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第2話

 何もできない僕は、親に捨てられました。仕事も、家も、食べるものもなくて、気がついたらこの神社の中で息絶えていた。それが去年の冬のこと。いつまでもいつまでも成仏できなくて、あそこから離れられないんです。参拝客だって、神主さんだって、僕のことが見えてないみたいで、何をしても何を言っても、反応してもらえなかった。たまに通りかかる猫が僕の話し相手。人間で僕のことが見えたの、あなたが初めてなんです。  ――ぽつり、ぽつり、聞きやすい音声で語られる言葉を耳に入れると、虎次の目には涙が滲んできた。こういう、お涙頂戴話には、弱い。 「うっ、うう、そうか、そうかあ、おまえ、辛かったなああ」  溢れる涙を腕で拭いながら、虎次はアパートの部屋の鍵を開ける。二階建て、ワンルームの小さな建物だ。角部屋201号室が虎次の部屋で、ざあざあと降る雨の音をBGMに、扉を開けた。 「入れよ、」 「どうも、お邪魔します」  通り抜けたりすんのかな、といった虎次の予想は外れ、礼儀正しく頭を下げた彼は、虎次の隣を普通に通って、ぼろぼろの靴を脱ぎ、廊下に上がった。電気を点ければ、明るくなって部屋の中が露わになる。  ワンルームの狭い部屋は、壁沿いにベッドがあり、その反対側にテレビとテレビ台、部屋の中央に白いテーブル、そして本棚が一つあるという、シンプルなものだ。捨てる暇のないゴミ袋が一つ、壁につけられて置いてある。床には、ペットボトルやビールの空き缶がいくつか転がっており、それに気付いた虎次は慌ててそれらを拾い上げてゴミ袋の中に入れた。 「で」 「ん?」 「おまえは、どうやったら成仏するんだ」 「僕にもわかりませんが」 「そうなのか」 「まず、お風呂に入りたいです」 「は?」 「死ぬ前にもあんまりお風呂に入れてもらった記憶がないんですよね……」  俯き加減、伏し目がちに言われてしまえば、虎次は何も言えない。  虎次よりも頭半分背が低く、華奢な身体が身につけている白いTシャツとジーンズは、確かに薄汚れていた。虎次は濡れた短髪をがしりと掻いてから、浴室へ向かった。普段はシャワーで済ませてしまっているが、浴槽を磨いて、湯を溜める。お湯が出ている音を聞きながら、自分も、身につけているパーカーを脱いで、洗濯機へと放った。髪も身体もびしょ濡れだったと思い出し、バスタオルを棚から二枚取り出す。一枚で自分の髪を拭き、リビングに戻ると、所在なげに立っている彼に、もう一枚を投げた。幽霊がタオルを持てるのかは不明だが、風呂に入れるくらいならば、きっと大丈夫だろう。 「あ、ありがとうございます」 「幽霊でも風邪引くのか?」 「わかりません」 「まあ、気を付けろよ。座れば」 「どうも」  どうやら、物を触ることはできるようだ。投げたタオルを受け取って、彼は濡れた黒髪や身体を拭いている。いつまでも立っているのもあれだろうと、床を顎で示すと、彼は頷いて座った。膝を立てた体操座りの形だ。出会ったときと同じ体勢を見て、虎次の背筋にぞわりとしたものが走った。  お涙頂戴話に絆されてしまったが、目の前にいる男は、得体が知れない。タオルを持つ手に力が籠もる。知らずうちに奥歯に力を入れていると、顔を上げた彼と、視線がかち合った。  長い睫毛に縁取られた、大きく黒い瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。  虎次はごくりと息を呑んで、意を決して口を開く。 「なあ、」 「はい」 「本当に、命は助けてくれるのか」  一瞬の、沈黙が流れた。  虎次にとっては、何分にも感じる。  答えによっては、死を覚悟しなければならないのだ。  ぱちり、と、男は瞬いた。美しい顔が、そういう表情では、少しだけ幼く見える。  答える前に、男は俯く。肩先が震え、泣いているようにも見えた。 「あなたが僕の言うことを聞いてくれるのなら」  震える声でそう紡がれ、虎次は眉根を寄せる。 「聞かなかったら?」 「そのときは、――」  そこで漸く、男は顔を上げた。  口端を持ち上げる笑みが、まるで生身の人間のように、蠱惑的で、ぞくりとする。 「末代まで祟ります」 『お湯張りが終了しました』  宣言したタイミングで、機械的な音声が鳴り響いた。風呂の湯が溜まったのを教えてくれているのだ。  再び、二人の間に沈黙が流れた。  ――気まずい。

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