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第1話

僕はまだそれをなんというのか 知らなかった。 僕が入学したのは 中高一貫教育の男子校。 再来年は創立百周年にもなる、 歴史と伝統のあるこの学校は 建物自体も古く、 中学校に入学したばかりで 古い建築物が好きな僕は 放課後、 校庭に面した校舎を探検していた。 ひんやりとした板張りの廊下、 見上げると 高い天井のきわに施された 生クリームみたいなレリーフが見える。 各教室の前と後ろには木の扉、 廊下側には 引き上げるタイプの窓が並び 窓にはめ込まれた磨りガラスは 所々波を打っている。 暗い廊下をまっすぐいくと 突き当たりに観音開きの扉があり、 右を向くと防火シャッターの向こうに 階段の踊り場。階段を降りていくと 付属小学校の視聴覚教室と、 小学校の校庭に出る昇降日があった。 僕は引き返し、扉の前に立った。 目の前の扉は、何教室なんだろう? この建物には部屋の名札がない。 そういうものって 学校ならあるはずなのに。変なの。 僕は扉の前に立った。 凝った細工が施された真鍮のドアノブ に目を落とすと その下のプレートに鍵穴があった。 僕は鍵穴をのぞいてみた。 でも黒板らしき影が視界の端に 見えただけで あとは穴のあいた壁しか見えなかった。 (なんだかよくわかんない) そう感じながら回れ右をした時 シュッと張りのある 低い弦楽器の響きが耳をかすめた。 (サン=サーンスの 『動物の謝肉祭』から『白鳥』だ) ヌガーのような甘いチェロの音色が ドロリと僕の中に流れ込んでくる。 (熱い、胸がチリチリする) 僕は胸に手を当てた。 熱い塊が 低音から高音へのび上がった瞬間 僕は背筋がゾクッとなった。 同時にお腹のあたりを ぎゅっと掴まれたような感じがした。 (はああっ) 大きなため息を吐いて 僕は壁に両手をついた。 指先が震えている。 (なにコレ?動けない、、、) 脛がピリピリジンジンする。 再び訪れた低音から高音の音階に ビクッと背中が仰け反った。 足元から首筋へ ビリリと突き抜ける衝撃に耐え切れず 僕の口から悲鳴が漏れた。 (ひぃっ) 自分の声だと思えないくらい甲高い。 僕の声に反応したのか、 プツリと旋律が切れた。 僕はその場にしゃがみ込んだ。 汗で背中のシャツが張り付いて 気持ち悪い。 部屋の中からゴトリ、 というやや乱暴に楽器を置く音と ギッという椅子が動く音がした。 僕は咄嗟に立ち上がり バタバタと廊下を走って逃げた。 あの全身を突き抜けた衝撃は 一体なんだったのか その時の僕にはまだ分からなかった。 入学してから3年が経った。 僕はこの学校のオーケストラ部に 入るために中学受験をした。 そして今はオーケストラ部所属。 万年第2ヴァイオリン奏者だ。 第2ヴァイオリンパートは 主に伴奏、 それと第1ヴァイオリンにハモったり 旋律を追っかけたりする役だ。 つまり曲の主旋律は ほぼなぞることがない。 僕はべつに自分のテクニックが 劣っているわけじゃないと思ってる。 だけど第1パートの昇格もなく、 今は第2パートのトップ。 学校に入るまでは、 格好良く最前列で 弓を振る僕を夢見ていたのに。 中々上手くいかないもんだな。 第2ヴァイオリンは 単調な伴奏ではあるけれど、 オーケストラの中で 音の洪水に巻き込まれるのは 心地良かった。 独奏では味わえない、 共鳴した時のピリピリ感や 楽器の音と音が混じり合う瞬間、 全ての旋律が僕の内部で 乱反射しながら、 僕の琴線を弾いていく。 中1の時に感じたあの感覚、 高校生になって 恥ずかしながら 僕も分かるオトシゴロ になってしまった。 あの時の熱いベットリした ヌガーの様な甘い旋律は 僕の中で火傷となって残った。 火膨れの痒みは、 時に僕を苛立たせ切なくさせた。 そんな日の夜、 僕は寝る前に独り音楽を聴いた。 サン=サーンスの『白鳥』 入学した年、僕は苦労して できるだけあの音に近い音源を さがした。 しっとりと埃っぽい重い響きを持った モノラルのレコード音源だけが 唯一あの音を思わせた。 深く太く突き上げる旋律は 足の先から頭の先まで 全身を甘く痺れさせる。 突き抜ける快感 足元から下腹部へ巻きつく ネットリと伸びた熱い塊が じわじわとカラダを支配していく。 僕は自らを慰めながら 毛布を噛んで涙を流し、 声を漏らした。 そして最後の数小節で 耐え切れずに放ってしまう。 ヌルヌルとした青臭い生温かい汁を。 恥ずかしさと後悔で火照るカラダを 横たえながら、僕はぼうっと考える。 (あの旋律をもう一度聴けたなら あの音に抱きしめられたなら) オーケストラ部の活動は毎週水曜日。 水曜日の朝と金曜日の放課後は 自主練の日として、 音楽室を借りている。 音楽室は入学したての僕がのぞいた あの部屋だった。 あの部屋で いったい誰がチェロを奏でていたのか 実は未だにわからない。 部活の度に、音合わせや自主練の度に チェロパートが出す音色に 耳を傾けたが、あの音はなかった。 ちなみに今年の演目は ビゼーの歌劇『アルルの女』 軽快で賑やかな曲調だし 要所要所にソロパートがあるから 管楽器とパーカッションは結構 楽しいみたい。 僕は第2パートだから伴奏だけどね。 第2組曲より第1曲『パストラール』 冒頭はホルンのソロから始まる。 吹いているのは薫さん。 薫さんは身長が180センチ以上なのに 顔が小さくてメガネをかけていて ポチッとした目をしている。 ヒョロっとしているわけではなく 案外逞しい身体をしている。 だからホルンケースも軽々と持つ。 僕はというと、 入学当時はまだまだチビで 自分で見てもバイオリンケースと 同じくらい? よく「バイオリンケースが歩いてる」 ってからかわれていたけど、 最近はようやくその呼び名からも 解放されつつある。 薫さんは僕と同じ学年だが、 本当は2つ年上だ。 何でも病気で休学していたらしい。 中1の時も部活は出てたみたいだけど 僕は初めて飛び込んだ オーケストラという音の渦に夢中で 全く気づかなかった。 薫さんと僕は今年から 同じクラスになり、朝練がきっかけで ぽつりぽつりと話すようになった。 薫さんはオケ部の朝練に必ず来た。 朝練の時だけ、僕は第1パートを弾く。 (そうでないと曲にならないからね) 朝練といっても、 みんなそこまで熱心ではないから だいたい10人くらいしか集まらない。 試験が近くなると、 だいたいは薫さんと僕の2人きり。 「勉強しなきゃな〜」 なんて笑いあっていたけど、 薫さんはホルンも勉強も出来て、 いつのまにか 朝練は試験勉強する時間になった。 夏休みに近いある日 その日の朝練は薫さんと僕だけだった。 「さすがに試験の最終日は 誰もこないね」 といった僕に薫さんが笑った 「当たり前っしょ。 フツーは飯食いに行ったり さっさと帰るよ。 森くんは真面目だね」 「え?そうかなぁ。 だってこんな広いところで 思いっきり音が出せるんだよ? よくない?」 「ふふっ、 よくなかったらこないっしょ。 お互いに」 陽が傾き始めた頃、僕らは下校した。 電車は混んでいたけど、珍しく並んで座ることができた。 「薫さんは普段どんな曲を聴く? 僕はなんでも聴くけど、 クラシックならブラいちが好きだな」 「へえ、僕はブラよんが好きかな」 「ねえ薫さん、 たまにはブラいちきいてみない?」 やや上目遣いに見上げると、 薫さんは一瞬目を見開いて僕をみた。 僕らはイヤホンを半分こして、 ブラームスの交響曲第一番を 聴き始めた。 ブラームス交響曲第一番第1楽章は 重々しく始まるティンパニから始まる。 幾重にも重なり湧き上がる 弦楽器の調べが 僕の耳にするりと入り込んでくる。 あぁ僕も主旋律を奏でたい。 僕の中でクルクルといくつもの渦が 波立つ。 このうねりに練りこまれて ココロもカラダも 飲み込まれてしまいたい。 弦の旋律が僕の体内を巡る。 (あ、やばいキモチいいかも) この押し寄せる渦の中で オーボエの音に首筋を舐められながら 低音部を流れるチェロに 背中から抱きしめられたなら どんなにキモチいいんだろう。 たたみかけるような旋律の波に カラダが痺れかけた時、 急にグッと手首を掴まれハッとした。 (誰⁉︎) 横を向くと 薫さんが怖い顔で僕を見ていた。 一瞬僕は訳が分からなくて、 つかまれた腕と薫さんの顔を見比べた。 呆気にとられた僕を見て、 今度は薫さんがハッとした。 「あっ、あ、ごめん! 僕そろそろ降りないと」 薫さんはガチャガチャと 楽器ケースをひっつかんで 電車から飛び出していった。 (つづく)

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