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第1―1話

この真っ白い部屋にいつからいるのだろう。 もう、ずっと、ずっと、昔からのように思える。 でも、昨日のことのように思える時もある。 すると頭の中がぐるぐると渦巻いて、身体の震えが止まらなくなる。 俺はそんな時、深呼吸をする。 3回だけ。 吉野が。 俺の大切な恋人、28年間片想いをしてやっと恋人になれた吉野千秋が教えてくれたから。 「トリ、深呼吸して。 3回だけでいいよ。 直ぐに頭がすっきりするよ」って。 吉野は普段は手がかかるくせに、妙に勘が鋭い時がある。 吉野に言わせれば、「たまにしかないけど」らしいが。 けれど吉野の言うことは、いつも本当だ。 漫画を描くことが順調にいかない時以外は、嘘がつけないやつだから。 生まれた時から一緒に育った俺には、吉野の嘘なんて直ぐに見破れるし、吉野は全部顔に出るから。 そんなところもかわいくて堪らないと告げたら、吉野はきっと真っ赤になって「もう言うな!」と照れるだろう。 ああ、吉野に会いたい。 それに会社にも行かなくては。 俺は丸川書店エメラルド編集部の副編集長、羽鳥芳雪、28歳。 俺はいつも午前6時に起きる。 そしてこの部屋に備え付けの洗面所で洗面を済ませる。 すると仕事と吉野の世話に集中できるようにと、両親が雇った家政婦とその助手とかいう男がやって来る。 俺はそんな人達はいらないと言ったが、身体の弱いところのある母親に「私が手伝えればいいんだけど」と済まなそうに言われてしまっては断れなかった。 そして普段は絶対に開かない扉を家政婦が難なく開けて、家政婦と助手が部屋に入って来て、せっかく開いた扉を締め、白い柵が付いた窓の側にある床に固定されたテーブルに食事の乗ったトレイを助手が置く。 「羽鳥さん、おはようございます」 家政婦も助手も礼儀正しい。 俺は頷いて床に固定された椅子に座りテーブルにつく。 食欲は余り無いが、朝食を抜くのは身体に悪い。 それに一口でも食べなければ、この礼儀正しい家政婦と助手は態度を豹変させる。 俺をベッドに寝かせて身体を指一本動かせないようにすると、抵抗出来ない俺の腕に、なんと針を刺すのだ。 そして何分、時には何時間もその状態のまま放置される。 針を刺すのは『先生』と呼ばれている、このマンションの管理人だ。 針はそれ程痛くは無いが、不快なことに変わりはない。 それにそんなことは時間の無駄だから、俺はきちんと朝食を食べる。 トレイには箸は乗っていない。 箸の代わりになる物は、木のスプーンだけだ。 けれど料理は全て木のスプーンで食べられるようにカットされているので不自由は無い。 そして俺は食後にもう一度歯磨きをすると、家政婦に「着替えは?」と訊く。 この部屋にはクローゼットが無いのだ。 家政婦はにっこり笑って「今日は日曜日ですよ」と答える。 俺は何とも言えない違和感を感じる。 昨日も、一昨日も、その前も。 日曜日では無かったか? ああ、頭の中がぐるぐると渦巻いて、身体の震えが止まらなくなる。 深呼吸。 深呼吸だ。 俺は吉野の声を必死に思い出す。 「トリ、深呼吸して。 3回だけでいいよ。 直ぐに頭がすっきりするよ」 スーハースーハースーハー。 何だ。 今日は日曜日じゃないか。 俺はいつの間にか俺の両腕を掴んでいた助手に、「何をしてる。今日は日曜日だろ」と言ってやる。 すると助手は申し訳なさそうに、「失礼しました。分かって下さったのならいいんです」と腕を離して一礼する。 俺は自分の非礼を素直に詫びる助手に、それ以上あれこれと言わない。 それが大人の対応だと思うからだ。 家政婦が「ではまたお昼に参ります」と言って、トレイを持った助手を引き連れ部屋を出て行こうとする。 俺はその背中に「吉野は?」と訊く。 家政婦がきちんと身体ごと振り返り、「今日は画材を選んで注文されるそうです。次の日曜日にいらっしゃいますよ」と微笑んで答える。 俺はその答えに満足する。 俺が頷くと、家政婦と助手が部屋から出て行く。 扉が音も無く閉まる。 校了明けに吉野が直ぐ動くことは良いことだ。 先月の校了明けに今月の予定表を作ってやって良かった。 きっと次の日曜日にはプロットを持って来るだろう。 吉野は病気で入院しながら漫画を描いているそうだ。 『そうだ』というのは、吉野は俺が他の担当作家の仕事場にいる時に伝染性の病気を発症して、そのまま病院に隔離されて入院してしまったのだ。 それでも吉野は病院で健気にも漫画を書き続けている。 そしてプロットやネームを俺と打ち合わせをしなければならない時は、病院の許可を貰って俺に会いに来るのだ。 俺は真っ白な部屋に一箇所だけ彩りのある壁を見る。 そこは本棚だ。 吉野が今迄出版したコミックス全部と月刊エメラルドがずらっと並んでいる。 これらは全部、吉野がプレゼントしてくれた物だ。 俺は吉野が丸川書店の月刊エメラルドで一番最初にコミックス化されたコミックスを手に取る。 そうして部屋の中央にある床に固定されたソファに座る。 ページを開くごとに、吉野と二人三脚でやって来た日々が蘇り、胸が熱くなる。 俺は時に涙する。 吉野の…千秋への愛情が抑えきれずに。 そうして今や一千万部作家となった千秋に思いを馳せる。 俺は幸せを噛み締めるようにページを捲る。 ゆっくりと。 どんなに時間がかかっても構わない。 何故なら病気の吉野を支える為に、俺は吉野だけの担当編集になり、この部屋にはテレビもパソコンもスマホも固定電話すら無いのだから。 マンションが電波関係のリニューアル工事をしていて、全てが圏外なのだ。 『先生』はそう説明して何度も謝罪してくれるから、俺は気長に開通するのを待っている。 たった一人の担当作家の吉野はこまめに手紙をくれるし、俺もそのつど返事を書いているから連絡に不便は無い。 ただ、この部屋には便箋もボールペンも無くて、画用紙にクレヨンで返事を書かなくてはならないのが不満だが。 これでは小さな子供ではないか。 俺は三十路手前の男だというのに。 初めて吉野に返事を書く時には俺は反発したが、ベッドに寝かされ身動き出来ず腕に針を刺された俺に、『先生』から吉野が俺はメールでも素っ気ないから、手紙くらいはかわいいものが欲しいと言っていると聞かされて納得した。 吉野は少女漫画家のせいか、男にしてはかわいいものが好きなのだ。 まあ俺は絵心が無いので、かわいいと言われても、段落ごとにクレヨンの色を変えることぐらいしか出来ないが、それでも吉野はカラフルで嬉しいと凄く喜んでくれた。 そんな訳で、趣味の無かった俺に趣味が出来た。 それは読書だ。 今までも本を読むのは好きだったし、編集者として本を読む機会も多かったが、『趣味』と言える程熱中したことは無かった。 自分でも俺は無趣味だと思っていた。 だが今は誰に聞かれても断言出来る。 俺の趣味は読書で、吉川千春だけが愛読書だと。

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