつもりなんてない!」 「その怪我で外に出て、今度は人攫いにでも会うつもりか。俺は負けた。お前には生きてもらわねばならぬ。傷が治るまで世話をしよう。治ったら好きなところへ行け」  男はそう言って、竜巳に汁物の入った椀を差し出した。食欲をそそる獣の香りがする。肉など三月は口にしていない。口の中に唾液が広がっていくのが分かる。  しかし竜巳は椀を受け取ることをせず、じっと自らを痛めつけた男を睨みつけた。  この男は一度自分を殺しかけた。この汁物に毒が入っていないと言い切れるだろうか。そもそも竜巳はこの男の名を知らない。男だって竜巳の名を知らないはずだ。だのに介抱するなどことさらに怪しいではないか。 「……食わんのか。いや、食えんのか。しかし汁ぐらい飲んだ方がいい。いくらその身体とはいえ、何も口にしないのは――」 「……あんた、名前は」  男の言葉を遮るように言うと、男は一瞬、目を丸くした。そんな表情をすると少し幼く見える――などと考えているうちに、男はぽつりと、しかし確かに、つぶやくように名を口にした。 「――輝夜だ」 「こう、や」 「そうだ」  変わった名前だな、と思いながら輝夜を見る。目が合った瞬間、輝夜がずいっと顔を近づけてきた。身体を動かすことが出来ず逃げ場がない。されるがままだ。そして輝夜はのたまう。 「お前、名は」 「…………竜巳」  勢いに押されて馬鹿正直に答えてしまった。  その刹那――輝夜がどこか困ったようにはにかんだ。 「そうか」  それは竜巳が初めて目にした青年の笑みだった。思わず息を飲む。驚いたときよりさらに年若く見える。  輝夜はそっと身を引くと、再び竜巳に椀を差し出した。  今の微笑みは一体何だったのだろうか。 そんな思考を遮るように、輝夜は先ほどまでと同じぶっきらぼうな口調で言う。 「ほら、飲め。冷めてしまう。俺も飯の途中だった」 「う、わ」  押し付けるかたちで椀を持たされる。輝夜はもう一つの椀を座っていたところから持ってきて、ぐつぐつと音を立てる鍋から肉や野菜をよそうと、再び竜巳の傍に座った。そして竜巳の前でずずっと汁を啜りはじめる。凝視する竜巳の視線に気づくと、本当に食わぬのかとでも言いたげに眉を顰められた。  ――本当に何も入っていないのだろうか。  そんなことを思った瞬間、ぎゅるりと竜巳の腹が鳴った。輝夜がそらみろ、といった顔で竜巳を見る。竜巳は羞恥と怒りで顔を真っ赤にした。  毒物には慣れている、まずいと思ったら吐き出せばいい。 そう開き直って、野菜と獣の肉を煮込んだ汁を飲んだ。 「……美味い」  じゅわりと口の中に広がった肉の油の甘さが、味噌の風味によく合う。汁を飲み切った後は、そのあまりの美味さに箸も使わず中の具材を口に入れて咀嚼した。よく煮込まれた肉は柔らかくも噛みごたえがあって味噌の味がしっかり染み込んでいる。野菜も土壌がいいのかしっかりと作物と土の自然な味がする。その温かさが全身に安らぎをもたらした。 「……美味かった」 「まだ食うか」 「いや、いい」  椀を返すと、輝夜は小さく頷いた。 そこで竜巳は初めて男の顔をはっきりと見た。くっきりと整った目鼻立ちは無論、どこか柔和な印象を受ける目元も涼し気で色気がある。括られた亜麻色の髪、薄い唇に白い肌は、男の竜巳が見ても見ても驚くほどの美人であった。  そしてその瞳は、真紅では無くなっていた。まるで蜜を煮詰めたような――竜巳と同じ琥珀の色をしていた。 「どうした」 「いや……あんた、綺麗な顔をしてるな」 「……は」  呆然と呟いた竜巳に、輝夜はふっ、と噴き出した。 「そうだろう? 俺は昔から女子に間違われるほどの子供でな、今は女に困らないほどだ」  気をよくしたらしい輝夜と目が合う。話はあまり聞いていなかった。何よりその瞳に興味を奪われ、触れてはいけない部分かと伺いつつ、おずおずと尋ねた。 「そっか。それに、目も……俺と同じ色なんだな」  輝夜が目を丸くして、ばつが悪そうに視線をそらした。 「……親父が同じ瞳をしていた。この里でも俺しかいない」  詰まったように告げて、輝夜は何度も頷く。己で己の言葉に納得しているようだ。 「そう、か。いや、そうだよな。俺も昔に一人だけ会ったことがあるんだけど、本当に驚いたから」  この男も何か、瞳の色のせいで幼い頃にひどい目にあったのかもしれない。どこか思いつめたような顔でこちらを見る輝夜に、竜巳は思わず口を噤んだ。 「俺も驚いた。まさか稀有と噂された己と同じ瞳を持つ者に出会うなど」 「だから俺を助けたのか?」 「さあな。もう寝ろ」 「ちょっ、うわ!」  そして起こされたときと同じように、優しい手つきで横に寝かせられる。火が焚いてあるとはいえ、秋の終わりに掛物がないのは寒かったが贅沢は言っていられない。今は生きるも死ぬもこの男の手にあるのだ、と投げやりになって目を閉じようとしたとき、輝夜が立ち上がった。部屋の奥でがさがさと音がしたと思うと、どこからか熊の毛皮を引っ張り出してきた。その大きな熊の毛皮を竜巳に乱暴に放るように掛けた。 「いっ、て……!」 「これ以上悪化されても面倒だからな。まあ、お前ならすぐに治るだろうが」 「……?」  お前ならすぐに治る。  妙な物言いが気にかかりながらも、竜巳は考えるのをやめた。傷口だけではなく身体が熱いのに寒くて、眠くてたまらない。きっとこの傷のせいだろう。刃に毒でも塗ってあったのかもしれない。  それにしてもこの輝夜という男、なんだか掴めない。甲斐甲斐しく世話を焼いてくるあたりは不気味でさえある。だが、悪い気はしなかった。  そのやさしさはまるで兄のようで――似ているはずがないのに、与一を彷彿とさせた。今頃彼はどこで何をしているだろう。息災だろうか。死ぬまでにもう一度出会えたらいいのに。 そんなことを考えているうちに竜巳の意識は散漫になり、ついに深い眠りの淵に落ちていった。

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