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 船送りの準備も済んで縁側ですいかを囓っていると隣に透が座った。どきりとして、種を何粒か噛み砕いてしまい、苦い顔で嚥下する。 「一度にたくさん食べると、おなかを壊しますよ」  杯を手に、透は日本酒を一口呑んで横目で忠告してくる。 「向こうにいるときは、すいかなんて食べないから。さすがに半玉でも一人じゃ多いし、でもカットして売ってあるやつはなんだか味気なくって」 「そういうものですか。モノは同じなのに、味が変わりますか」 「変わるよ。やっぱり、ここで食べると懐かしいような気がする」  ほんのすこし潮の香りがする果実。真夏の炎天下に温まったキンカンを囓ったことを思い出した。あれを木からもいで手渡してくれたのも、曾祖父だった。 「透さん、大おじいちゃんのこと好きだった?」  問うと、透は手の中で杯をいじくりながらしばらく無言で考えていた。伏せるとあんがい睫毛が長い。 「そう……ですね。祖父が早くに亡くなってほとんど触れ合う機会もなかったですから、そのぶん凪朗じいさんには可愛がってもらいましたよ。よく、そこらの木々から勝手に果実をもいでは、次から次へと私のポケットに入れてくる人でした」 「はは、それ分かる。俺もいっぱいフルーツもらったなぁ」  天を仰ぎながら笑うと、透もつられたように小さく笑った。けらけらと田畑中の蛙や虫らが鳴き、輪唱で夜気を震わせている。夜空にはガラスの粒をめいいっぱいまぶしたような星が広がっている。美しくて、目を奪われる。 「――……陳皮な言い方かもしれませんが、」 「……?」  杯の湖面に星を映しながら、透は一瞬口ごもった。  無言で続きを促すと、照れ隠しのようにくるくると杯を回し、日本酒の香りを嗅ぐ。 「……凪朗じいさんの果実は、太陽みたいな味がしました」  炎暑に蒸された果実。熱く迸る果汁。柑橘の、皮から飛び散るこまかな酸い匂い。頬張ると薄皮がぷつりと弾けて、果肉が歯の間で音を立てて押しつぶされる。  曾祖父はいつも、太陽と愛を分け与えて笑っていた。  まぶたを閉じる。星空は闇夜となったが、代わりに凪朗という太陽が映し出される。継海は葬儀で見た、なめらかな頬に熱い涙の雫を滑らせる透の姿を思い起こした。あれは、太陽を喪った涙だったのか。 (俺は、透さんの太陽になれるかな……)  薄目を開いて隣を窺うと、透は澄ました貌で杯を唇に付けていた。出っ張った喉仏が上下するさまを、継海はひそかに熱い眼で観察していた。  昨夜と同じく、恐る恐る歩を進めながらなだらかな岩石群を進んだ。透のリサーチ通り、フジツボ恐怖症の面々も特に混乱はなく、全員海へとたどり着き船を流すことができた。橙色の炎を灯した白い船は、右に左にふらふらと揺られながら当てのない夜の旅へと出港した。もちろん、あの中には継海の手紙も入っている。一通は曾祖父へ充てた手紙。もう一通は、透への恋文だ。 (流れていってしまうな……)  伝えずとも、伝えられずとも互いのほのかな恋心は承知している。承知しているけれど、実らぬものは仕方ない。親戚だ。本家の長男と、分家の一人息子だ。何がどうなる、想いを伝えて、どうなる――……。  へべれけの叔父が大きな動作で手を振って船を送り出している。その陰で、継海は滲んだ瞳を手で擦った。次第に遠くなる灯りは、やがて消えてしまった。波に転覆したのかもしれない。儚いけれど、これで曾祖父の元へと手紙は届くだろうか。そして、透へと宛てた行き場のない恋は終わるだろうか。 「凪朗じいさんのことを、思い出しましたか」  肩に手を置かれ、慌ててもう一度目を擦った。 「あまり擦るものじゃありませんよ。痛くなりますよ」  うぅ、と小さく呻くと、呆れたようなため息がつむじをくすぐった。 「もう成人したんですから。いつまでもメソメソしていたら、大おじいさんも心配しますよ」  違う、違う、と頭の中で何度も否定する。継海が首を振ると、透は困ったようにふらふらさせていた手を頭に乗せ、何度か撫でた。髪と髪の隙間に細い指が入り込み、優しくくすぐられる。どうにか涙を落ち着かせて面を上げると、船送りに来ていた親族達は次々と帰路に着いていたようで、その背はすっかり遠くに行ってしまっている。残された二人は、波音の中、盆最後の夜のもったりとした空気の中に沈んでいる。近くの山でフクロウが鳴いている。蛙がギロギロと歌っていて、透は相変わらず静かに困っている。 「ごめん――……」 「いいえ。謝られるほどのことでは。……ところで、」  相変わらずの素っ気ない物言いに顔を上げると、透はすいっと白い封筒を差し出してきた。表には、小さな字で〝透さんへ〟と書いてある。心臓が跳ねた。 「なっ、……んで、それ、を……っ」  うまく呼吸ができなくて、はくはくと上ずった息を漏らす。 「私が、船送りのいわば幹事みたいなものですからね。一応、流す前に一通りの物がきちんと入っているか確認するんですよ」 「あ、あ……」 「そうしたら、私宛の手紙が入っていたものですから気になって取っておいたんです。多分これ、継海の字ですよね。記帳の字と似ているように思えるのですが、――気のせいですか?」 「え、…………」  これは、はいとは言いづらい。目を泳がせて、くしゃりと泣きそうにまぶたをひしゃげさせる。 「中、読んだ……?」 「最初の方だけ、すこし」  透は継海の頬を人差し指で撫で、やがてその指はするすると唇に行き着いた。指の腹が、唇と唇のあわいを撫でる。ごくんと継海の喉が鳴る。 「これは、あなたから私へ宛てた手紙で、合っていますか」  頬が熱い。大粒の涙がぼろ、と瞳のきわから流れた。知られるつもりじゃなかった、知られるつもりじゃなかった。 「ふ……、」 「泣かなくてもいいじゃないですか……」  そう言われても、継海としては長年の恋心と、もじもじとした想いをこれで綺麗さっぱり無くしてしまうつもりだったので、もうどうしていいのか分からないのだ。せっかく諦めが付きそうだったものを、当の本人に掬われ、そして眼前に晒されている。この滑稽で惨めな気持ちは継海の中でうまく昇華できず、ただ行き場のない感情が涙となって溢れた。  透は何度か零れる継海の涙を指で頬にすり込んで拭っていたが、次から次へと溢れ出るのでこれでは切りがないと、唇を寄せて熱い眦を舐めた。 「へ……っ!?」 「あ、止まりましたね」  あっけらかんと言い放ち、透は瞳を細めた。愉しげだ。 「な、なめ、た……?」 「舐めました」  海みたいな味ですね、と独特の感想を漏らし、透は味を確かめるように薄い唇を何度か舐めた。 「継海、この手紙をあなたから渡してくれませんか」 「俺から……?」 「私は、この手紙で迷いを断ち切りました。だからこそ、あなたの手からきちんと受け取りたい。この中に書いてあることを、その口で声に出して言ってみて。私が受け止めます」  腕を掬い取られ、封筒を押し付けられる。惰性でそれを受け取り、何度か裏返してみたりと手の中で繰る。  おずおずと顔を上げて伺うように透を見上げると、彼はすこし笑っていた。嬉しそうに、いつもはきゅっと上がった眦をとろりと下げて、心底愛おしそうに――……。 「透、さん、……、俺は、俺はあなたが、す、き、です…………」  ぶつ切りの言葉に、それでも透は満足したように何度も頷いた。 「私もですよ。あぁ、手紙が流されなくて、よかった」    *   *   *  眼下に真っ青の海が広がる。石灰のように見える海岸は大量のフジツボだ。きっと今もフナムシが大量に駆けて村人を驚かせている。ぽつんとした集落があって、ひときわ大きな屋敷が倉志名家だ。庭にモモやキンカンが植わっている。集落の先は広大な山々で、ナシやブドウの棚田があり、鬱蒼とした木々の一つ一つに太陽のような果実が実っているのだろう。それらを想像しながら、継海はバッグの中から真っ白い封筒を取りだした。表には、〝継海へ〟と書かれてある。その筆跡は角張っていて、倉志名透の書いたものなのだと一目で判った。 『私も、あなたに手紙を書いてみました。送られただけで返事も出さないなんて、薄情ですからね』  そう言って仏頂面で封筒を手に握らせてきたが、触れた皮膚はすこし汗ばんでいてかすかな緊張を見止めた。  継海は慎重に封筒を開ける。純白な便せんが一枚。宛名と同じく、角張った生真面目な文字が並んでいる。継海の瞳が文字の羅列を追い、そして――……、真夏の空に輝く太陽のような笑顔を見せた。 <了>

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