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エピローグ 2

「そろそろ起きられてはいかがですか。迎えを待たせることになりますよ」  部屋の中から、艶光る絹のような男声が漏れ聞こえた。娘はどきりとして息をひそめる。 「あれが……クレール伯爵さま?」  丁寧な物言いは気心の知れた従者のそれだ。だとすると、クレール伯のものだろう。彼はリュシアン殿下のお付きだけではなく、身の回りの世話もなさっているのだろうかと首を傾げた。  つい先日まで自分の従者であったものに仕える気持ちとは、いったいどんなものなのだろう。  上流社会のしがらみなどにはとんと考えのおよびつかない娘は、はしたないとは思いつつ、興味津々で扉の向こうの声に耳を澄ませる。  部屋には複数の気配があるが、いるのはどうやら主であるリュシアン王兄殿下、そしてクレール伯だけのようだ。ひとりぶんの足音と、離れた場所から寝台の軋む音がする。  世話人すら持たず、旧知の仲だという伯爵だけを側に置く殿下という方はよほど神経の細かい方なのかしらと先行きに不安を感じていると、カップに水を注いだのだろう、小さく食器の擦れる音がした。 「水をお飲みになりますか」 「いらない」  応えるのは低い美声だ。目覚めて間もないのか、不機嫌そうに掠れている。 「はやく戻れ。寒い」 「いけません。いまそちらに戻れば、今日一日を寝台で過ごすことになりますから」 「あたりまえだ。昨夜のあんなもので満足できると思うか」 「そうはおっしゃっても、疲れて途中で眠ってしまったのは……貴方のほうですよ?」  足音が扉の前を通り過ぎ、次いでぎしり、と寝台が軋む。  ――もしかして、このおふたりって……。   耳をそばだてる娘の心臓は、破裂寸前にまで高鳴っている。  男たちの声がよく聞こえるよう扉に耳をぴったりと押し当て、息を殺した。 「そう拗ねないで。きっと、お疲れだったのです。ここのところ、寝る間も惜しんで草案に目を通されていたでしょう。休めるときに休まないと、身体を壊します」 「疲れているのは、おまえもおなじだろう」 「私はただ座っているだけですよ。お飾りのようなものです」  くす、と艶のある声が笑う。 「それに、中途半端に終わらせられて残念なのは貴方だけではありません。四六時中張りつく護衛を気にせず、ふたりでゆっくり〝できる〟日を楽しみにしていたのは、むしろ私のほうだ」 「だから、それを」  むっとした男の声を、甘い囁きがふたたび遮った。 「わかっています。しかし、たとえ満足するまでできなかったとしても、私は気に病みません。……なによりも、貴方はそれが心配なのでしょう?」  黙り込むところをみると、それが男の本心らしい。  なにもかもわかっていると言いたげな優しい声が、男を静かになだめる。 「貴方は誰よりもこの国のことに心を砕いている。そして、それが私の……私たちのためであることを、私は誰よりも理解しているつもりです。そんな貴方の――――」  突然、〝クレール伯〟の声が止まった。 「……貴方の『友情』を、たかが最中に眠ってしまったくらいで、この私が疑うはずがない」  寝台を下りる音がして、クローゼットから何かを取り出し、身につけるようだ。  軽い足音が、つかつかとまっすぐこちらに近づいてくる。  娘は慌てて扉から離れた。 「ひゃっ……!」  ほんの鼻先のところで開いた扉のむこうから現れたのは、ガウンに上着をひっかけた姿の、黒髪の麗人――そう見紛うばかりに美しい男だ。  開いた口を閉じるのも忘れて立ち尽くす娘を、寝乱れた黒髪の奥から榛色の瞳が優しく見下ろした。 「失礼。てっきり、誰もいないものとばかり」  お怪我は? と心地よい声に訊ねられ、娘は慌てて首を振る。 「それはよかった。……ああ、そうだ」 「は、はい」   美しい男は、さもついでとばかりに一瞬視線を部屋の奥へやると、すぐにこちらへ視線を戻す。  濡れたような黒髪に、異国の香りのする涼しげな目元。  西と東とが溶け合うように違和感なく混ざり合い、見る者の好奇心と衝動とをどうしようもなくかき立てる美貌は、ある種、人ではない何かを目にしたような、そんな恐ろしさすら感じさせる。  容姿に関して囁かれる噂がけっして大げさではなかったのだと、はじめて目にする〝主〟の姿に忘我の淵をさまよう娘に、王兄リュシアン・ヴァローは穏やかな声でいった。 「実は昨夜、年甲斐もなく、夜通しクレール伯とカード遊びに興じてしまいました。ついてはふたりとも、しばらく休眠をとろうと思います。陛下には申し訳ありませんが、このままでは我々はとても仕事になりそうにないと、急ぎ王宮まで行って伝えていただきたいのですが」 「わかりました、ただいま……!」 「ああ、そう緊張しなくて大丈夫です。遣いの者が咎められることは、けっしてありません。ド・アルマン公爵あたりは小言のひとつやふたつ、おそらくおっしゃられるでしょうが」  なにをいわれても聞き流してください、と不穏な言葉を残して娘に背を向けるリュシアンが、ふと思い出したように顔だけを振り返る。 「そう。それと」 「……それと?」 「私は人の気配があると、よく眠れません。私の部屋の隣に眠るクレール伯も同様です。それを覚えておいていただけると嬉しいのですが」 「は……はい!」  二度と〝お邪魔〟はいたしません、と顔を真っ赤にして膝を折る娘に、 「名乗るのが遅くなりました。私はリュシアン・ヴァロー。これからしばらく、こちらにお世話になります」  とても王族とは思えない丁寧な言葉を寄越して、王兄殿下は扉に手を掛けた。  姿が見えなくなる寸前、部屋の奥からクレール伯の急かす声がする。 「リュリュ。はやくしろ」 「ええ、テオ」  振り向く顔が花のように美しく綻ぶ。  それをぽうっとしながら見送って、娘は慌ててその場を離れた。

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