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第1―25話

翌朝、羽鳥の母親が持参した『赤ん坊の羽鳥と吉野の写真』の量に三上は驚きを隠せなかった。 ゆうに100枚以上はあるだろう。 母親は恥ずかしそうに「125枚あります」と言って、写真用のA4サイズで50枚入りのファイルを3冊テーブルに積んだ。 「本当はもっとあるんですけど、芳雪と千秋ちゃんが綺麗に揃って写っているのを選びました」 三上は思わず苦笑した。 「それだけあれば、羽鳥さんは充分満足されると思いますよ」 「先生もそう思われますか! では芳雪をよろしくお願いします」 母親は嬉しそうに言うと立ち上がり、深々と頭を下げると、バッグとコートを掴み三上の研究室から出て行こうとする。 三上は慌てて立ち上がった。 「羽鳥さんのご様子を、覗き窓からでもご覧にならなくてよろしいのですか?」 母親の三上に向けられた笑顔が固まる。 しばしの沈黙の後、母親は三上を真っ直ぐに見て哀しそうに言った。 「…昨日…芳雪に面会して…あの子の様子を見て…分かったんです。 今のあの子に私達は必要無いんだって。 あの子を元の芳雪に戻せるのは…いえ元に戻せなくても、芳雪に必要なのは千秋ちゃんだけなんだって…」 「お母さん…」 母親は瞳に涙を溜めながらも、気丈にはっきりと言った。 「昨日の芳雪…正直に言って、怖かったです。 初めて拘禁室であの子を見た時はショックでしたが、拘禁室にいた時とは比べ物にならない程に怖かった。 夫は何も言いませんが、夫も怖がっているのが伝わってきました。 これがあのやさしくて聡明な芳雪だとは信じられませんでした。 それなのに千秋ちゃんがやって来たら、直ぐに落ち着いた上、赤ん坊の頃の写真が見たいなんて言い出すなんて…。 私と夫がいかに無力か実感しました…」 三上は羽鳥の母親にかける言葉が見つからなかった。 母親はまた三上に深々と頭を下げると、今度こそ三上の研究室を去って行った。 三上がその後羽鳥の病室に向かうと、羽鳥と中村という男性の助手が談笑していて、三上も三上に続いて病室に入った女性の看護師も目を丸くして思わず扉の所で立ち止まってしまった。 羽鳥は精神医療センターに来てから、看護師や助手には必要最低限のことしか話さなかったからだ。 もっと正確に言えば、治療についての返事をするだけだ。 その羽鳥が笑顔で楽しそうに話している。 だが三上は羽鳥の「おはようございます。三上先生」という言葉で我に返った。 看護師に振り返り「施錠」と声を落として言う。 そう、扉は開いたままだったのだ。 看護師は治療用具の揃ったカートを素早く病室に完全に入れると、今度は素早く施錠をした。 そして三上は羽鳥のベッドの脇に立った。 その時には助手はベッドから離れて、三上が治療をする時の定位置に立っていた。 三上が治療をしながら羽鳥に話しかけようとした時、羽鳥が言った。 「俺と吉野の赤ん坊の写真はいつ見られますか?」 「そうですね。 なんせ100枚以上あるので、どうやって羽鳥さんに見てもらうか考えています。 この部屋にファイルは持ち込めませんので。 でも今日中には必ずお見せします」 羽鳥はふふっと笑った。 「俺に良いアイデアがあります。聞いてもらえますか?」 三上の背中に、三上にも理解出来ない悪寒が走った。 羽鳥の話はこうだった。 ファイルはきっと部屋には持ち込めない。 だったら何枚かを纏めて角に穴を開け、単語カードのようにしたらどうか。 そうすれば誰の手を煩わすことなく、羽鳥も好きな時に写真を見れる。 問題はその束になった写真の単語カードを留める物だ。 「それを中村さんと話していたんです」 羽鳥が微笑む。 三上が中村に視線を向けると、中村は頷いた。 「君から羽鳥さんに写真の話しをしたのかね?」 三上の厳しい声に中村は一瞬言葉に詰まりながら答えた。 「いいえ。 羽鳥さんから相談されたんです」 「それで?」 「普通の単語カードのような輪っか状の金具は使えないから、どうしようかと話していました」 「そうか。それで答えは出たのかね?」 「いえ…あの何か不味かったですか?」 「ああ。 大いに不味いね」 三上が厳しく言い切った時、羽鳥の「三上先生!」という、わざとらしく聞こえるほどの明るい声がした。 まるで幼稚園児や小学校低学年の子供が『先生』を呼ぶように。 三上は冷静に「何ですか?」と答える。 羽鳥は整った青年の顔に、別人のような子供っぽい笑顔を浮かべている。 「せんせーどうして中村さんをいじめるのー? 中村さんはやさしくておもしろいひとだよー。 僕、ひらめいた! 輪っかはゴムがいいとおもうな!」 「そうですか」 三上の冷静な声は変わらない。 すると羽鳥はなんとべソをかきだした。 看護師が唖然としている。 「中村さん!中村さん! せんせーが冷たいよ! 意地悪だよ! うわーん!」 べそべそ泣く羽鳥に、中村がベッドに駆け寄り、三上を押し退けて憎々しげに睨みつけると、ベッドに固定された羽鳥の手を握る。 「大丈夫、大丈夫だよ。 三上先生は本当はとってもやさしいんだ。 ほら、泣かないで…」 中村の甘ったるい慰める声。 その時、三上が中村の肩を両手で掴み、自分の方を向かせると、親指にぐっと力を入れ「中村くん!日常業務と非常事態以外で私の許可無く患者に触るな!」と一喝した。 すると中村は夢から醒めたように目をパチパチすると、羽鳥から離れ、三上に向かってがばっと頭を下げた。 「申し訳ありませんでした!」 「病室を出てナースステーションで待機していなさい」 「はい」 もう中村は羽鳥と笑い合い三上を睨みつけ羽鳥を慰めていた『中村』では無く、普段の『中村』に戻り、三上に再度一礼すると病室を出て行く。 その扉をまた看護師が素早く施錠する。 三上がその様子を確認して視線を羽鳥に戻すと、羽鳥は平常の羽鳥に戻っていた。 羽鳥はいつものポーカーフェイスで「すみません。顔が何だか濡れていて気持ち悪いので拭いてもらえませんか?」と言う。 三上は看護師に「羽鳥さんの顔を濡れタオルで拭いてあげなさい」と言って間髪入れずに治療にかかった。 その間、羽鳥は顔を拭いてくれた看護師にお礼を言った以外は、大人しく無言で治療を受けていた。 三上も治療に関しての事以外話さなかった。 そして治療を終えた三上が「では、また午後の診療で」と言って立ち上がった時も、羽鳥は頷いただけだった。 三上が羽鳥に背を向け扉へと向かう。 あと一歩で病室を出るというその時。 「輪ゴムで決まりですか?」 と羽鳥の静かな声がした。 三上がゆっくり振り向く。 羽鳥と三上の目が合う。 小さな窓から木漏れ日が降り注ぐ清潔で小さな病室。 羽鳥は狂ってなどいなくて、人間ドックにでも来たように見える、平凡だが平和な光景。 「輪ゴムで決まりですよね?」 三上は口が固まったようで返事が出来ない、と思ったが、三上の意思に反して言葉はスラスラと出た。 「まだ検討してみなくてはなりませんが、輪ゴムは良いアイデアだと思いますよ」 羽鳥は「ありがとうございます」と言うと瞼を閉じる。 三上は扉のノブに手を掛ける。 アハハハハ キャハハハハ アーハハハハ 三上の耳に、子供の甲高い笑い声が微かに聞こえた。 子供の笑い声なのに、悪意に満ちているように三上の耳に響く。 こんなに平凡で平和な病室で。 禍々しい子供の笑い声が聞こえる筈が無いのに。 三上が振り返る。 羽鳥は切れ長の瞳を開けて、じっと三上を見ている。 口はしっかりと閉じられていた。 それでも三上は叫んだ。 「羽鳥さん!やめなさい!」 ピタッと笑い声が止まる。 その代わり、羽鳥の静かな声がする。 「輪ゴムで決まりですよね?」 「ええ!決まりです!」 三上は怒鳴って答えると、羽鳥の病室から飛び出した。 医者としての威厳などどうでも良かった。 ただただ羽鳥の病室から一刻も早く出たかった。

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