1 / 150

Prologue 五月晴れ

 その日はとても天気がよかった。  赤、青、黒のこいのぼりが、屋上ではたはたと泳いでいる。  中庭には大きなケヤキの木が一本生えていた。太陽の光を浴びて葉の葉脈がくっきりと浮かび上がり、透けている。風が吹くと葉擦れの音がする。  木陰には、真剣な顔つきで小説を繰るパジャマ姿の少年。  木製のテーブルベンチの上に手作り弁当を広げ、玉子焼きを箸でとる妙齢の女性栄養士。その向かいには、食後のお茶を一服している中年の女性事務員。  人口池の前の腰掛けに座り、コンビニエンスストアで買ったサンドイッチを黙々と食べる研修医の男性。  その横を車いすに乗った老女と、車いすを押す壮年の男性看護師が通り過ぎていく。  軽快なオルガンの音色に合わせて子どもたちの陽気な歌声が聞こえてくる。どうやら院内学級は今、音楽の時間らしい。  中庭のある階とは対照的に、病院の最上階のフロアは空気は、どんよりとしていた。まるで黒い雲が空一面を覆いつくし、土砂降りでも降らせているかのようだ。  最上階には、高級ホテルのスイートルームさながらに広々とした、ひとり部屋が四部屋あった。  一昨日までは、人懐っこい性格をした子犬のような少年がいて、フロアは活気に満ちていた。彼は一年の療養を経て病を完治させ、退院したのだ。  少年が病院を去ると、明るく和やかな雰囲気も夢のように霧散した。  現在、使われている部屋は一室のみ。(むら)(くも)(さく)()というアルファの男が入院していた。  朔夜はキングサイズのベッドの上であぐらをかき、腕組みをしている。しわくちゃになった白い封筒を、灰色の瞳でじっと(にら)みつける。  封筒は、彼が衝動的に握りつぶしたせいで、いびつな形になっていた。だが朔夜は手紙を破り捨てることも、ゴミ箱の中へ突っ込むこともできずにいた。なぜなら魂の(つがい)であるオメガが書いた最後の手紙だったからだ。  大きなため息をついてから朔夜は封筒を手に取った。  お気に入りの洋服にアイロンをかけるような手つきで、封筒のシワを伸ばす。  封筒の表には達筆な字で朔夜の名前が書かれていた。甘いバニラに似たオメガのフェロモン──ヘリオトロープの花の匂いが、ほのかに香る。その思い出深い香りは、朔夜の意識を過去へといざなった。  まだ世の中の常識や体裁を考えずに済み、何のしがらみもなかった頃、ミミズがのたくったような字で誕生日カードを書いて渡したり、年賀状を送り合ったこと。学校へ通い始めてからは授業中に先生の目を盗み、こっそりメモのやりとりをして、夢中になりすぎて先生に怒られたこと。  何十年も前のできごとを、まるで昨日あったできごとのように朔夜は思い出していた。  朔夜は、自分の名前が書かれている部分を、そっと指先で()でた。 『さくちゃん──……』  爽やかで、どこか甘さを含んだテノールボイスで愛称を呼ばれる。「さくちゃん」、その愛称を使う人間はこの世で、たったひとりしかいない。  愛する人に名前を呼ばれた気がした朔夜は、弾かれたように顔を上げ、思い人の名前を口にする。 「日向(ひなた)……」  そうして室内を見回したが、日向の姿はどこにもない。  自嘲気味な笑みを浮かべて「なんだ空耳か」と朔夜は独り言を口にする。手紙を手にしたままの状態でベッドから下りた。豪華な洋室には、どこか不釣り合いな安っぽい水色のサンダルをつっかけ、障子二枚分はありそうな大きな窓の前に立つ。  ガラス一枚で隔てられた世界。そこには雲ひとつない空が地平線の彼方まで広がっていた。  じかにその光景を目にしたいと衝動的に思い立った朔夜は部屋を出た。あえてエレベーターを使わずに足を使って階段を上り、屋上庭園へと向かう。  ドアノブを回し、ドアを押し開ければ、そよ風がふわりと吹きこんで頬や髪を優しく撫でた。みずみずしい新緑や温かな土の香りが、初夏の訪れを告げる。  新鮮な空気を吸いこんで、胸を大きく反らしながら深呼吸をする。  そうして朔夜は屋上から見える風景を何をするでもなく、ぼうっと眺めていた。  まるで白鳥のように手を広げて白い飛行機が空を飛ぶ。通った空路の軌跡を描くように白い飛行機雲ができる。しかし、その雲は細くたなびいたりはせず、あっという間に消えていってしまった。 「……明日も晴れか」  朔夜は右手に持っていた手紙を持ち上げ、目線をやる。  慎重な手つきで封を切り、中から一枚の手紙を取り出した。

ともだちにシェアしよう!