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第29話

椅子を引いて腰を掛け、対面キッチンの向こうにいる凌の姿をぼんやりと眺める。 こぽこぽこぽ…… 茶葉を入れたティープレスに、空気を含ませるようジャンピングでお湯が注がれれば、アールグレイの心地良い香りがふわりと広がる。 ……ここに来て、良かった。 鼻腔を擽る紅茶の匂いに癒やされ、ずっと蟠っていた気持ちが少しずつ解けていく。 ……もう、忘れよう。 あの男と会う事なんて、二度と無いんだから。 「お待たせ」 ティープレスとカップを運んできた凌が僕の斜め後ろに立ち、それらをスッと目の前に置く。まるで、喫茶店の店員のように。 「……ん?」 突然、凌が奇妙な声を上げる。見上げてみれば、凌の視線が僕の首筋へと注がれていたのに気付く。 「どないしたんや、ソレ……!」 ……え…… 思い出されたのは、鏡に映った──鬱血痕(キスマーク)。 その瞬間、サッと血の気が引く。 手のひらで隠そうとすれば、その手首を掴み上げられ、阻まれる。 「誰や。……誰にやられたんや!」 「……」 「まさか、ハルオか?!」 凌の台詞に驚き、見上げたまま頭を横に振る。 ……違う…… 確かに、ハルオには会った。 恥ずかしげもなく僕にしがみ付いて、戻ってきて欲しいと懇願された。 けど── 「ちゃんと、答えぇや!」 荒げる声。 ギュッと強く握られる手首。 眉根を寄せ、目尻を吊り上げ、突き刺すように僕を見つめる双眸。 ……怖い…… いつもと違う凌に戸惑いながらも、その鋭い圧からは逃れられなくて。 浅く息をしながら、小さく唇を動かす。 「……樫井、秀孝」 震えてしまう、声。 自分でも、可笑しな事を言ってるのは解ってる。 事情を何も知らないのに。いきなり芸能人の名前を出されて……信じて貰える筈が、ない── 「合意の上、やったんか?」 「……ぇ……」 「ちゃうやろな。樫井の手癖の悪さは、業界では有名なんや……」 「……」 僕から視線を外し、掴んでいた手を緩める。 「……シンに頼んで、オトシマエつけさせたるわ!」 恨みの隠った、低い声。 ナイフのように鋭く尖った、冷たい双眸。 口角の片端をクッと持ち上げたその表情は、何処か悪意に満ち満ちていた。 「……もう、大丈夫や」 僕の視線に気付いた凌が、そう言って僕の頭をそっと撫でる。 「怖かったやろ……」 その声は、いつもの柔和な凌の声で。その優しさに触れた瞬間、一気に感情が込み上げる。 「……っ、」 温かな手のひらが後頭部へと滑り降り、そっと凌の懐へと誘導する。 ……凌の、優しい匂い。 背中に回された手が温かくて。 溢れる涙をそのままに、凌の脇腹辺りの布地をギュッと掴んだ。

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