2 / 3

 大往生した者の通夜というのは、しんみりした空気もなく上戸連中らが飲めや唄えの宴会をしつつ、故人の思い出話に花を咲かせるのが主であった。普段は酒を控えている叔父も、勧められるまま赤い顔で次々と杯を空けていく。継海は軽薄そうな見た目に反して下戸であるので、掲げられる徳利を躱すのに苦心していたが、透が能面のように無感情な貌で「継海、船送りの準備を手伝ってくれ」  と客間から連れ出してくれたので、どうにか酔い潰れずに済んだ。  潮見尋村では、盂蘭盆に合わせて〝船送り〟という祭祀が行われる。盆飾りの砂糖菓子や火を灯した蝋燭、茄子と胡瓜で拵えた精霊馬を白い箱に入れて海――生命の源へ送り返すというものだ。それと同時に、箱の中に故人へ向けた手紙や、願掛けを記した手紙を入れて流したりもする。後者の手紙云々はおそらく、年を追うごとに付帯された後付けなのだろうが、精霊馬を送る祭祀と等しく大切に伝承されてきた趣旨であった。 「すこし、散歩をしましょうか」 「散歩ったって……、船送りの準備をするんじゃなかったの、っと。ひぇ、フジツボ……」 「継海を連れ出す口実です。あなた、下戸のくせに断るのが下手すぎるんですよ。……そこ、気をつけて。足を切ると大変ですから」 「ン、……ふわっ!」  言われた傍から隆起した岩石に足を小突き、変な悲鳴を上げながらつんのめる。心臓が止まりかけたが、夜闇から伸びてきた手に腕を掴まれて事なきを得た。派手な動作に、岩陰で息を潜ませていたフナムシたちが一斉に駆けて行く。フナムシの大群が巻き起こす漣のような足音。久しぶりに観る光景に、継海は飛び上がった。 「驚きすぎでしょう」 「ごめ、ありがと……」 「気をつけて」  相変わらず表情が動かない。それでもほっとしたようにかすかに息を吐いたので、転ばなくて安堵したのだと察する。もしかして心配されているのではという希望に頬が熱くなる。  二人は海沿いの、他よりなだらかになった岩石を進んでいたのだが、それでもゴツゴツとした岩石類を進むには慎重にならざるを得ない。なんとなく透に誘われるまま海へ来たのだが、やはりフジツボへの恐怖が拭えなくて、ついつい透の傍へと寄ってしまう。仕舞いには腕にしがみつき、おそるおそる歩を進めるという有様だ。 「ほら、あそこです。あそこから明日の晩、船送りをしますよ」  懐中電灯に照らされた先を見ると、たしかにより一層平面に近い地面が見えた。そこからなら、安全に船送りを行えるだろう。 「うん。……あのさ、べつに、こんな夜に見に来なくても良かったんじゃない? 明日の朝でもさ。昼は葬儀があるからダメだけど、それこそ夕方でも……」  当然の疑問を口にすると、闇の中ですら生白い貌が不思議そうに継海を見下ろした。切れ長の目の上で切りそろえられた硬い黒髪が潮風に揺れる。 「夜だから良いんじゃないですか。こうして、継海が寄ってきてくれる」 「え…………、」  動揺してぱっと手を離すと、距離を置く前に避けようとする腕を取られた。白い肌には不釣り合いな、高熱を湛えた皮膚に驚く。 「よそよそしい態度を取られるのは、なかなか寂しいものですよ」 「そんなつもりは……」  ある。あった。たしかに態度に出していた。下唇を噛み、飽きずに見下ろしてくる透を睨んだ。 「……はぁ。こうなるから、透さんと一緒にいるのはイヤなんだ……」 「こうなる、とは」 「意地悪を言っているつもりなのか?」 「まさか」  ぐっと喉を詰めると、かすかに透の口角が上がった。珍しい表情だった。どうしていいか分からなくなって黙ったまま俯くと、すこし前にされたように、指の背で頬を撫でられた。ぞくぞくと耳裏からうなじまで熱感が走って頸を竦めた。  こんなふうに、何を考えているか分からない冷たい貌で気まぐれに触れてくるから、会いたくなかったのだ。動揺して、どきどきして、苦しいのはイヤだ。 「怯えているのですか? 私はこんなにやさしいのに」  冗談めかしてのたまい、喉奥で笑われる。継海は動けない。昔からそうだった。透の深い声音も、繊細な造形の指も、鷹揚とした所作のもどかしさも、黒く冷たい瞳も、責め立てるような言葉尻も、継海は昔からそれらすべての虜になっていた。  面を上げた継海の虹彩に、はるか遠くの漁り火の光が宿った。夜の海面のように、ゆらゆらと瞳の中の光と闇ががちらつく。睫毛の影が月明かりに色濃く生み落とされ、真摯に見下ろしてくる透の眼差しに耐えきれなくなって、影は下瞼を覆いはじめる。継海がまぶたを下ろした。透が顔を寄せてくる気配がする。服に染み込んだ白檀の香りが鼻をくすぐる。継海の唇のあわいが少しだけ開き、脈打つ心臓の上に手を添えて心音が漏れないようにした。待つ。いったい、どうなってしまうんだろう。親戚同士で、男同士で口付けを交わして、いったい、どうなってしまうんだろう――――……。  やがて、継海の(まなじり)に熱い唇が一瞬触れ、はっと瞳を開いたときにはもう、透は一歩下がっていた。 「とおる、さん……」 「帰りましょうか」  跳ねる茶髪を慈しむ手が撫でる。伸ばしかけた手を慌てて引っ込め、自分で握った。継海のその様子を一瞥しつつ薄情に踵を返して、透は懐中電灯の光をフジツボの群れへと向けた。石灰めいたギザギザとした岩石を光が舐める。 (窘められた……?)  継海はやりきれない思いで、眦に熱いてのひらを押し充てながら前を歩く透の背を追った。帰り路は、腕に縋らなかった。  翌日、葬儀は滞りなく終わった。  潮見尋に火葬場はなく、また山々に囲まれていて交通の便も悪いため、このご時世にはかなり珍しく土葬の許可が下りている。代々、この村の者は火葬を知らない。  露草の蔓延るあぜ道を、黒々とした葬列を成して墓地まで向かう。トタン屋根に陽炎がくゆる。入道雲が湧く真夏の青空に、目の覚めるような芳しい緑と黒い喪服の葬列は、潮見尋村で時折見られる光景だ。  終始あたたかい雰囲気を湛えた葬儀ではあったが、透の父が手ずから書き上げた弔辞には参列者もさすがに泣かされた。果樹園を守り、家族を護ってきた曾祖父の生き様と感謝が時にはユーモアを挟みつつ綴られていて、まるで朗読劇を聞いているような気分だった。それも、最後には涙声で読まれるのだから余計に涙を誘われる。断片的な思い出しか持たなくても、それでも継海は曾祖父を偲んで涙を流した。  透はといえば、これが驚くべきことに、なんと彼も涙を一粒流したのだった。倉志名家の面々も親族も、そしてもちろん継海もぎょっとした。おそらく、物心付いて以来の涙ではないかと、透の母は涙も引っ込ませて目を丸くしていた。  そんな透はいま、継海の前で葬列に混ざって白いうなじを炎天下に晒している。歩くたびに黒い髪に光沢が生まれ、歪み、うねるのを後ろからじっと眺めていた。だらんと伸びた白い手は、真っ白なワイシャツと比べてみてもやはり生白くてすこし心配になる。昨夜のように縋り付きたくなって手を伸ばしてみたくなったが、そんな勇気も非常識もさいわい持ち合わせていなかった。  土葬も終わり読経も上げてしまうと、一同はまた本家へと戻った。一応はすべての葬儀は終了したので解散となったのだけれど、帰る者もいれば倉志名家で夕飯を摂り、船送りまで残る者もいた。残る者のほうが圧倒的に多くて、やはり夕刻からはどんちゃん騒ぎの宴会になるのだろうと継海は身構えた。  夕飯をご馳走になっているあいだ、継海は何度も眦を手で擦った。なんだかまだ仄熱く、ピリピリとした刺激を伴っているような気がしてならなかった。もしもあれが、もし、もしもあれが唇に降ってきたら――……。 「ツグちゃあん、船送りに出す手紙、あるならはよう入れてしまわな。ついでに盆飾りも纏めて入れちょいて?」 「はぁーいっ!」  叔母に促され、継海は大急ぎで稲荷寿司を平らげると、いそいそと仏壇の供え物を手に取り検分した。そして、船に入れる手紙を書く段階になり、継海はこころを固めた。命の源に還すもの、魂、供物、そして想い――――。

ともだちにシェアしよう!