5 / 107

第4話

新宿駅に到着しても、まだまだ太陽は出張っていた。 魔窟のように様々な線が交差している駅構内は、迷路のような複雑さだ。 それと同じように、街並みも混沌としている。 駅前には若者向けのショッピングモールなどが多数あるが、少し離れるとオフィス街があり、横道に入ると看板すら出ていない店も多くある。 明るい顔と暗い顔を併せ持ち、この街を隅から隅まで把握する人はいるのか……甚だ疑問だ。 核は空洞で、その何もないものから様々な根が縦横無尽に派生しているような そんな複雑で、根元が見えない不気味さがある。 だけど、俺はここが好きだった。 様々なものが混在している空間は、俺のような異色な人間も喜んで飲み込んでくれる。 普段はひた隠しにしている俺の本質も、ここでは開放出来る。 同性で手を握り、耳元で囁きあっても……差別的な目線を送るものはここにはいない。 普通に恋愛を楽しめて、周りの目を気にすることなくデートを楽しめる。 カラカラに乾いた砂漠にあるオアシスのような場所で、俺の砂漠のように干上がった心にも水を与えてくれる。 色んな服装の人たちが、俺の横を通り過ぎていく。 同じ場所を共有しているのに、みんなばらばらに生きている。 そんな孤独さに安心感を覚えた。 *** 駅から少し離れた雑居ビルの一角に、行きつけの『サボカフェ』がある。 少し寂れた扉を開けると、Coldplay の『Viva La Vida』がかかっていた。 感情豊かな表現力と美しくもダークな響き クリス・マーティンの声は聴いているだけで沁みてくる。 休日はそれなりに人の出入りもあるが、平日の中途半端なこの時間は閑散としていた。 カウンター席には上等なスーツを着た男が、虚ろな目でコーヒーを啜っている。 見慣れない顔だと思いながらも、その男の後ろを通り過ぎる。 横顔を見ると、40代半ばの働き盛りに見えたが……かさかさの乾燥した肌からは、生気を感じない。 手の甲に浮き出た青い血管は弱々しく、髪の毛にも白髪が目立つ。 何かを諦めたかのような悲壮感が漂い、寂れたアンティーク調の店内と釣り合いがとれていた。 いつものように奥まった窓側のソファ席に腰を落ち着けると、そのタイミングを見計らった不愛想な店員が水を運んできた。 揺れる水面に光が溶け込み、きらきらと輝いている。 そのグラスから顔を上げると、背の高い男がこちらを睨むように見下ろしていた。 最近は目尻に細かな皺が目立つが、少し長めの前髪のせいでそれが上手く隠されている。 「また、サさぼりか?」 「自主休校だって。」 そんなことを言いながら、からからに乾いた喉を冷たい水で潤す。 冷たくて美味い。 「んなことばっかしてると、単位落とすぞ?」 眉の間を狭めながら、サボさんが肩を落とした。 少し猫背気味の年齢不詳のこの人は、この店のオーナーであり、俺にとっては父親のような存在だ。 身体の関係がないのに、こんなに長く続いているのはサボさんくらいで、俺にとってここが一番安らげる場所だった。 「大丈夫。これでも真面目な学生だから。」 「……ヤリチンの癖に。」 軽く睨まれながらも、口元にはうっすら笑みがこぼれている。 機嫌がよさそうなサボさんを見上げながら、残りの水を一気に飲み干した。 煙草の匂いと珈琲の匂いが絶妙なバランスで合わさり、サボさんから漂うその香りはまるで専用の香水のように似合っている。 基本的に煙草の香りは苦手だが、不思議とサボさんの匂いは気に入っていた。 ――話、聞いてくれねえかな? そんなことを願いながら、ちらりと視線を上げる。 すると、なんだとでも言いたげな視線が降ってきた。 「誰かさんがなかなか遊んでくれないからさぁ……。」 ちらりと見上げると、眉一つ動かさずに俺を睨んでいた。 その仏頂面ににこりと微笑みかけると、ぶっきらぼうに頭を撫でられた。 「悪いな。今日は先約がある。」 断りを入れられたが、骨っぽい大きな手の平に髪の毛をまぜられて、手の温かさにほっとする。 砂羽に似た手の大きさが、砂羽に触れられているような錯覚を起こす。 ――気持ちいい……。 「あんま、羽目外すなよ?」 「はいはい。」 少し心配そうな眼差しがくすぐったくて視線をそらすと、訝し気な視線を向けられた。 「で、何にする?」 少し古ぼけたメニューは、数年前からほとんど変わらない。 いつものようにアイスコーヒーを頼もうかと思ったが、砂羽の顔がぼんやりと浮かんで趣向を変えた。 「じゃあ、カモミールティ……ミルクで。」 「眠れないのか?」 深読みしたサボさんに見つめられ、その優しさが照れくさい。 俺はへらりと笑いながら、適当に誤魔化した。 砂羽のことはサボさんに話しているし、相手がノンケの遊び人だということも知っている。 だけど、素面の状態でそんな甘ったるい話題を口にすることは出来そうもない。 「課題が、くそ多いんだよ。」 「それなら、こんなとこで遊んでる時間もねえな?」 「ここが潰れるとパパが困るから。」 「ハーブティ一杯で調子のんなよ。」 サボさんはさっさとメニューを片づけながら、目じりを上げる。 「サボさん、一緒に遊ばない?」 ちらりと視線を上げると、白けた顔でこちらを見た。 「お前に付き合ってたら、俺の身体がもたねえよ。」 「……年だもんなぁ。」 「毒入れんぞ、こら。」 「口移しなら飲んであげよっか?」 俺がそう言っても、サボさんはすごすごとカウンターの中に戻って行く。 もう俺には興味がないようで、ポットを沸かしながらがさがさと新聞を読み始めた。 その姿を見つめてから、窓の向こうの世界に目を向ける。 裏通りには人通りがほとんどなく、先ほどよりも陽射しが強い。 窓側にいるせいか……その眩しすぎる陽射しに耐えられず、ブラインドを下げた。 しばらく携帯を弄っていると、無言で机にカップを置かれた。 中身は真っ白で、ほかほかと湯気が出ている。 「頼んでないんだけど?」 「子供にはホットミルクで十分だ。」 その言葉にしぶしぶカップに口をつけると、ミルクのほのかな甘みと深みのある何かを感じた。 舌の上に残ることなくすっと消えるその優しい味に、身体の芯が暖まる。 「あ、美味い。」 「ああ。隠し味に……。」 「サボさんのミルク入り?」 「……ごゆっくり。」 ――つまんねえなぁ……。 携帯を弄りながら、誰か捕まらないかと仲のいい飲み友達に連絡を送る。 何人かに送ったが、給料日前ということもあり、ことごとく不発で誰も捕まらない。 馴染みの店に行けば誰かしら捕まる気がするが、慰めと癒しを希望している俺に、煩すぎる奴や面倒な奴は勘弁だった。 ――せっかくだし、新しい店でも開拓するかな……? 時間が経つのがやけに遅く感じる。 大きな欠伸をしていると、携帯がぶるりと震えた。 ディスプレイを覗くと、砂羽の名前が目の端に映った。 砂羽からの連絡に心躍らせながら内容を読むと、明日の飯の誘いで……さらに頬が緩む。 どうやって返信しようかと悩みながら、恋人にでもなったかのような気持ちで、何度も何度も打っては消して……を繰り返す。 早すぎる返信も変かと思い、30分そわそわした気持ちで待ってから 結局、素っ気ない返事を返した。 その文章に既読がついても、砂羽からの返信はこない。 携帯の画面をじっと睨みながら、少し冷めたカップに口をつける。 机に頬杖をつきながら、鳴らない携帯を見つめていると……だんだんと瞼が重くなった。 そのまま意識を手放して ゆっくりと目を開ける。 数分しか経っていないと思ったが、既に外は暗くなっていた。 ――あ、れ……? 目を擦りながら周りを見渡すと、空席の目立つ店内は満席になっている。 眩しいくらいの光が差し込んでいた店内も、暖かなランプが灯っていた。 しかも、薄暗い店内は、ほんのりとアルコールの匂いが漂う。 ゆっくりと身体を起こすと、背中にかけられたブランケットがぱさりと落ちる。 それを拾いながらカウンターを見つめると、サボさんが目じりに細かな皺を作って微笑んでいた。 隠し味にブランデーでも入っていたのだろうかと冷めきったミルクをくんくん嗅いでいると、机にこつんとカップが置かれた。 「サービス。」 横柄な態度で出されたカップに口をつけると、柔らかなカモミールの香りに包まれる。 冷房のせいか肌寒くなった身体にはちょうどよく、こっくりとした微睡みの時間が心地よい。 「美味い。」 一息つきながら携帯で時間を確認すると、20時を少しまわっている。 こんなところで3時間近く眠ってしまったことに驚きながら、最近の自分の乱れた生活を思い直して納得した。 昨晩は課題の提出のために完徹して、前日は溜まったDVDを片づけていた。 砂羽からのラインの返信はもちろんなく、飲み仲間から断りの連絡が数件入っているだけ。 首をこきこきと回しながら、ブラインドをそっと開けた。 窓の外の太陽はとっくに沈み、星の代わりに色とりどりのネオンが光っている。 寂れた雑居街でも、この時間になると人通りが多い。 狭い路地では、派手な格好をした女が男を惑わしている。 その姿を目を細めて見つめながら、少し冷め始めたカップに口をつける。 カウンター席には先ほどの男の姿は消えていて、代わりに男同士のカップルが肩を寄せ合っていた。 カバンに携帯を突っ込んでから、思い切り伸びをする。 よく見ると周りはカップルだらけで、独り身にここは肩身が狭い。 さっさと退散しようとカップを空にして腰を上げると、サボさんがレジに立った。 「430円。」 「はい。」 札を1枚出すと、慣れた手つきでお釣りを返される。 ささくれだらけのサボさんの手がとても好きで、この手に甘えたことは何度もある。 本当は愚痴を聞いてほしくてここに来たが、忙しい相手にわがままは言えない。 もともと彼氏でもなければ、友達でもないのだから。 本名も実年齢も知らない相手に、良くしてもらえること自体がありがたいことなのだと自分に言い聞かせて、笑顔を向けた。 「また、ね。」 名残惜しそうにその指先を見つめていたせいか、無表情な手にがしがしと髪の毛を撫でられた。 「変なのに喰われんなよ?」 「ご馳走さん。」 サボさんの言葉には返さずに、優しい笑顔に手を振って、夜の街へと繰り出した。

ともだちにシェアしよう!