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第5章 劇場1
観客は零 。
照明の落とされた薄暗い舞台の上に青年が倒れていた。
突如白い照明がつき、舞台が明るくなる。
マッチ棒が乗せられそうなほどに長いまつ毛が震える。青年が目を開くと黒曜石のような瞳が現れた。
鉛のように重い身体の上半身をゆっくりと起こす。
青年は辺りを見回した。
彼は自分が何者で、どこから来たのか、なんのためにここにいるのかわからなくなっていた。
舞台中央には、白い布をかけられた長方形の物体があった。長さが二メートルほどある。
ふらつきながら青年が立ち上がる。ゆっくりとした足取りで、長方形の物体のもとまで歩く。
白布の裾を摑んで布を取り払った。
すると華美な装飾が施されたアンティーク調の姿見が現れる。鏡面はひどくさび付いて変色し、ひびも入っている。かなり年季の入った代物だ。
それは不思議な鏡だった。
鏡の前に立つ青年の姿が映らない。代わりに黒い学ランを身に纏った少年が映っていた。
少年の着ている学ランは、ところどころ泥がついて汚れていた。彼は学ランを前開きにし、襟元だけが赤 い ワイシャツを着ていてボタンは、ひとつも留めていない。
象牙色の肌があらわになり、おびただしい数の鬱血痕がついている。唇の端は切れ、幼く丸みを帯びた右の頬とは打って変わり、左の頬は青紫色に変色してぼこりと腫れている。喉仏が目立たない華 奢 な首には、人間 の歯型がいくつもついていた。何度も強く嚙まれたのだろう。首から出血している。その血を吸い取って、白いワイシャツの襟元が赤く染まったのだ。
少年は静かに涙を流し、独り言をつぶやくように歌を口ずさむ。
マ リオネットは 糸で操る お人形
糸 で動く 身体が おもしろ おかしい お人形
糸を 操る 人がいなけれ ば ただのつまら ない でくの坊
天井から何かが降ってきて、青年の背後に落ちる。
青年がゆっくり振り返る。緩慢な動作で腰をかがめ、床に落ちたものを拾い上げる。
それはオメガが懇意でないアルファと不本意な番契約をしないよう、アルファから項を守るための術 ――オメガの首輪 だった。首輪は錠前の部分が割れ、壊れている。
壊れた首輪を目にして青年・日向は、自分が何者であるのか、どこから来たのか、なんのためにここにいるのかを思い出した。まるで紺色のリボンのような首輪を握りしめる。
この首輪は、かつて日向が中学生のときに朔夜からもらったものだ。朔夜の両親と日向の母親の了承のもとでつけた。朔夜が大学を卒業し、就職先が決まった際に外し、朔夜の番となる約束をした。中学生の日向は、この首輪を肌身離さず身につけていたのだ。
しかし約束は果たされなかった。日向が朔夜を拒んだからだ。
二度とその顔を見たくない、番になりたくないと発言し、朔夜のもとを去った。
日向が大切にしていた首輪も、朔夜との未来も、家族や友だちとの関係もすべて――【あの男】の手により、壊された。
首輪を手にしたままの状態で日向は鏡のほうへ振り返る。
鏡の中にたたずんでいる少年は、悲しげな微笑を浮かべた。
『あなたは、せっかく自分が摑んだ幸せを手放すのですか? 愚かな選択をしましたね』
「違う。僕は、すべてを終わらせるために、さくちゃんを助けるために、ここまで来たんだ」
日向は、少年の光の宿っていない真っ黒な瞳を見据えた。
少年は、日向のことを信じなかった。日向の言葉を『戯言だ』と一蹴し、侮蔑の眼差しを向ける。少年にとって、日向の話は聞く価値のないものだった。偽善と欺 瞞 に満ちた大人の言葉なんて反 吐 が出ると思っていた。
『だとしたら、とんだ無駄骨を折りましたね。この物語の結末は、僕らが生まれる前から決まっていた。あなたはだれひとり救えない、助けられないまま【彼】の番となるのです』
「ならないよ。運命は変えられる。きみや僕と同じ状況に陥ったオメガやアルファを助けるために僕は、僕たちはここまで歩いてきたんだ。僕たちの人生は、物語みたいにあらかじめ結末が決められているものじゃない。本来であれば、あらゆる道を自由に選択することができる。そういうものだと信じているよ。だから――無駄なんかじゃない」
『いいえ。あなたは、あなたたちは無駄なことをしています。あなたのせいで、どれだけの人が苦しみ、傷ついたと思っているんですか? あなたは、あ の 人 のことまで裏切ったのに何もなかったみたいに平然として、のうのうと生きている。運命を変えることは絶対にできない、できるわけがない! あなたのせいで多くの人たちが命を落とすことになりますよ。それが【彼】の望みだから』
日向は鏡に両手をつき、目を逸らすことなく少年の目を見て語りかける。
「僕はだれも裏切ってない。すべてを終わらせたら、彼のところに戻るよ。未来は決まってない。きみがどうしたいのか、その気持ちが重要なんだよ」
その瞬間、鏡越しなのに少年の手と日向の手が、じかに触れた。
少年は信じられないといわんばかりに目を見開く。かすかだが、黒い瞳に希望が宿る。
日向は中学生の姿をした「日向」の手を握った。
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