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第1―24話
吉野は羽鳥の病室を出ると、最初に羽鳥がいた拘禁室のロッカーに向かった。
精神医療センターに着いた時、そのロッカーで着替えたからだ。
ぱぱっと着替え終わると「吉野さん」と三上の静かな声がした。
吉野がさっと振り向く。
三上はいつもの自信に溢れ威厳のある姿では無く、疲れ切っているようだった。
「今日はお呼びだてしてすみませんでした。
本当に助かりました。
ありがとうございました」
頭を下げる三上に吉野が慌てて言う。
「そんなことありません!
トリの治療の役に立てるなら、俺は何だってします!」
三上は顔を上げると、目の下にクマのある青白い顔で微笑んだ。
「帰り際にすみませんが、直ぐに済みますから話しを聞いて頂けますか?」
吉野は三上の目を見上げて、子供のようにコクンと頷く。
「私があなたに言ったことは間違っていました。
あなたは羽鳥さんの天使で、無自覚でしょうが羽鳥さんに甘えてもいいのです。
砂糖菓子に包まれた女王陛下でいていいのです。
なぜならそんなあなたを羽鳥さんは愛している。
自分の生みの親の些細な失敗を許せなくて、常識では考えられない力を使い、口内を噛み血だらけになるほど怒り狂う羽鳥さんは、あなたに変わることを望んでいません。
今日のあなたと羽鳥さんの様子を見て確信しました。
ですから、あなたはあなたのままでいて下さい。
但し羽鳥さんの心に寄り添う小さな絆創膏であることを忘れずに」
「先生…」
吉野のタレ目気味の大きな丸い瞳に涙が滲む。
「それとあなたが羽鳥さんに面会している最中に、羽鳥さんのご両親と電話でお話ししました。
柳瀬優さんに羽鳥さんの病状を話していいかと。
ご両親は快諾して下さいました。
但し、吉野さんと柳瀬さんの間だけにして下さい。
絶対に他言はしように約束して下さい」
「はい…!
約束します!
ありがとうございます!」
吉野は涙をポロポロと零しながら、何度も何度も頷く。
三上は反射的に吉野の涙を指で拭った。
吉野が照れたように笑う。
三上は少し赤くなると口早に言った。
「確か吉野さんはこれからネームという物を描かれるんですよね?
こちらに面会に来るのは大変ではないですか?」
吉野は軽く頭を横に振ると言った。
「トリにも2~3日は面会に来れないと話してあります。
トリは編集ですから、ネームの大切さを分かっているので了解してくれました。
ただ、その間、何か読みたい物や欲しい物はある?と訊いたら俺とトリの赤ん坊の頃の写真が見たいと言われました」
「…赤ん坊ですか…。
それについて羽鳥さんは何か言っていましたか?」
「…トリは…生まれる前から天使の俺を守る運命だったからとか…神様がトリを俺に守らせることにした…とかです。
頭に叩き込みたいと言って」
吉野は唇を震わせ、大粒の涙がポロポロと白い頬を伝い床を濡らす。
三上はやさしく吉野の肩をポンポンと叩く。
「羽鳥さんのような病状の方に会われるのはとても神経を使いますよね。
吉野さんは本当に良くして下さって、私ども治療に当たる者は皆感謝しています。
吉野さんは明日から今月の締め切りに向けて漫画を描くことに集中しなけばならないでしょうから、羽鳥さんのお見舞いなどに気を使わずお仕事に専念して下さい。
羽鳥さんに異変があれば今日のようにご連絡します。
赤ん坊の写真を羽鳥さんが欲しがっていることも、私がこれから羽鳥さんのご両親に連絡して届けてもらいます。
今日は何も考えずゆっくりして下さい。
明日からの仕事に向けて」
「…は、はい…」
吉野は儚く微笑んで頷くと、デニムの尻ポケットからタオルハンカチを取り出し、顔を拭いた。
吉野が顔を拭き終わると三上が穏やかに言った。
「玄関までお送りします」
吉野が精神医療センターからタクシーに乗って帰って行くと、三上は自分の研究室から羽鳥家に電話を掛けた。
電話に出たのは羽鳥の母親で、三上が簡潔に羽鳥が赤ん坊の頃の羽鳥と吉野が写っている写真が欲しいと言っていると伝えると、母親は朝一番にお届けしますと言ってくれた。
三上はお礼を言って電話を切った。
その時、ノックの音と共にスピーカー越しに看護師の声がした。
「三上先生。
羽鳥さんの就寝時間です」
「分かった。
直ぐに病室に行く」
三上は羽鳥のカルテを持つと立ち上がった。
羽鳥は目を瞑って就寝前の治療を受けていた。
目を開けたのは、身体を電動ベッドで起こされ、内服薬を飲む時だけだった。
まるで昼間の悪夢のような出来事など無かったかのように、安らかな表情をしている。
三上は吉野が羽鳥を静めてくれたとはいえ、羽鳥が吉野に話す内容も普通とは言えないし、なによりあの『狂気』の雨を思うと、このまま静かに寝かせてやりたかった。
いや、正直に言えばこのまま静かに寝て欲しい。
治療を終えると三上は唇に人差し指を立て、看護師一人と助手二人に目配せをした。
三人は頷き、そっと静かに、そしてテキパキと羽鳥の眠る状態を作り、終わらせた。
三上は素早く確認を済ませ三人に向けて頷くと、羽鳥の病室から出て行こうとする。
助手の一人が照明を消して暗闇になった途端、「三上先生」と羽鳥の声がした。
その声は眠そうで小さい。
けれど三上は飛び上がりそうに驚いた。
助手が照明を点ける。
羽鳥は微笑んで「吉野と俺の赤ん坊の写真はどうなりましたか?」と訊いた。
「明日には用意出来ると思いますよ」
三上はなんとか『医者』の体裁を繕って、やさしく威厳のある声で答えた。
「そうですか。
ありがとうございます。
おやすみなさい」
羽鳥はまた眠そうな小さい声でそう言うと瞼を閉じた。
「…おやすみ、羽鳥さん」
助手がまた照明を消した。
三上はこの部屋を一刻も早く出たかった。
だから羽鳥が口元だけで満足気に笑ったことなど気づかなかった。
そして三上達が病室から去ると、羽鳥は暗闇でパッと目を開けた。
暗闇をスクリーンにして吉野の姿が浮かび上がる。
かわいい、かわいい、吉野。
生まれた時から恋した人。
俺の世界の中心。
ただひとり愛する人。
なあ、千秋。
俺は第一歩を踏み出すぞ。
二人の為に。
お前は心配しなくていい。
神様からのギフトを活かして、描きたい漫画を描くだけでいいんだ。
ハハハハハ。
ああ、笑いがこみ上げてくる。
俺の計画に狂いは無い。
だけど今、声を上げて笑うのは我慢だ。
あと数時間で終わる今日を無駄にはしたくないからな。
そう、明日も明後日も。
俺がここから出られるまで。
無駄には出来ない…!
羽鳥は暗闇で目を見開きギラギラと輝かせながら、吉野の姿を追い続ける。
そんな羽鳥に羽鳥自身が満足しながら。
『そして暗黒と荒廃と『赤死病』とが、あらゆるもののうえにそのほしいままなる勢威をふるうばかりであった。』
あらゆるもののうえに
そのほしいままなる勢威を
ふるうばかりであった
そう。
羽鳥は暗黒と荒廃が病名すら分からない拘束された自分と、この一人きりの最低限の物しかない病室の、あらゆるもののうえに、そのほしいままなる勢威をふるうばかりであることに満足する。
そして暗闇に映る愛する吉野の姿にも、暗黒と荒廃がそのほしいままなる勢威をふるうばかりであることに、心の底から満足するのだった。
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