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第5章 劇場3
中学生の「日向」――少年は、両目から涙を流し、いびつな笑みを浮かべた。
『そうだ。僕は、光輝くんたちだけでなく、じつの父親をこの手にかけた! その過去も、罪も……消せません。この命が尽きるまで、贖 罪 をする。僕は罪を償わなくちゃういけないんだ。そのためにも今度こそ、本物の魂の番であるアルファと番にならないと――……そう、あなたと』
かつて朔夜が遭遇し、命名した黒い化け物――黒坊主の触手に少年は縋 りついた。まるで神に救いを求める、あわれな子羊のように。
『聞き分けの良い子だ。さあ、こっちへ来い』
少年は、このうえなく幸せそうに微笑み、黒坊主の冷たい身体へと身を寄せた。頬にぬるついた触手が触れると少年は触手に手を重ね、顔を上げる。
とうとう日向は口封じをしていた触手を嚙みちぎり、床に向かって吐き出した。
触手は血液の代わりに墨汁のような黒い液体を撒 き散らして痛がる素振りをする。そのまま鏡の世界にいる黒坊主のもとへと逃げ帰った。
汚らわしい触手に喉の奥を突かれていた日向は酸欠状態になり、激しくむせた。ぼうっとする頭がクリアになってくると、少年が黒坊主に身を委ねている姿を目にする。日向は少年のもとへ向かおうと目いっぱい暴れた。それでも絡みつく糸は一向に切れない。
「違う、僕はそんなことを望んでない! 操られて、きみのことを誤解して恨んだこともあった。でも……」
『やめてください! もう何も聞きたくありません!』
少年はマイクもつけていない状態で館内に響くほどの大きな声を出した。黒坊主の身体から離れ、日向に顔を向けた少年の顔や手は、黒い澱 にまみれていた。少年は、黒坊主に似た真っ黒な姿をして日向のことを見下す。
『まったく、一介のベータでしかない男性と結婚しようだなんて……無謀なことを考えたものですね。それで逃げ切れると思ったのですか? あなたは、この狂った世界で自分の行いを悔い改めてください』
絶望に打ちひしがれ、少年は目を閉じた。
黒坊主はそんな少年の身体を飲み込んでいく。
無我夢中になって日向は腕を拘束していた糸を引きちぎった。舞台の床に着地すると即座に「待って!」と今にも消えてしまいそうな少年に手を伸ばす。
しかし少年は日向の言葉には耳を貸さず、黒坊主と同化してしまった。
日向は悔しそうに歯嚙みし、手の中にある首輪を強く握った。いまだに宙に浮いている鏡に向かって鋭い視線を向ける。
「いい加減、下りてきてください。それとも――僕が怖くて、まともに話しもできないですか?」
黒坊主の入った鏡が日向の目の前に下り立った。
『俺がおまえのような虫けらを恐れるとでも思ったか? 見当違いもはなはだしいぞ、日向』
「そうでしょうか? 本当は、忘却のレテを注入してすぐに僕の深層意識へ介入し、かたをつけたかったのではありませんか」
黒坊主は、日向の質門に答えなかった。
「できなかったんですよね。あなたと違って、さくちゃん――叢雲さんは、僕が記憶を失うことを望まなかったから」
コツンッと黒のローファの靴音が響く。ゆっくりとした足取りだが、着実に一歩ずつ、日向は黒坊主の鏡へと近づいた。
「あなたは叢雲さんを陥れ、彼の心を弱らせることで操り人形にした。それでも彼の意志が強く、完全に彼の意識を乗っ取ることができなかった」
『ご名答、まさしくおまえの言う通りだ。朔夜は、今も俺に取り込まれまいと無駄な悪あがきをしている。だが、それも時間の問題。まもなく朔夜は死ぬ。器のみの存在となり、俺が意のままに操ることのできる傀儡 になる』
黒坊主の物言いに日向は静かに憤った。
「思えば――彼はときどき、ぼんやりしていることがありました。まるで人が変わったかのように性格や言葉遣いまでもが、いつもとは違う状態になる。無知な僕は、叢雲の家の重責に耐えかねた彼が多重人格者になったのだと思っていました。ですが、そうではなかった。【亡霊】であるあなたが、彼の隙をついて意識を乗っ取っていたからです。そして、あなたの目的は――」
『復 讐 !』
黒坊主が、ずるりと鏡から這い出てくる。ウニョウニョと触手を蠢 かし、日向を威嚇する。
しかし、日向は黒坊主を前にしても取り乱したりせず、どこまでも冷静だ。
「あなたは代々叢雲家の当主に寄生することで生き長らえてきた。本家の人間が一番、叢雲の血が濃いから乗り移りやすかったんですよね。でも――先祖返りをして、生前のあなたにそっくりな姿かたちをした人間が現れた。それが叢雲さん。あなたは彼に目を向け、取り憑くことにした。そのせいで彼のバース性は最初オメガだったんです。
叢雲家がアルファの一族になったきっかけは、あなただ。碓氷の一族へ復讐をするために、自分の子孫が全員アルファになる呪いをかけたんだですね」
『呪いなわけがないだろう?』
何を言っているんだといわんばかりの態度を黒坊主はとった。
『アルファは社会的地位の高い有能な者たち。国を代表するエリートだ。富も、地位も、名声も、人望すらも思いのままに手に入れられる。これは叢雲の家で最初にバース性を発現させた俺から、愛 す る 子 ど も た ち へのささやかな贈り物、祝いだ。自分が社会的地位の低いオメガだからといって、いちゃもんをつけるな』
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