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第1話
――真夏の夜に、幽霊と出会った。
――真夏の夜に、馬鹿と出会った。
その日は、雨が降っていた。
草木も眠る丑三つ時、日中の蒸し暑さがなりを潜め、しんと静まった夜の街。しとしとと降り注ぐ雨の音と、地面に溜まった水を規則的に弾く足音だけが、周囲に響き渡っていた。
足跡の主――虎次(とらじ)は、所謂社畜である。ブラック業界と言われる飲食業界、居酒屋での正社員業は、想像よりも過酷だった。学生時代もバイトをしていたので余裕だろ、なんて思っていたら、当たり前だがバイトとは責任の重さが違い過ぎる上、二十五歳なんて若さで支店の店長は当たり前の世界だ。バイトが急に休んだら自分が代わりに出勤しなければいけないし、業務時間内に退勤出来ることなんて奇跡に近い。今日も、閉めの作業までしていたらこんな時間になってしまった。終電なんて久しく見ていない。悪天候のせいでタクシーさえ捕まらず、やむを得ずこうして雨の中を走っているというわけである。幸か不幸か、電車で二駅分ほど、十二分に走れる距離のアパートに部屋を借りている。
傘を差すのは苦手だった。パーカーのフードをかぶり、全身雨に濡らされながら、兎に角早く家に帰りたくて、暗い夜の道を走った。
――確か、近道だったよな。
不意に気がついて、足を緩めた。
石段が続く先には、古びた神社がある。
その神社を通り抜けると、アパートの裏道に続く細道があるのだ。普段は使わないが、今日ばかりは良いだろう。
そう思って、石段を駆け上がる。
最上段まで上ったとき、虎次は息を詰めた。
――誰か、いる。
鳥居の先、小さな神社の社の軒下。賽銭箱のちょうど前の辺りに、薄く浮かび上がる人の影。白いシャツとジーンズという姿が体育座りをしているのを、闇に慣れた虎次の目には認識できた。
その人影が、虎次を見つけた。
肩ほどの黒い髪、睫毛が長く大きな黒い瞳、通った鼻筋、赤い唇、そして、透き通るような白い肌と、華奢な四肢。
ゆるく持ち上げられた瞼の先、視線がばっちりと絡み合った瞬間、ぞわりと、背筋が震えた。
あまりの美しさに、この世のものではないと思えたから。
「こんばんは」
喋った!
どれくらい、目が離せなかったのだろう。
灰色のパーカーが肌に張り付くくらい濡れた頃、男にしては高くよく通る声が、そう告げた。
ぶわっと、鳥肌が立つのを自覚した。
「ねえ、見えてるんでしょ」
「えっ」
「僕のこと、見えてるんでしょ?」
「えっ」
――普通の人には、見えないのか!?
思わず、周囲をキョロキョロと見渡してしまう虎次である。
見渡してから、後悔した。
神社の周囲は木々が覆い茂り、意味ありげな石があったり、キツネの像があったりと、恐怖を感じる要素しかない。
――どうする、どうなる、どうしよ俺!?
逃げるか、逃げるか、逃げるか。
頭の中に浮かぶ選択肢はそれだけなのに、足が竦んで動かない。
その間に、体育座りをしていた男が、ゆっくりと歩いて目の前まで迫って来ていた。
「無視しないでよ、おにーさん」
「わ、わあああああ」
ふ、と耳に息を吹きかけられ、虎次は飛び退いた。文字通り。
勢い余って尻餅をついたが、そのままの状態で後退る。
「僕さあ、困ってるんだ」
「やややめてくれなんでもするからマジで」
「まだ何もしてないのに」
「かかかかみさまほとけさままだ死にたくねえええ」
「なんでもするなら、助けてあげるよ?」
「たたたたすけてくださいおねがいします」
後退る虎次の目の前に来てしゃがみ込み、首を傾げる姿は大変に美しいが、それに見惚れる余裕はなかった。
雨に打たれることも忘れ、更には男の矜持なども置き去り、虎次は目の前の美しい男に土下座した。
男は、肩を震わせた後、咳払いを一つした。
「僕のこと、あなたの家に連れて行って」
――ああ、憑かれるってきっと、こういうこと。
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