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XIII-6
「しかし不思議ですね」
リュシアンは前を向いたまま言った。
「永らく戦とは無縁だったとはいえ、キルレリアは大国です。先のダルマン公、そしてジャン・グレゴワールの評を聞けば、陛下という御方が戦う以前から尻尾を巻いて逃げ出すような人間とも到底思えない。特に、ニルフ殿下は王の寵愛を一身に受けていた……そのような方を差し置いて、ろくにどういう人間か知りもしない息子をなぜ、この大事なときに自分の後継に選んだのでしょう」
第一王子のニルフについては、王宮に上がったことのないリュシアンの耳にさえ数々の〝火遊び〟の噂が飛び込んでくるほどのやんちゃぶりだ。
民の求める王の姿とはもっともかけ離れた性質をもっているとも言える。
しかしその父である王にしても、リュシアンたち兄弟のことといい、良く言えば奔放な人間だ。ダルマンを筆頭に優秀な臣下をいくつも従えるキルレリアでは、誰を君主に据えようが、実は大差はない。
その彼を差し置いて、東国の血を引く、しかも公に王子であるとさえされていないフランソワが王位を得れば、いたるところで混乱や反発が起こるのは必至だろう。
王にとって何の得もない。
「……言っておきますが、殿下が王にふさわしくないと主張するわけではありませんよ」
「なんだ、ちがうのか。てっきり殿下が気に入らないのかと思ったぞ」
嫉妬心からの言葉ではけっしてないと釘を刺すと、テオドールがふっと笑った。
たしかにフランソワの破滅的な愛や嗜虐的なふるまいに不安がないとはいえない。
しかし、それでも彼はテオドールが、いざとなったら〝手綱を握れる〟と判断した人間だ。
彼を王に据えたからといって、キルレリアが立ち所に立ち行かなくなるとは思えない。
嫌い――少なくとも今は心の底から〝弟〟を信用することはできないが、王としての資質が彼に備わっていないとは、リュシアンには言えなかった。
だが、いかに彼が優秀な人間であるからといって、それを知らない王や臣下たちからの信頼と寵愛を勝ち取ることは難しいだろう。
むしろ今回の譲位には、なにか玉座に纏わりつく〝厄介ごと〟があるのではないか、そして、フランソワはそれを押しつけられようとしているのではないか……そうとまで疑ってしまう。
しかし、悶々と考え込むリュシアンをよそに、テオドールは何でもないことのように言った。
「フランソワ殿下が選ばれた理由は簡単だ。唯一の後継と思われたニルフ殿下が捕らえられたためだ」
――捕らえた⁉
どきり、と胸が脈打つ。
「一体、貴方たちはなにをしたのです!」
責めるような声に、テオドールは肩をすくめてみせるのみだ。
テオドールとフランソワは何らかの手を使って、他の3人の王子王女に王位の継承権を放棄させた。
まさか邪魔だからという理由で罪もない王子を排除しようとまでは思うまい――テオドールを信じたい気持ちもあるが、いまはフランソワのことがある。
なにせド・アルマンの心を砕いた人間だ。
それくらいのことはやりかねない。
王冠を戴く彼の前に数え切れないほどの屍が横たわる様と、それに与するテオドールの姿を想像して、リュシアンは戦慄する。
いつかの夜のことが頭に浮かんだ。
リュシアンを抱いた夜、たしかにテオドールは言った。
〝私を許すか〟と。
その言葉がフランソワの甘言に操られた末の、ニルフへの謀略だとしたら?
「馬鹿な真似はやめてください! いくら王位を得るためとはいえ、それではダルマン公がしようとしたことと何ら変わりはな――」
「想像を逞しくしているところを悪いが」
はあ、という溜め息が耳をくすぐった。
「私はなにもしていない。ニルフさまが陛下に毒を盛られたんだ。陛下はひと月ほど生死の境を彷徨われたが、ついに回復されることはなかった。陛下が身罷られたことで王座が空いた。その穴を埋めるのは事実、フランソワ殿下しかいなかったというわけだ」
――では、王子に罪を着せたわけではないのか。
リュシアンはほっとして胸を撫で下ろす。
もしテオドールがそのような罪に手を染めたことがあきらかになれば――それはもちろん、共に破滅の道を行くことになるのだろうが――リュシアンはひどい良心の呵責に苛まれただろう。
平穏な生活を得るためには誰かの血を見るのは仕方なしと思ってきたが、それが何の罪もない者の血だとすれば話は変わってくる。
「しかし、ニルフ殿下はなぜそんなことを……?」
何事もなければ彼の王位継承は確約されたも同然だったはずだ。
それを危うくしてまで、成し遂げたかったこととは一体なんだ。
答えはテオドールの憶測としてしか語られなかった。
「おそらくバシュレの件だろうな。お前も噂くらいは耳にしただろう。バシュレ夫人とニルフ殿下との密通が明るみになり、公爵が爵位を剥奪された話だ。殿下の夫人に対する入れ込みようは、それは目に余るほどだったようだ。だが、殿下にはコンヴィルの末の姫との縁談がある。陛下もずいぶんと頭を悩ませていたらしいが、結局、バシュレを王都から遠ざけることで場をおさめた。しかし、殿下は夫人を忘れることはできなかったんだろう」
ある夕餐の席でのことだ。
ニルフが珍しく王とふたりきりでの会食を望み、頃合いを見て侍従が新たな酒を運んだときには、すでに王と王子、ふたりともが床の上に転がっていたのだという。
「殿下はご自身も毒をあおられ、もはや虫の息だった。何者かに毒を盛られたという筋書きを用意されていたんだろうが、自分に盛る薬の量を間違われたのだろうな。医師の懸命の処置でお命だけは助かったが、いまは口をきくこともままならない。陛下は亡くなられる間際、陛下は己が手折った無垢な異国の花の名を何度も譫言に乗せていたそうだ。だが、果たしてそれが後悔の念からくるものかどうか……これも、いまとなっては誰にもわからない」
凶行の引き金はおそらく、弟たちの王位継承権の放棄だ。
裏で動いていたテオドールの存在に気づいていなかったニルフは、これを父の、自分に対する圧力だと考えた――それがフランソワ殿下の見立てだとテオドールは言った。
浅はかな報復の代償はあまりにも大きい。
王とその後継を同時に失い、王宮は混乱を極めた。
そこへもたらされたのが、ヴィルマーユからの国家の併合の申し出だ。
第4王子フランソワを国主とし、永く分かたれていた国家をふたたびひとつにする。
忘れ去られていた――むしろ、その存在を知る者のほうが少なかった――もうひとりの王子の登場は、けっして無能ではないが王の意志に諾々と従うだけであった時の宰相にとって、すべての責任を押しつけるのにちょうどいい存在だった。
ちょうどそのころ、一貴族でありながら国政になにかと小煩く口を挟むダルマン卿も、なぜか姿を現さなくなって久しかった――。
そして宰相以下、大臣たちは民に王の死を伏せたまま、ヴィルマーユからの〝特使〟に返事をあずける。
キルレリアは、フランソワ・フロリアン・ド・キルレリア殿下を新たな王として玉座にお迎えする、と――。
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