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エピローグ 3

 ひさしぶりにゆったりとした時間を過ごし、目覚める前より疲労が蓄積した身体を綺麗に清めた。部屋の前に置いてあったまだ温かい湯は、古参の侍女が折をみてそっと運んでくれたものだろう。  昔もいまも、彼女たちには頭が上がらない――突如として王族の一員となった自分を以前と変わらぬ距離でさりげなく支えてくれる彼女たちに、リュシアンは胸のうちでそっと感謝の言葉をおくった。  支度を終え、遅い朝食に食堂へと向かうと、ふたりがやってくるのを待ち構えていたかのように侍女が来客を告げる。 「アーナヴ?」  出された紅茶に口をつけていた青年――アーナヴは、応接室にやってきたリュシアンとテオドールを見てすぐさま立ち上がる。 「失礼いたします、殿下。それに閣下も」 「迎えは必要ない、と伝えさせたはずですが」 「うかがっております。今日は陛下からのご伝言と、少々私用がありまして」  他に控える者はなく、自ら馬車の手綱を繰ってきたらしい青年は、以前とは見違えて逞しくなった胸を清々しく張って答える。  フランソワ手ずからの指導が良いのか、それともやはり持って生まれた才があったのか――出会った頃と比べると、最近は喋り口もずいぶんと洗練されたものとなっている。 「陛下はなんと?」  訊ねるテオドールにアーナヴは視線を向けた。 「本日のヴィルマーユ首相との会合は、明日へ延期にしてほしいとのことです。殿下やクレール伯とおなじく、陛下とダルマン公爵さま、おふたりのご体調が……その……」 「なるほど。わかりました」  くす、と目を見合わせて笑うリュシアンとテオドールを前に、青年は照れたような、苦虫を噛み潰すような複雑な顔だ。 「それで、私用というのはなんですか」 「……イェマです」  つ、と流れる視線につられて窓の外を見ると、大きな中庭にははしゃぐふたりの子どもと黒い犬の姿がある。 「ルネ様とリヨンと遊ぶんだといって、きかなくて」   年長の浅黒い肌の少年はアーナヴの弟、イェマ。それにまとわりつくように従うのがテオドールの歳の離れた異母弟、ルネだ。ふたりの近くには、一目で躾が行き届いているとわかる大型の犬が張りのある若い身体を揺すっている。夏の初めにダルマンからクレールへ贈られたこの犬――リヨンも、愛らしい仔犬姿だったのはほんの数ヶ月のことで、いまでは体格も態度も、すっかり次代クレール当主の番犬となっていた。 「どうせルネが誘ったんだろう。はじめてイェマと会ったときも、歳の近い遊び相手ができたと嬉しそうだったからな」 「そういっていただけると、ありがたいですが」  新王の戴冠が終わった直後、正式にジャン・グレゴワール・ド・アルマンの養子となったアーナヴとイェマだったが、兄としては年齢のわりに幼いところの多いイェマのことがよほど気にかかるらしい。  とくに、ダルマン家の次期当主を約束されている自分とはちがって、微妙な地位に立たされた弟が今後ダルマン家にどう恩義を返していくのか……その強すぎる忠義心ゆえに、本人以外だれも抱かないような懸念を胸に抱くらしかった。 「まったく……こちらの言葉だって、まだろくに喋れないくせに」 「私の弟の学友という立場では不満か、アーナヴ?」 「……いえ、そんなことは。ただ、ルネさまもいずれ伯爵になられるお方です。弟には、あの方の側にいるにふさわしい公爵家の人間になってもらいたいだけです」 「身分にふさわしい人間……ですか」  拾ってくれた恩義に報いるためとダルマンの家に少々強すぎる忠義心を抱えているアーナヴのことを、リュシアンは他人のように思えない。  かつてはリュシアンもクレールのためと、その命さえ投げだそうとしたことがあったのだ。 「大丈夫ですよ。あなたと同じように、イェマもまた聡い子です。いまに目を瞠るような成長を見せて……いいえ、そうでなくとも、ルネさまとのあいだに格別な友情関係を築いて、あの方を支えてくれるでしょう」  それに、とリュシアンはアーナヴの肩に優しく手を置く。 「イェマやルネさまがいまの我々くらいの歳になられる頃には、この国に身分の差による主従関係などほとんど意味を成さなくなっているはずです。我々がそれをつくるのです。その国で生きるのにもっとも必要なのは、どんな茨の道もともに肩を並べて歩いてくれる、唯一無二の友だと思いますよ」 「友……」  そうだ――テオドールが横から軽口を挟んだ。 「おまえも、主人のあとについて回って見聞や人脈を広げるだけじゃなく、弟を見倣って好きなヤツのひとりでも探しに出かけたらどうだ?」 「好きな……? いいえ。いま、そのような話はしておりません」  怪訝そうな顔のアーナヴを横目に、テオドールはくっと笑った。 「ほら見ろ。初恋もまだのような人間は、こうだからおもしろくない」 「テオ」  とん、とリュシアンに肘で小突かれ、近頃この生真面目な青年をからかうことに格別の悦びを見出しているらしい伯爵は悪びれもせず話題を変える。 「そういえば、例の件について何かわかったか」 「例の件?」  なんのことだとアーナヴへ視線をやると、青年は腰にくくりつけていた荷物袋から数葉の書類を取り出してテオドールへ渡した。 「今日は、その件でも参りました。まだ調査の途中ですが」

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