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「先輩飲んでますか?」 顔を真っ赤にした後輩の男がビールの瓶を差し出してくる。 「ああ、もう飲みすぎて腹がたぷたぷなんだけど」 大明寺 紗波(だいみょうじ さわ)は薄いTシャツの上から腹を擦りながら苦笑を浮かべた。 「先輩の送別会なんですから沢山飲まないとですよ?それに腹たぷたぷとか言ってめちゃめちゃ腹筋割れてるの知ってるんですからね?」 後輩の男がからかうように紗波の鳩尾あたりにパンチをしてくる。 「やめろ、マジで吐くから」 今日は会社の同僚や後輩たち数人と居酒屋に来ていた。 細い路地にひっそりとある小さな店にも関わらず、人の良い店主の作る料理が美味いと評判で平日でもかなり賑わっている。 後輩の注いだビールに口をつけながら、こいつらとこうして騒ぐのも最後かと改めて思う。 紗波は今日で長年勤めていた会社を辞めた。 小説家として第二の人生を歩もうと決めたのが去年の夏のこと。 その夢を叶えるための大きな一歩が退社だった。 小説家になるというのは昔からの紗波の夢だった。 幼い頃から本が好きだった紗波は、他の子たちが外で元気に走り回る中一人図書館に籠り本に没頭するのが好きなタイプだった。 好きが高じていつしか自然と自分も物語を書くようになり、いつかは本当に作家としてデビューしたいと思っていた。 しかし、やはり現実はそう甘くないもので。 生活のため仕方なく会社勤めしていたのだが元々要領のいい質のせいか、あれよあれよと出世して若干32歳にして部長の座にまで上り詰めていた。 しかし、どんなに自分の地位が上がってもどこか釈然としない思いが常にあった。 どんなにちやほやされても、金を貰えても、自分が望むものはこれではないとどこかでずっと思っていたのだ。 それはやはり昔からの夢である小説家になりたいという強い思いが募っていたからだと思う。 悩みに悩んで決断したのは、去年の春先。 父親の死がきっかけだった。 長年闘病生活をしていたのだが60歳という若さでこの世を去った父。 その父の最後の言葉が「人生は一度きりだ。人にどう思われても構わないから思う様に生きてみろ」だった。 それを聞いた瞬間、ずっと胸につっかえていたものがストンと落ちた気がした。 失敗を恐れていては何もできない、始まらない。 父のいう通り、人生は一度きりなのだ。 それならば覚悟を決めて挑戦してみようと思ったのだ。 「先輩…本当に辞めちゃうんですか~?」 随分酔っ払っているのか、さっきまで鳩尾にパンチをしていた後輩の男が突然思い出したかのように半泣きになりながら紗波にすり寄ってきた。 暑苦しい顔を腕で阻止していると、同僚の男が横からひょいと顔を出す。 「そういやお前、団地に引っ越したんだってな?高級マンションからえらい格下げになったな」 この男は同期で入社したにも関わらず、あれよあれよと出世した紗波を快く思っていない人間の一人だった。 上司と部下という関係がなくなった途端、無遠慮に嫌味を言ってくる。 「まぁな、でも団地もなかなか悪くないぜ」 紗波がサラリとあしらうと、男は鼻持ちならないといった表情になりそれ以上何も言わずに向こうの輪へ戻っていった。 仕事を辞めるにあたり、紗波はそれまで住んでいた高級マンションを引き払った。 月の家賃が高額な為少しでも出費を減らしたいというのもあったが、幼い頃家族で住んでいた団地が余りにも居心地が良かったのを思いだしたのだ。 初めて書いた物語は団地を舞台にしたファンタジーだった。 様々な人間たちが住んでいる団地は人の人との距離が近くコミュニケーションが盛んだ。 色んな人間模様を見ていると物語のネタがゴロゴロと転がっている。 だから新居を探す上で自然と団地を選んでいた。 小説家として生きていく場所には団地こそが相応しいとそう思って引っ越したのだった。

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