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 訃報の便りが届いたのは早朝だった。まだ陽も昇らぬうちに携帯電話が着信し、寝ぼけ眼を擦りながら嗄れた声で応答すると、田舎の母がひどく慌てながら『大おじいちゃん、ダメだったぁ……』と支離滅裂に曾祖父の逝去を告げた。もとよりかなりの高齢であったので身内のものは覚悟をしていたようなのだが、やはり言葉では達観していても、いざそのときがくれば慌てふためくのが条理だ。  果樹園の手入れをする曾祖父の顔はいつも陽に焼けて真っ黒だった。子供の時分は果樹園に駆けて行くと、黒い顔で『継海(つぐみ)、ナシ食うか、モモ食うか』と、夏の陽射しを一身に浴びた生ぬるい果実を両手に掴んでニカッと笑っていた。  父方の本家で権威を振るっていた倉志名(くらしな)凪朗が亡くなった。続柄は曾祖父だが、継海の父は次男であり結婚とともに倉志名姓の本家を出て分家となったので、継海と曾祖父は実際にはともに暮らしたことはない。物心が付くころには認知症が進行していたけれど、大層可愛がられていた記憶はある。遠い過去に見た曾祖父の眩しい笑顔をはっきりと思い出して、継海は胸をざわつかせながらろくすっぽ荷物も持たないまま飛行機のチケットを取り、郷里のM県まで帰省することとなった。  M県の海沿いに、緑に埋もれるようにして潮見尋村はぽつねんと存在している。倉志名継海が生まれてから十八歳になるまで育った郷里だ。海辺と深い山々に挟まれた辺鄙な村で、平地からなだらかに続く岩石海岸には夥しいほどに大量のフナムシが湧くため、夏場といえど海水浴をする者はいない。また、岩という岩の表面にびっしりとフジツボが生棲していることも人を遠ざける理由になっている。 この村の者は遺伝的にフジツボを恐れる。昔、フジツボの突起で足裏を裂いたのちに破傷風にかかって悶え苦しみながら死んだ者がいたせいだと聞き及んだのだが、たしかに継海もその親類も、この村で生まれた者はみな、病的なまでにフジツボを恐れていた。そんなわけで潮見尋村は美しい海を有しているにもかかわらず、漁業には従事せずもっぱら果樹園で生計を立てている家が多い。海側は散々だが、山々は春から夏にかけて橙や赤の果実で埋め尽くされ、文字通りフルーツの山が夕陽に照らされるさまは圧巻と言うよりほかない。芳しい果汁の香りが村中に立ちこめる夏は、継海の好きな季節だ。  盂蘭盆のいちばん蒸し暑い時間にジワジワと蝉が鳴き、顎から滴る汗を適当に拭った。むんとした真夏の潮風と果実の香りにむせかえる。一年前に上京したときと全く変わっていない村の様子に、タイムリープした気分になった。 (ま、たかが一年程度じゃ何も変わらないか……)  汗の染みた茶髪を指で梳いて汗を飛ばし、ブランドもののスニーカーであぜ道を歩いた。草の汁が染みて眉根を寄せる。一歩踏みしめるごとにバッタが飛び跳ねた。コンビニもなければ本屋もない、小さな小さな村だ。小豆沢家が道楽でやっている商店が子供たちの唯一の遊び場だった。今でも変わらず、飲み物が三種類しかない自販機とともに小豆沢商店は継海を出迎えてくれた。 「よ、ばあちゃん。久しぶりだな」  開けっぱなしの扉から顔を覗かせると、老婆が前掛けで手を拭きながらのっそりと姿を現した。 「あら。あらあら、ツグちゃん、よぉ帰ってきなったね。凪朗さんが亡くなったっちゅうて、まぁー、人ははかないね。ほんに、はかない」 「ばあちゃんは元気そうで何よりだよ。大おじいちゃんはもう、いつ何があってもおかしくないって話だったから……。俺が出て行くときは、まだ一人で歩けていたんだけど」  こまかに震える杖の切っ先を思い出す。本家倉志名の庭だけが、晩年の曾祖父が識る世界のすべてだった。 「今夜が通夜だってね、御触れが出ちょったよぅ。本家の透くんが伝達に来たんに、あれ、ツグちゃんさっきすれ違わんかったん?」 「いや――……」  透、という名に継海の小さな心臓は跳ねた。こんな猛暑日に、胸の底がキンと冷えるような不思議な不快感を覚える。継海は思い出す。倉志名透の生白い貌を。一重のまぶたのかたちを、淡泊な薄い上唇にポツンと刻印されたホクロを、じっと継海を見つめる熱心な視線を。 「――透さんは、見てない。……それじゃ、俺もう行くから。今夜、来るとき気を付けなね。このあたりは外灯がないからあぶないよ」  あいよぉと気の抜けた返事をしながら軒に打ち水を撒く老婆に手を振って、継海はおそるおそる青臭いあぜ道をきょろりと見渡し、倉志名透の姿がないことを確認すると足早に実家への路を駆けた。くらくらするような暑さと動揺に、汗が噴き出た。 * * *  生白いてのひらに手首を押さえ付けられて、腕の内側のやわらかい場所を軽く噛まれた。 『継海、帰省するときは、いちばんはじめに私に知らせなさいと言ったでしょう』  責めるような物言いに冷たい瞳。継海は身を竦ませながらも汗ばむほどに高揚して、そして――……。 「ツグちゃん、ツグちゃん」   懐かしい呼び声に目を開けると、心配そうに表情を歪める叔母の顔が視界に飛び込んできた。続々と帰省してきた親類が座卓を囲み、がやがやと姦しく談笑している。慌てて飛び起きて腕時計に目をやると、本家に到着してからそう時間は経っていなかった。安堵し、頬に付いた畳の痕を手で押さえる。 「ごめ、眠ってた……」 「ええよええよ。慌てて帰ってきたんでしょう、もうちょっと休んどきよ。そのうち透くんが帰ってくるけぇ。――――あ、噂をすれば」  玄関の戸が開く音に叔母が顔を上げると、ぺたぺたと裸足が床を軋ませる気配が近付いてきた。さり、と襖が開いて、生白い顔が継海を捉える。瞬間で金縛りにあう。 「来ていましたか。――――おかえりなさい」 「あ、……ただ、いま」  動揺して瞳を泳がせる継海をじっと見つめ、倉志名透は小さく息を吐いた。成人したばかりの継海より四歳年上なのだが、振る舞いやしゃべり方から年齢不詳な妖しい雰囲気を感じる。 「ずいぶん日焼けしましたね。一年で、継海は雰囲気が変わったようですが……、都会の大学は、楽しいですか?」  空いていた座布団に腰を下ろし、透は叔母の運んできた冷たい緑茶を口に含んだ。冷たい視線も、責めるような言葉尻も苦手だ。胸が苦しくなる。 「……うん、たのしい」 「そうですか、それは何より。……今夜は当番で通夜をしますから、今のうちに寝ていてもいいですよ」 「いや、大丈夫。さっきすこし仮眠を取らせてもらったから」 「ああ、なるほど。それで痕が……」  伸びてきた白い手に怯えてぎゅっとまぶたを閉じると、頬を指の背でくすぐられた。思わず腰を引くと、起伏の乏しい表情でかすかに嗤われる。 「畳の痕、付いていますよ」 「…………っ、ごめん」  飲み込むのを忘れていた唾液をどうにかして嚥下した。顔を背ける動作に合わせてまた指が頬を滑り、やわい産毛を撫でられた。これだけの接触で息が上がってしまう。  本家の長男であり親戚筋にあたる倉志名透に継海はずいぶんと長いあいだ、熱愛の情を抱いていた。そしてそれがとっくに看破されていることも、また透自身も継海に対して親愛を抱いていることも、継海は雄の本能で気付いていた。

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