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XIII-7
「なぜ」
リュシアンは声を震わせる。
「なぜそこまで抜かりなく手をうっておきながら、殿下はダルマン公をお救いにならなかったのでしょう」
天使の微笑みをもつ悪魔――フランソワ・フロリアン。彼の腕の中でゆっくりと腐り朽ち果てていく、ド・アルマンの姿が頭から離れない。
「もっと早くに陛下の崩御を公にし、殿下の即位をすぐにでも民へ知らしめれば……あの方は、あのように心を壊されることはなかった」
「人の心変わりを疑っておきながら、ずいぶんとあの男の肩を持つ。その生い立ちを知って情が湧いたか?」
「そのようなことは……」
首筋に感じる熱い吐息から、リュシアンはつい、と顔を逸らす。
「ない、と言い切れるか」
しまった――とテオドールの顔を振り返るも、嫉妬深い情人は意外にも肩をすくめるだけだ。
「まったく、やっかいな相手に出会ってしまったものだ」
膝に置いた手に、するりとテオドールの指が絡みつく。
「ええ――お互いに」
グレゴワールとフランソワ。ふたりの男との邂逅はリュシアンとテオドールの人生を大きく変えた。
存在すら知ることのなかった弟は、対峙してみれば不思議なほどすんなりとリュシアンの心に馴染む。
彼らを恨まない、といえば嘘になる。
ようやく心を交わすことができたテオドールとは引き離され、捕らえられ、手酷い仕打ちも受けた。元はバシュレの館であったダルマン公爵家の別邸で出会ったアーナヴやイェマ兄弟といった、かつて奴隷だった者たちの行く末にも心を痛めた。
しかし時が過ぎてみれば、すべてが収まるべきところへ収まってしまったようだ。
ド・アルマンもフランソワも、まるではじめからリュシアンの歩むべき運命に組み込まれていたかのように。
それもこれも、ジャン・グレゴワール・ド・アルマンが、手段はどうであれ、心からフランソワを求めているということが理解できたからだ。彼もまた、リュシアンとおなじ、心から誰かを愛するひとりの男なのだとわかったからだ。
「殿下とお話するとき、彼の方はしばしば私をうらやましいとおっしゃった。国も、命も捨てて、ただ愛する者のそばにありたい……ダルマン公という人と、その意志を共にしたかったのだと。思えば、それが殿下のすべてだったんだろう」
塔の外に見る夢は、すべてダルマン公へ続いていた。
それが長い幽閉生活に置かれた彼を支え、同時に蝕んだのか。
「貴方と私の姿に、かつてのレオンス伯とアーキア王を重ねたのでしょうか」
愛する者の幸せを自分の傍らにしか見出せなかった男と、その愛に応えようとしながらも、課せられた使命に抗えなかった男。
彼らの魂は、いまどこに眠っているのだろう。
すべてのしがらみから解き放たれた世界で、ふたたび相見えることができただろうか。
幻の中に見たアーキアの嘆きと後悔は、時を超えた彼らの警告だったのだろうか。
愛する者を二度と見失うなと。運命から逃げてはいけないと。
リュシアンが何気なくそう呟くと、テオドールは首を振ったようだ。
「殿下が私たちの中に何をご覧になろうと、私はそうは思わない。たしかに、この世でおまえと結ばれないならと――一瞬でも考えたことがないわけじゃない。とくに、あの夜の光景が瞼の裏に蘇る瞬間は」
借財を重ね、家業も立ち行かなくなったクレールを救うため、リュシアンはマリユスの手引きで貴族たちの一夜限りの恋人となった。仮面を着け、互いに素性も相貌もわからない男たちは、愛人、情人には向けることを躊躇われる類いの欲を競うように夜ごとリュシアンにぶつけ、愉しんだ。
テオドールはその一部始終を目撃していたのだ。
使用人としてクレールの邸へ上がったリュシアンに、鮮烈な恋心を抱いた無垢な少年のころの話だ。
だが長いこと、リュシアンは彼の絶望を受け入れられずにいた。
自分がしたことは正しかった。クレールが窮状を脱するには、それしか方法がなかったと心から信じていたのだ。
すべては家督を継ぐであろうテオドールのため。ひと目会った瞬間、〝リュシアン・ヴァロー〟の終生の主であると確信した、この幼い主のため。
――この想いが変わることなど、けっして無いと思っていた。
リュシアンの〝信念〟を変えたのは、テオドールの歪んだ、それでいて一途な愛だ。
テオドールはめざましい変貌を遂げた。守るべき主から、逞しい大人の男へと。
リュシアンを想いながら、人を思い遣れる人間になった。
そして、いつの日からかその姿を――憧れや胸の高鳴りをもって見つめているリュシアン自身がいる。
過ぎた時間は巻き戻せない。散らした純情も、けっして取り返せはしない。
だから、心だけは愛した男に捧げようと――そう決意したのが、いまではまるで遠い過去のことのようだ。
「たしかに、おまえは美しき王の血を引き、私はクレールの執念深い気性を受け継いでいる。だが、私は私。おまえは、おまえだ。他の誰でもない」
過去など、所詮過去だ。
単なる『事実』であって、いまの自分たちには何の関係もない――テオドールはいう。
「魂の存在を否定はしない。目には見えないだけで、たしかにそこにあるのかもしれない。それでも、私が心惹かれたリュシアン・ヴァローという魂は、それまで見た誰よりも綺麗で、高潔で、慈悲深かった」
繋いだ手は、いつも温かかった――ふと当時を懐かしむように、大きな手がリュシアンの指を遠慮がちに辿る。
「リュシアン。もう一度おまえに請おう。私を、生涯の伴侶にしてほしい。褥に横たわるおまえの爪先に口づける栄誉をあたえてほしい」
押し戴くようにして、掬い上げた指先を額へ押し当てる。
「死してのち、私たちの魂は必ずひとつになる。だがその前に……少しでもおまえに触れていたい。温かなおまえの肌と身体の内を味わいたい。ひとつになれないところで、ひとつになろうと悶えていたい」
肉体と肉体の狭間で求め、求められたい。
嫉妬と、欲望と、劣情に塗れていたい。
「おまえを求める瞬間にしか、生きている実感を見出せない」
「貴方にしてはずいぶん……被虐的な言葉だ」
耳朶の裏を這う熱い舌先に身を震わせながらリュシアンは笑う。
「この血に流れる忠心が、そうさせるのかもしれないな」
「血と魂は別、なのでしょう?」
「別とはいえ、すでに立場がちがう。おまえは王兄、私は一子爵だ。これからは私がおまえの前に跪くだろう」
いまとなっては、それも悪くない光景だとふと考えて、
「もしや、それも貴方の計算のうちですか?」
訊ねれば、なにかを思い出す様子のテオドールが、ああ、と手をうった。
「玉座を知らぬ王子と、呪われた貴族――か。そうだな」
かつての主人が従者の前に膝を折る。
これで、天秤はぴたりとつり合った。
「どちらも悲惨な人生だと思えば、私たちは〝対等〟といえなくもない」
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