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六年後

「ママー、おかえりなさい!」  ウィルクスが仕事を終えて帰宅し、居間に入ると、娘が叫んで駆け寄ってきた。ウィルクスは長身の体をかがめ、ハンナをぎゅっと抱きしめる。娘はまだ小さな手をウィルクスの首に回した。彼は娘の頭に自分の頭を擦りつける。 「ハンナ、いい匂いがする。お風呂入ったのか?」 「うん、入ったの! でもパパにドレス着せてもらったのよ、お誕生日だもん!」  ウィルクスは体を離して娘の両肩にそっと手を置いた。 「よく見せて。うん、似合ってるよ、ハンナ。とっても可愛い。この前いっしょに選んだやつだね」  ハンナはうれしそうにくるくる回る。半袖のパフスリーブで、胸元で切り替えになった、膝丈のエメラルド・グリーンのドレス。上に白い長袖のカーディガンをはおり、メリージェーンの靴はエナメルの黒。セミロングの黒髪に、デイジーがついた白いカチューシャを飾っている。 「黒髪とエメラルド・グリーンはよく似合うんだよ、ハンナ。パパはなんて言ってた?」 「とっても素敵なレディだねって。あ、パパ!」  ウィルクスのパートナー、ハイドが部屋に入ってきた。彼はウィルクスの姿を見ると、そばに寄って黙って抱きしめた。ウィルクスも彼のことを抱きしめる。二人はしばらくそうやって、ぴったりくっついていた。まだとても小さいハンナは黙って両親のそばにいて、大きな目で彼らのこと見上げている。  二人はやっと体を離した。 「おかえり、エド」ウィルクスの目を覗きこみ、浮いた頬骨を指の背で撫でながらハイドが微笑む。 「ごはんは食べた?」  ウィルクスはちらりと腕時計を見てうなずいた。 「ええ。九時前か。すっかり遅くなってしまいましたね。なあ、ハンナ」  ウィルクスは笑って娘を見下ろした。床にしゃがみ、彼女の頭を撫でる。 「今夜はなにを食べたんだ? パパはお願い聞いてくれた?」 「いっぱいスパゲティ食べたの! ミートソースのよ。大好き!」 「シドの作るボロネーゼは美味いからな。よかったね、ハンナ」  ハンナはうなずいてウィルクスにしがみついた。ハイドがかがんで言う。 「ハンナ、ママは着替えてこないと。それからみんなでお茶を飲もうね」 「わたしもなにか食べていい?」 「ビスケットなら食べていいよ」  パパ大好き、とハンナは言った。ハイドは黙って彼女の頭を撫でる。丁寧にシャンプーした髪が、さらさらと指に気持ちいい。  ウィルクスは立ち上がり、「着替えてきますね」と言って部屋から出ていった。ハイドも立ち上がる。百九十センチ近くある彼は、ハンナの目にとても大きく映る。ハイドは娘に言った。 「ハンナ、お茶を淹れてくるから、いい子で待ってるんだよ」  はい、と答えたハンナを置いて、ハイドは部屋から出ていった。彼女は閉ざされた扉をじっと見つめていたが、やがて窓際に置かれたソファに歩み寄った。そこには産まれたときから仲良しのウサギのぬいぐるみ、ピートが座っている。ハンナはピートを膝に乗せ、靴の爪先をぶらぶらさせながら空想をはじめた。  ハンナ六歳、ウィルクス三十四歳。ハイドが四十八歳の、五月二十三日のことだった。 ◯  三人は居間で、カスタード風のクリームを挟んだビスケットを食べ、お茶を飲んだ。座る席はいつも決まっていて、窓際のソファの左端にハンナ、隣がウィルクス。その向かいの椅子にハイドが座る。ハンナはウィルクスにべったりなのだ。  彼女は誕生日のプレゼントを開けてもいいという許可をもらって、両親から贈られた包みを開けていた。中から出てきた、波打つブロンドの髪をした女性の人形と、マリリン・モンロー風の白い衣装に大はしゃぎする。テリアのミニチュアと、緋色のベルベットでできたソファもついていたからなおのことだ。 「わたしもブロンドがいいな」  ハンナは母親の隣で、人形の髪を梳きながら言った。ウィルクスが顔を覗きこむ。 「黒髪は嫌?」 「ブロンドがいいわ」 「黒髪はきみのエキゾチックな顔にとっても似合ってるよ。それに、ミステリアスだ」  ハンナは目を輝かせた。 「それってかっこいい?」 「かっこいいよ。ハンナはかっこいいほうがいい?」 「うん。わたし、ママみたいにかっこよくなりたいの!」  ハイドはお茶のカップから顔を上げて笑った。 「なれそうだね、ハンナ。きみは今も凛々しいから」 「りりしい?」 「かっこいいってこと」  ハンナはウィルクスの腕にぎゅっとしがみついた。危うく彼の持っていたカップから熱いお茶がこぼれそうになる。ウィルクスは慎重にカップをテーブルに置き、それから娘を抱きしめた。 「わたし、ママみたいになってママと結婚するわ。ママ、とってもハンサムだもの」 「さすが我が娘」ハイドがつぶやいた。「見る目がある」 「なあ、ハンナ」ウィルクスは娘の体を抱いたままささやいた。「パパもハンサムだよ?」 「パパは年上すぎるわ」  ウィルクスは笑って彼女の肩を抱き、頭を撫でた。ハンナは彼に寄りかかっていたが、急にぱっと起き直って人形の髪を触りはじめた。ハイドはそんな娘の様子をぼんやり見ていたが、思い出して言った。 「そろそろハーフ・タームだな」  ウィルクスも「ああ」という顔になる。ハーフ・タームは春休みや冬休みとはまた違う学校の中休みのことで、ハンナが通う公立学校では来週から一週間の期間、生徒はみんな休みになる。ハイドはビスケットを食べながら考え深げに言った。 「ハンナと話してたんだ。ベーカー街にシャーロック・ホームズのカフェができただろう? 行ってみないかって。221Bの居間を再現した部屋や、世界中で発表されたホームズの本のアーカイブとか、表紙の複製画とか、映像作品の小道具なんかが展示されてるらしいよ」 「へえ、いいですね」ウィルクスは目を輝かせた。 「おすすめメニューは『七パーセント溶液』だって。ホームズ愛用のコカインをモチーフにしてるんだ。とっても濃いミント・シロップが注射器に入って出てきて、自分で炭酸水で割るんだって」 「はは、楽しそう」 「ハンナはホームズが好きだからな」  父親がそう言って、ハンナは人形遊びから顔を上げた。「そうよ」と神妙な顔でうなずく。 「『バスカヴィル家の犬』がいちばん好きだわ。でも、ミスター・ホームズはちょっと怖い。探偵さんなのに、パパとは全然ちがうのね」ハンナは首を振り、ウィルクスに抱きついた。 「わたし、ドクター・ワトスンが大好き! ドクターの広い愛は、ママみたいなのよ」  ウィルクスは笑った。娘を抱き寄せると、ハンナは彼の膝に頭を乗せた。ウィルクスが髪を撫でる。ハンナはしばらく横たわっていたが、急に体を起こした。 「エミリーをみんなに紹介してくるわね(プレゼントの人形はエミリーという名前になったらしい)。それから、ライラにリボンをつけてくる」  ハンナは右手に人形を抱き、左手に持ったラッピングの青いリボンを上下に振った。ライラというのはハイドの兄、フレデリックが贈った巨大なテディ・ベアのことで、今でもハンナの寝室の椅子の上に座って、彼女を見守っている。  ハンナが意気揚々と出ていくと、居間はしばし静かになった。ウィルクスは紅茶をすすってほっと息をつく。仕事の疲れも抜けていくようだ。  今、ウィルクスがいる部署のSCO1(殺人・重大犯罪対策指令部)は、つい昨日、二週間に渡って世間を恐怖に陥れた殺人事件を無事解決させたところだった。それでも、取り調べやメディアの執拗な取材や、裁判の準備がある。ウィルクスも事務処理で忙殺されていた。しかし、今夜は娘の誕生日。ひと段落したところで早めに帰らせてもらった。六年も経ったなんて。ウィルクスはあたたかい感慨にふけった。  ふいにハイドが言った。 「もう少し早く帰ってこられないか?」  ウィルクスはおし黙る。ハイドも黙った。ウィルクスは顔を上げ、夫を見た。 「でも、忙しいんです」 「わかってるよ。でも、きのうは十一時近かった。おとといは日付をまたいだ。それがほとんど一週間」 「あなたも知ってるでしょう? 殺人事件があって、ヤードはイギリス中に捜査網を張り巡らせなければならなかった」 「わかってるよ。ただ、きみは働きすぎだし、もうちょっと家にいられないか?」  ウィルクスは黙った。靴の爪先を見つめる。嫌な感情だ。いけない感情だ。そう思う。それでも心が冷え、苛立ちを覚えた。彼は顔を上げた。ハイドの目を見る。 「あなたには、悪いと思ってます。子どもが出かけるとき、十一歳までは親か保護者が同伴しなくてはいけない。学校の送り迎えも大変だ。あなたは家で仕事をする私立探偵だけど、おれがずっと外にいるから、仕事時間を奪っている」 「それは、かまわないよ。話し合ってそうしようと決めたじゃないか。だが……」 「でも、おれは刑事の仕事が好きなんです」  ウィルクスは話しながら自分にがっかりしていた。今日は娘の誕生日なのに。怒りを爆発させそうになっている自分に気がつく。どうしてこんなにイラつくんだ。彼は夫を見つめた。 「仕事はきついし、嫌なこともあるし、辞めたくなることもある。でも、できたら続けていきたい。家にはできるだけ早く帰るようにします。でも、約束はできない」 「わかってるよ、きみは――」 「あなたはいつもわかってる、わかってる、わかってるって言う。ほんとに関心があるんですか?」 「エド、怒らせてしまったか? ぼくはただ――」  そのとき、居間の扉のほうで物音がした。ハンナが人形を抱いて立ち尽くしていた。 「けんかしてるの?」  彼女は怯えたようにつぶやいた。ウィルクスはしまったと思う。慌ててソファから立ちあがり、言った。 「けんかじゃないよ、ハンナ。パパと話をしてたんだ」 「ママ、怒ってるの?」 「怒ってないよ、ハンナ」  ハンナはとぼとぼと二人のほうに歩いてきた。焦げ茶色の目に涙が溜まっているが、泣くのは我慢している。ウィルクスが両腕を広げると、彼女は母親の胸の中に飛びこんだ。ウィルクスはきつく抱きしめる。 「ごめんなさい、ママ」  つぶやく娘にウィルクスは困惑した。 「どうして?」  優しく尋ねると、「だって」とハンナは言った。 「わたし、ママが帰ってこないって怒っちゃった。ママごめんなさい」  ウィルクスは娘を抱いたまま床にしゃがみ、ささやいた。 「ごめんね、ハンナ。寂しかったね」  ウィルクスは娘を抱き、石鹸の匂いの中で思い出していた。厳しすぎる父親。頼りない、影のような母親。母はウィルクスが十五歳のときに他界し、父親はますます岩のようになった。そのときの無力感を思い出した。父親の整った、厳しい横顔を見た日、打ち明けたかったのに言えなかったこと。バイセクシャルであることを胸に抱えて、一人ベッドの中にもぐりこんだ夜を思い出した。  ウィルクスは味方が欲しかった。友達ができて、家を出て、彼女ができて、少しずつ父親を欲しなくなっていった。  バイセクシャルであると他人に初めて打ち明けたのは、そしてあなたが好きだと男に言ったのは、ハイドが初めての相手だった。  今、彼はウィルクスと共にいる。そして、きみの味方だと言ってくれる。  ウィルクスは知っていた。ひねくれていて、冷静で、物事の本質を見抜くハイドが考えていることを。いくら家族でも、いつでも味方だよと言っていても、結局は他人である限り、絶対的に、完全に、味方ができるわけではない。そんなものだとウィルクスは思う。本当の意味では、いつも必ず味方にはなれない。  知っていて、それでも「味方でありたい」と言ったハイドの心を、彼は思いだした。 「ママは怒ってないよ、ハンナ」ウィルクスは娘を抱きしめて言った。 「でも、おれは完璧じゃない。だから家に帰ってこられなかったり、怖い人になることがある。でも、おれの心は変わらないよ。いつもずっと、きみの味方だ。きみのこと大好きだよ、ハンナ」  ハンナはウィルクスの背中に腕をまわした。人形が床に落ちた。 「パパ、ぎゅっとしてくれたの」ハンナは言った。「わたしが怒ったらぎゅっとしてくれたの」 「そうか。よかったね、ハンナ」  ウィルクスは顔を上げ、夫を見上げて微笑んだ。 「シド。自分ではわかっていないかもしれないけれど、あなたはやっぱり父性の人ですよ」  そうかな、とハイドは言った。彼は体をかがめて娘の頭を撫でた。ハンナが顔を上げる。ハイドはティッシュペーパーを一枚引き抜いて、「お嬢さん」と言った。振り向くハンナの涙と鼻を拭いてやる。 「パパ、世界一かっこいい」  ハンナはそう言って目を細めた。それから首をかしげた。 「男の人も泣いていいの?」  いいんだよ、とハイドは答えた。彼は涙をぬぐった。ウィルクスも顔を背けて泣いていた。 「さあ、ハンナ」ハイドは娘の背中を大きな手のひらで押して、ウィルクスの肩に手を置いた。 「アルバム、見せてあげるよ。きみが産まれたときの写真だ」 「パパとママも写ってる?」 「写ってるよ」 「ほんとだわ! 見て、ママ!」ハンナはアルバムを手に、振り向いて目を輝かせた。 「わたしたち、みんなで写ってる!」  このパパなら結婚できるわ、と言うハンナに、ハイドは笑っている。  その光景を見たとき、ウィルクスは思った。  まるで一瞬だった。それなのに、永遠であると。

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