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XIII-5
「いつまでそうやって拗ねているつもりだ」
髪を梳いていた手が少しばかり強引にリュシアンの肩を引き寄せる。
倒れるようにして熱い胸に抱かれると、ふわりと落ち着く匂いが鼻をくすぐり、思わず、ほう、と吐息が漏れた。
目も眩むばかりに劇的な、それでいて不可解な再会の、その終息へむかう帰りの馬車の中である。
「せっかくこうして会えたんだぞ。もっとよく顔を見せろ、リュリュ」
肩に感じる熱の心地よさに、ともすればふらふらと従いそうになるのを、リュシアンはぐっとこらえて突っぱねた。
「この数ヶ月、飽きるほど見てきた顔でしょう」
なんのことだというような一瞬の間があって、テオドールは濃紫の目を瞠る。
「いったい何に腹を立てているのかとおもえば……まさか、殿下を相手に嫉妬か?」
まるで頭になかった――テオドールにしては珍しく心底驚いている様子だった。
たしかに、素直に再会を喜べない背景には生き別れの弟の存在があった。
つまらない嫉妬でせっかくの時間を無駄にしているのではないか……まるで子どものような、取るに足らない鬱憤だという自覚はある。
熱くなった頬を隠すように髪を掻き上げると、そこに口づけていたテオドールの唇から漏れた吐息が、ふ、と指に触れた。
「知っているとはおもうが、男を抱く趣味はないぞ」
「お忘れかもしれませんが、私にも貴方や殿下とおなじものがついているのですよ」
いつの間にか忍び込んできた不埒な手が内腿をまさぐっているのを、軽く身を捩って逃れる。
それが嫌悪からくる仕草なのではなく、まだ事のすべてを許したわけではないという可愛らしい意思表示なのだとわかっているのだろう。
テオドールは無理にリュシアンを追いかけようとはしなかった。
「貴方とあの方は、よく似ている」
男が発する引力になんとか逆らいながら、リュシアンは言う。
リュシアンの目に映るテオドールとフランソワは、よく思考を共有しているように見えた。
生まれもっての気質が似ているのだろう。最後に見た妖しげな笑みがフランソワの本性なのだとしたら、彼らはふたりとも、己の欲望のために誰かの人生をねじ曲げることを厭わない人間だ。
そのフランソワはいま、テオドールがキルレリアから引き連れてきていた兵の先導する馬車に乗り、ド・アルマンとともにリュシアンたちの後ろを追っている。
謀略を暴かれ矜持も砕かれた公爵殿が、やけを起こして殿下を道連れにするかもしれない――テオドールはそう言って車内に見張りをひとりつけたが、その心配がないことは誰の目にもあきらかだ。
強い絶望に打ちひしがれた男はいまごろ、愛しい人の身体を抱きながら至福のときを過ごしているにちがいない。
あたえられた幸福にひたすら耽溺するさまは不様ではあるが、これまで男が背負ってきた重責を考えればしかたのないことと思われた。
なにより、男の最後の牙をへし折ったのは彼の想い人だ。
別離をちらつかせ絶望を与えたうえで、抵抗できなくなった男の心と身体をまんまと手に入れてみせた。
「私と殿下が似ているというが、おまえの目には私があれほど傲慢で不遜な人間に見えるのか? すくなくとも私は、ああして愛する者を犬のようにはあつかわない」
あの深い湖面を湛えた碧の瞳。
慈悲深そうに見えて、しかし、なによりも己の優位だけはけっして揺るがさない語り口。
手指ひとつで大の男を好きなように操るフランソワの、蠱惑的な仕草ひとつを思い出しただけで、ぞっと悪寒が走る。
あの瞬間、たしかにド・アルマンはフランソワの犬だった。
彼らふたりの関係が、どれほど艶っぽいものだったかはわからない。しかし、あの容姿と話しぶりで『おまえだけ』と言われれば、どんな人間も心を動かされずにはいられないだろう。
手に入らないのなら、いっそ命を奪う。
あの男にそうまで言わせたのはフランソワ自身だ。
「しかし大したタマだな、あの殿下は。今回はダルマン公の策に乗るようなかたちで事がはじまったが、あの知力をもってすれば、殿下はいつでも好きなときに塔を出ることくらいはできただろう。これまでそれをしなかったのは単なる気まぐれか、それとも……」
そこまで話して、ようやく榛色の瞳が自分を睨めつけていることに気づいたらしい。テオドールは口を噤み、悪戯っぽく笑う。
対するリュシアンは、これまで感じたことのない類いの不安や焦りに苛立ちを隠しきれないでいた。
テオドールは貪欲な人間をこそ好む。なりふりかまわず、己の欲望にまっすぐ突き進む人間のみを信頼する。
〝そのような目で見ていない〟とは言うものの、姿かたちはリュシアンと変わらない殿下に、人嫌いの彼が興味を引かれているということがすでに不快だった。
最後はフランソワの計画にテオドールが乗るかたちになっていたのも、気に食わないところだ。
それに、もうひとつ気になることがあった。
「これまでの態度を見るに、まだなにか隠していることがありますね? ……たとえば、もうとっくに王位の譲渡は済んでいる――とか」
「さすがは察しが良いな」
テオドールはあっさりと認めた。
そのとき、馬車の小窓をコツ、と叩く音がした。
カーテンの引かれた小窓の隙間から、護衛の兵士が顔をのぞかせている。眩しい太陽を背に、兵士の表情は影の中にあってうかがえない。
「殿下。まもなく国境を越えます。このまま王宮へ向かいますか?」
慣れない呼称に戸惑うリュシアンに代わって、テオドールが小さく頷く。
兵の顔はすぐに窓の向こうへ消え、並走していた蹄の音がにわかに遠ざかっていった。
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