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第11話
娘に認識された気がする。
ハイドは我が子を両腕に抱いて顔を覗きこみ、「ハンナ」と呼びかけてみた。
娘は焦げ茶の目をきらきらさせて彼を見上げた。「うー、うー」と言って手を動かす。ハイドは娘が開いたり閉じたりしている小さな手のひらを指先でくすぐった。ハンナは微笑を浮かべ、父親の指をつかむ。
可愛い。
ハイドは素直にそう思った。目ヤニをとってやる。娘を腕に抱いて顔を見ていると、ウィルクスが銀のトレイに熱いルイボスティーの入ったマグカップを二つ乗せて居間に入ってきた。ハンナが産まれてひと月経つ。六月半ばを迎えていた。
「シド、ハンナをあやしてくれてたんですか?」
トレイをテーブルに置いて夫の座るソファの隣のスペースに腰を下ろし、ウィルクスがうれしそうに尋ねる。どうやら自分が娘をあやしているとパートナーが喜ぶということに気がついていて、ハイドは笑顔を浮かべて「うん」と言った。
ウィルクスはにこにこして、ハンナのふっくらした頬を指先でくすぐる。ハイドはその顔をじっと見ていた。
「……エド、ゆうべはごめんね」
娘を抱く腕を揺らしながら言うハイドに、ウィルクスは彼をじろりと睨んで赤くなった。
「……ほんと、激しすぎますよ。おれはあなたと違って絶倫じゃないんですからね。反省してください」
「うん、ごめんね。育児で疲れてるだろう? 体も本調子じゃないのに」
「気にしてくれてるんですね」
ウィルクスはうれしそうににこにこした。
「大丈夫ですよ。前も言いましたけど、男は女性とは違って、その……セックスのときと出産のときに使う器官が違うから、そういうこともそれほど負担にならないんです。……まあ、それを気にしつつのあの絶倫ぶりには感心しますが」
ハイドは目を逸らした。腕に抱いた娘に視線を向ける。
「ハンナが産まれて一か月か。早いな」
「ええ。大きくなりましたね」
「ああ。……でも、よかった。ほんとは心配だったんだ。きみが産後うつになるんじゃないかって」
「え?」
ウィルクスはきょとんとした顔をして夫を見た。ハイドはもぞもぞ動く娘の顔を見ながら、表情が緊迫してくる。
「ぼくが父親としてしっかりしてないから、きみに負担をかけてしまうんじゃないかと思って……」
「大丈夫ですよ、シド」ウィルクスはそう言って笑った。
「あなたは頑張ってくれてると思う。それに出産は大変だったけど、それほど疲れが後を引かなかったし、おれは運がよかった。ヘルス・ビジターさんにもいろいろ相談してるし」
ヘルス・ビジターは出産・育児をサポートしてくれる専門家で、看護師や助産師の資格も持っている保健師だ。ウィルクスとハンナのケアは、リリーという女性が担当してくれている。ハイドも彼女が訪問した場に一度居合わせたことがあった。恰幅がよくて、さばさばした、快活な印象のヘルス・ビジターだ。
「リリーがいてくれて、本当に助かりました」
そう言って微笑むウィルクスに、ハイドの胸はずきっと痛む。ぼくには言いたくても言えないこと、そもそも言う気にならないことがたくさんあるんだろうな。
そう思うと、今すぐウィルクスをぎゅっと抱きしめて許しを乞いたくなった。しかし、ハイドは今、娘を抱いて両手がふさがっている。
ウィルクスは娘の頬をつんつんつついた。ハンナが微笑を浮かべる。ウィルクスはきらきらした目を細めて、笑顔になった。
「ハンナ、笑ってる。可愛い」
「……聞いた話、生後三か月までの赤ちゃんが笑うのは、感情があって笑ってるんじゃなくて、『反射』みたいなものなんだって」
「へえ、そうなんですか。でも、可愛い。ねえシド、最近、ハンナはあなたを見て笑ってませんか?」
「赤ちゃんの目がはっきり見えてくるのは一歳くらいからで、今はまだ視力が未発達だって聞くよ。だから、ぼくのことも見えてないんじゃないか?」
「でも」ウィルクスは頑なに言った。「まだよく見えてないとしても、絶対あなたのこと、パパだって認識してますよ。それに、ぬいぐるみのウサギを見せたときと反応というか、食いつき方が違いますもん」
「そうかなあ」
ハイドはそう言うものの、胸があたたかいもので満たされていくことは否定できなかった。不思議なぬくもりだった。そんなものはあり得ないと思っていた。それなのに、確かに感じる。
気の迷いだ、とハイドは思いたかった。未知のぬくもりを受け入れ認める準備はまだできていない。それでも娘を抱いていると、思わず顔をじっと見ている自分に気がつく。
ウィルクスはハンナの頬をぷにぷにとつついた。優しく呼びかける。
「なあ、ハンナ。パパのこと、わかってるよね? 好きだよね?」
ハンナはにこっと笑った。
「可愛い……」
ふだんは強面の凛々しい顔をぽわんと緩めて笑うウィルクスを見て、ハイドはつぶやいた。
「きみのほうが可愛いよ」
ウィルクスは娘の黒髪を指で梳き、ささやく。
「きみは可愛いよ、ハンナ。ね。パパもそう言ってるよ」
ハンナは手をばたばたさせ、「うー」と言ってウィルクスの手をつかもうとする。ハイドはすかさず言った。
「ほら、ハンナはママのほうが好きなんだよね?」
ウィルクスは夫のほうを向いてにんまりした。
「おれにやきもちですか、シド」
「え?」ハイドはびっくりした顔になる。
「まさか。ぼくがハンナにやきもち妬くならともかく」
「むりしちゃって」
ほんとだよ、とハイドは言ったが、笑っているウィルクスを見ていると思わず笑顔が浮かんだ。
「ハンナ」ハイドは娘に顔を近づけてささやいた。
「お父さんは、きみのお母さんのことが大好きなんだ。でも、怒らないでね。ぼくはきみのことも大好きだよ、ハンナ。きっと」
そう、きっと。そうなんだ。ハイドは思った。そうであればいい。その思いは祈りに似ていた。
「でも、愛せなかったら」ウィルクスがささやいた。「おれが愛するから、大丈夫ですよ」
ハイドは黙ってハンナを見つめたまま、目じりにたまる涙を無視しようとした。
娘はじっと父親を見上げていたが、急にむずがりだした。ハイドが慌てて立ち上がり、体を揺らして娘をあやす。
二人の姿を、ウィルクスは微笑んでじっと見ていた。
外は静かな雨が降っていた。
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