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最終話

「それは?」  訊ねれば、アーナヴは声を落として答えた。 「ポルデリック伯爵の被害に遭った者たちの名前と、その証言です」  ポルデリック――耳にするだけで胸の悪くなるような名前に、リュシアンは眉をひそめる。  それは、つい先日の新王の戴冠式にも参加し、その折、リュシアンにも声をかけてきた男の名だ。  キルレリアの西にある綿花の一大産地を治める貴族の顔を、リュシアンはひと目で思い出した。脂ぎった鷲鼻、濁った瞳。あれから十数年の歳月が経っているが、見るからにいやらしい顔貌はなにひとつ変わっていなかった。  結局、その場で事情を察したらしいダルマンの手によって伯爵はリュシアンから引き離されたが、おなじくリュシアンの顔色から男の過去を察したはずのテオドールがリュシアンに何も問い糾さず、何の行動も起こさなかったのは、アーナヴをつかって密かにポルデリックの身辺を調査していたからなのだろう。 「思った通りの結果が出たようだな」  よくやった、と書類を叩くテオドールに、アーナヴは力強く頷く。 「はい。あの男が奴隷に産ませた子どもは、わかっているだけで4人いました。全員が生まれてすぐ奴隷商人の手で売られていて、いまはどこにいるのかわかりません。ほかの使用人の話によると、手を出された奴隷のなかには、イェマとおなじような小さな子どももいたようです」  許せません――アーナヴは吐き捨てるようにいう。  ポルデリックという男はかつてのリュシアンだけでなく、おなじように立場の弱い者たちを次々と手篭めにし、都合が悪くなったらすぐ捨てているらしい。  胸の悪くなるようなアーナヴの報告を、しかし、リュシアンは噛みしめるように心に刻んだ。  彼らの苦悩の一端は自分にも原因があると思えてしかたない。テオドールが聞けば、そんなことはない、というだろうが、やはりそのような人間を野放しにしていたこと自体に罪悪感を覚えないではいられないのだ。  もう少し早く事態に気づいていれば。  あと少しだけ、あの頃の自分に広い視野があれば。  たとえそんなものがあったとして、何の力も無かった自分にはどうしようもないのだと頭ではわかっていても。 「ポルデリックの奴隷たちや使用人が嘘をついている可能性は?」 「ありません。みんな、わたしがおなじ奴隷だったと知ると、涙を流しながら話をしてくれました。あの目にウソがあるようには、わたしには思えません」 「わかった。おまえを信じる」  テオドールがいうと、アーナヴはホッとしたように息を吐く。 「これからもどんどん私をつかってください、閣下。私はひとりでも多くの仲間を救いたい。旦那様の……養父上のお役に立ちたいです」 「その意気は買う。しかし、あまり深追いはするな。我々は然るべきときに、然るべくおまえを使う。おまえはダルマン公の大切な息子だ。危険なことは慣れた者にまかせて、なによりもまず、己の命を守ることを考えろ」  使命を帯びた瞳を輝かせて弟のもとへ向かうアーナヴの背中を、テオドールは頼もしさを滲ませる瞳で見送っていた。 「着実に養父の気質を受け継いできているな、あの子どもは」 「彼のような歳の人間を子どもと思うのなら、私たちも歳をとった証拠でしょうね」 「ちがいない」  しばらくしてアーナヴが庭に姿を現す。弟たちの遊びを遠巻きに見守っていた彼だったが、元奴隷の青年は、それまでの苦悩を吹き飛ばすような笑顔で弟たちの歓声の輪に加わった。 「……これからポルデリックのような者たちが次々と現れる」  テオドールが呟く。リュシアンは頷いた。 「覚悟していたことです。彼らがあの異常な夜を忘れるはずがない」 「お前の美しさを、だろう」  リュシアンが頬を赤らめ睨めつけるのを、テオドールはふっと笑って流した。 「しかし、貴方が私情に走らないのには驚きました。以前の貴方なら、あのような者を見た瞬間、殺めかねなかった」 「必要がないからだ」  犬を囲み、無邪気に笑う子供たちを穏やかな瞳で見つめながらテオドールはいった。 「ああいう人間の多くは、弱い立場の人間を弄ぶことをなんとも思っていない。そこに金が絡もうが絡むまいが、きっとどこかでおなじようなことをする。だから――」 「だから、あの夜に関わった男たちを洗い出そうとしているのですね。男らを探し出し、処罰する。王政が廃止され、陛下が直接手を下すことが出来なくなる前に」 「……そうだ。来たるべき公正公平な社会を築くため、不穏分子は少しでも多く取り除く。それで、おまえを」  言葉を切ったテオドールの腕へ、リュシアンはそっと手を伸ばす。 「かまいません」  自分が男たちを誘い出す炎になる。それこそが、いまここに自分がる理由なのだとわかっている。 「……貴方は変わった、テオドール」 「そんなに老けたか、私は。やはり、いまのうちに〝かつら〟のひとつやふたつ作っておくべきか」 「ちがいますよ。……わかっているのでしょう?」  逞しい肩に遊ぶ蜜色の髪を、指先に絡め取る。ぐい、と力を込めると、男の顔はあっさりと落ちてきた。  美しく、傲慢な主。  従者となったいまも、強引なところや、ときに恐ろしさを覚えるほどの策略家であることは変わらない。  しかし。 「いまの貴方は、まるで研ぎ澄まされた刃だ。美しく人を誘い、不用意に近づけば怪我をする。でも……人は――私は、それに触れずにはいられない」  ふ、と近づく唇に、息を吹きかける。  テオドールの手を取り、己の胸に置いた。 「聞こえますか。私のこの鼓動が。男として頼もしく、人として成熟した貴方に向かって何もかも……この肉体すら投げ出して駆け出そうともがく、この心臓の音が」  リュリュ、と男の吐息が自分の名を呼ぶ。それだけで身が打ち震えるほど亢奮する。 「貴方に触れたい。貴方を、もっと知りたい。でも、おなじくらい怖いのです。貴方に夢中になればなるほど、私は私を失ってしまう」  手を離せば、もう二度と会えないかもしれない。  一緒にいても、胸が苦しくて、ざわついてしかたない。 「貴方も、おなじなのでしょう」  こんな恐ろしい想いを、この男はずっと抱いてきたのか。  こんなにももどかしく、そして――甘美な想いを。 「これが恋なのですね、テオドール。恋とは、こんなにも抗いがたい……――っ!」  ぐい、と首筋を掴まれて喘ぐように息を継いだ。  咥内を激しく犯す熱い舌先を、リュシアンは夢中になって追いかけた。  抱きしめられる身体が痛い。しかし、強く縛られれば縛られるほど安心した。 「テオ。貴方と、恋仲になりたい」  遠くに子どもたちの歓声が聞こえる。  一瞬ちら、と外を見たテオドールが舌打ちをして、カーテンを勢いよく引く。 「これ以上、休んでいる暇はないんだぞ。どうしてくれる」  上着を脱ぎ、ゆっくりと冷たい床に押し倒された。  カーテンのつくる暗い影の中で、愛しい男の瞳が笑っている。 「嫌味をいわれる覚悟は、もうとっくにできていますよ」 end.    

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