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エピローグ 1

エピローグ  ぱたぱたと足音を立てて、館の長い廊下を娘がひとり走る。  閉め切りの扉をひとつふたつと過ぎて、ようやくたどりついた突き当たりにある扉の前に立ち、慌てて息と服とを整えた。  手に触れる肌触りの良い侍女服は、王都へ出てきたばかりの田舎娘の気を奮い立たせるどころか、よけいに不安を煽るばかりだ。  ――万が一にも、粗相のないように。  気安いお方だってお噂だけど、相手は王兄殿下だもの――すう、と深呼吸をする。すぐそばの中庭から、新しい土の匂いが漂ってくる。   窓の外に見える小さな中庭には、つい先日、新しい生け垣が作られたばかりだ。  夏になると、青々とした葉の重なる隙間から白いムクゲの花が咲くのだと、完成したての生け垣を前に、誇らしげな様子で庭師の息子が話してくれた。 『殿下のお好きな花なんだ』――ヨハンと名乗った青年の、男らしく好ましい笑顔をぽうっと思い浮かべて、侍女は慌てて首を振る。  ――いけない、いけない。初日にヘマなんかやらかしたら、容赦なくコロント行きの馬車に押し込まれちゃう。  遠く離れた故郷で娘の宮仕えを喜ぶ両親に会わせる顔がないと、緊張を無理やり胸の奥へ押し遣った。  丸6日馬車に揺られ、辿り着いた憧れの都は、ここのところ国王の崩御や慌ただしい新王の即位、長いあいだ火種を温め続けてきた隣国の併合など、世事に疎い田舎娘にはめまぐるしいばかりの出来事ばかり続いている。正直なところ、娘にはなぜ自分が王族にお仕えする幸運に恵まれたのか、皆目見当がつかない。  運良く王都で働けたとしても、よくてどこか名もない下級貴族の邸で掃除婦、洗濯婦だと覚悟して、縁遠い親類が仕えているという貴族の館を訪ねてみたところが――。  ――まさか、話に聞いてた貧乏貴族が本当は開国以来の由緒正しき伯爵家で、しかも新しい当主さまが、王兄殿下のお付きで王宮へ上がられることになるなんてね。  一体、こんな未来を誰が想像しただろう。  母の叔父の妻の兄弟の従兄弟――つまり、会ったこともない親類筋にあたる伯爵家の先の侍従長という人は、使用人たちがばたばたと慌ただしく引っ越し作業に追われるなか、手に荷物ひとつを抱え現れた若い娘を見るなり、ああ、ちょうど人手がほしかったのです、と問答無用でがらんとした邸のなかに彼女を招き入れたのだ。  結局、こちらの素性もなにも証明できないまま、娘はクレール伯爵家の侍女となった。  彼女が頼ることになったクレール家は、まさしく混乱の最中にあった。  聞けば、館の住人がまるごと王宮へ移り住むことになったのだという。  それまで館の主に仕えていた侍従が、どういうわけか〝王兄〟という立場を得て王のもとへ上がり、当主はその騎士として追従する。ひいては、伯爵家の使用人も残らず王兄殿下の臣下として召し上げられるというのだから、まさにおとぎ話だ。  話を聞いたところで理解が追いつかず、戸惑うばかりの娘に侍従長は、 『なにかひとつ、得意なことを見つけなさい』  殿下に仕えるあいだに生きる術を身につけろ、とだけ忠告した。  この生活は長くは続かない。否、旦那さまは、続けるおつもりはないだろう。  そのとき、このままクレールにお仕えするか、それとも別の道を歩むか。  どちらにしても、自分が何者で、何を標として生きていくか――それだけは考え続けなさい、と笑顔の老紳士は穏やかな声で言い残し、調度品の運び込みが終わりすっかり空になったクレールの館を去った。  その言葉がなにを意味しているのか、娘にはまだわからない。  だが、話に聞く殿下のお人柄、そしてクレールという小さいながら大らかな所帯の空気が、彼女を正しく導いてくれるような気がしている。律してくれるような気がする。  ――それにしても、あの〝からかいよう〟はひどいと思うの。  王宮内に用意された殿下のお住まい――〝花の館〟という名の、もとは王が寵姫を囲う邸であったところ――の修繕もあらかた終わり、殿下とクレール家当主は宮殿に設けられた仮の住まいから、昨夜、いよいよ新しいご自身の部屋へ移り住まわれている。  慣れない公務と度重なる隣国首相との会談でお疲れであるというまだ見ぬ殿下に、せめて明日からは、身に余る待遇をいただいたお礼をと張り切る娘に、侍女長であるという年嵩の同僚が、昨夜こっそりと耳打ちを寄越したのだ。 『リュシアンさま、テオドールさまの朝のお支度は、今後一切、必要ありません』。  それどころか、二つ続きになっているおふたりのお部屋には、食事と清掃の時間以外は不用意に近づかないようにすること。  おふたりが部屋でご一緒のときは、けっして邪魔をせず、急ぎの用は伯爵の弟御ルネさま付きの従者、もしくは侍女長に伝えること、と。  それがあなたのためでもありますよ、と念を押され、理由を訊く間もなく自室へ追いやられた。  いくら新米とはいえ、侍女に向かって主の世話をするな、という。 「お仕えする方の支度をしない侍女なんて……そんなこと、あるわけがないじゃない」  それでは、自分は何のためにいるのだかわからない。おなじく館に住んでいらっしゃる弟御のルネさまには、きちんと世話をする人間がついているというのに。  右も左もわからない田舎娘に、皆ずいぶん親切なことだと思ったら、最後にこんな子供だましの悪戯を用意しているなんて。 「きっと、これから茶会のたびに、話のタネにされるんだわ」  憮然として溜め息をつきつつ、扉のむこうに声を掛けようと口を開いた――そのとき。

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