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第6話

「ひゅう、大丈夫?」 透が苦笑いを浮かべながら、そう尋ねてきた。 ふわふわとした無音の世界から意識を取り戻すと、俺は電信柱に寄り添っていた。 会計を済ませた記憶もないが、気が付くと店の外にいた。 人の往来が多い路地で、俺のことを邪魔くさそうに通り過ぎ 透の顔を見ると速度が落ちる。 隣には透が膝を抱えて座っていて、背中を優しく撫でてくれていた。 ミネラルウォーターを手渡してくれたが力が入らず、蓋すらもまともに開けられない。 すべてが二重に見える世界で、透の柔らかな髪が風に揺れる。 透とよく似た砂羽の柔らかな髪を思い出し、隣に並んだ女の顔まで思い出して、感傷的な気分になる。 空を見上げると、欠けた月がふたつに見えた。 「気持ち、悪……。」 「ごめん。結構ぐいぐいいくから強いのかと思って……。」 申し訳なさそうな顔で微笑まれて、こちらが悪い気さえしてくる。 「いえ、むしろ迷惑かけてすんません。」 「気にしないで。俺が飲ませたんだから。」 「むしろ、酔いたかったんで……。」 酔って全部忘れたい。 砂羽に彼女が出来たことも、俺が砂羽のことを好きなことも全部忘れたい。 「っていうよりも、慰めて欲しかった?」 透はそう言って優しく微笑むと、俺からペットボトルを奪い取った。 そして、俺に見せつけるようにゆっくりと蓋を開けると、なぜか自分でごくごくと飲み始めた。 何をしてんだろうとその様子をじっと見つめていると、ふわりと抱きしめられた。 暖かな毛布に包まれているような居心地で、どこか懐かしさまで覚える。 そんな、ふわふわとした感覚の中 キスをされた。 生温い水が透の口内からゆっくりと注がれる。 それをこくこくと喉の奥に流しながら、薄く目を開けた。 透はしっかりと目を閉じていて、長いまつげが震えている。 この至近距離で見ても透はとても美しく、キスをされているのに卑猥さを感じないことが不思議だった。 唇に柔らかい感触はあるものの、酒でいろんな感覚が麻痺しているせいか、何をされてもそんなに響かない。 されるがまま透の行為を受け入れていると、ゆっくりと唇が離れる。 唇からこぼれた水を指で拭うと、俺と視線が重なった。 その姿すら品があって、ディープキスをされたことも忘れそうになる。 「ごちそうさま。」 そう言って身体を離すと、何かに気が付いた様子の透が大きく目を見開いた。 そして、俺と視線を合わすことなくゆっくりと立ち上がると、ぽつりと言葉を漏らす。 「つかさ……。」 「え?」 俺の名前を間違えたのかと思ったが、透の視界は俺を捉えていない。 誰だろうと振り返ると、俺のすぐ後ろに長身の男が立っていた。 全身黒い服に身を包み、透を見つめている。 針を背負っているかのようにトゲトゲしい空気を身に纏い、人に圧を与える男だった。 身体に突き刺さるような空気に耐えられず、俺はよろけながらゆっくりと立ち上がった。 まだ胃のあたりはムカムカするし、視界は揺れているけれど、それ以上にこの重い空気に耐えられなかった。 ここだけ重力が違うのではないかと思うほど、空気が重い。 ――まさか、透の彼氏……? 俺の男に手を出すな的な展開かと内心ひやひやしながらも、思考もアルコールのせいで止まっている。 怖いもの見たさに俺もその男を見つめていると、先ほどまで透を睨んでいた男と視線があった。 見られているだけで後ずさりしたくなる程、きつい印象。 『つかさ』と呼ばれた男は、透よりも随分年下に見える。 どちらかと言えば俺と年が近く見えるし、透とは毛色が随分異なる。 ――これが、透の彼氏か……? よく見れば顔立ちは整っているし、スタイルもいい。 だけど、その男から放たれる鋭さに逃げ出したくなった。 透と毛色が違うとはいえ、並べばそれなりに見栄えがするカップルだとも言えなくはない。 まじまじと男を見つめていると、透が一歩前に出る。 「つかさ。」 透が優しい声色でその男に近づくと、男は透を軽蔑したような目で睨む。 「あんたに名前で呼ばれる筋合いはない。」 腹に響くような低声でそう断言すると、今度は呆れたような表情で俺を見た。 「ってか、なんでお前がここにいる?」 ――お前って……。 「……俺?」 「この子は関係ない。店で会っただけだよ。」 透が俺を庇うように前に出ると、男は俺の二の腕をがっしりと掴んだ。 砂羽ほどではないが男も十分長身で、細身の割には力も強い。 ごくごく平均的な体格の俺は、男に引っ張られるまま身体が揺れて。 男の厚い胸板に思い切り鼻をぶつけた。 「痛っ!」 「触んな。」 俺のことなどお構いなしに透に向かって怒鳴ると、俺の腰に馴れ馴れしく手をまわす。 男が透を見る目は恋人を見る目などではなく、むしろ嫌悪感に満ちていた。 透は愛おしそうに男を見つめているのに、その二人の温度差に違和感を覚える。 ――何がどうなって、こうなった? 男と透を交互に見つめながら、この状況をアルコールに漬かった頭で整理する。 透の彼氏であるつかさという男が、なぜか俺の腰に手を回している。 整理したところで、少しも理解できない。 俺の頭の回路が馬鹿になっているのか、記憶が飛んで色々と曖昧になっているのか。 しっかりしろと自分に言い聞かせていると、男に腰をぐっと引かれた。 「行くぞ。」 「え、ちょ……おい!」 俺の言葉など聞こえていないようで、男は引きずるように俺をホールドしたままぐんぐん進んでいく。 透は傷ついた表情で立ち尽くしたまま動かないし、俺が話をつけるしかないかと仕方なく男に従った。 「俺は部外者だろ?」 「あいつと付き合ってんのか?」 「……は?」 俺の質問など鼻から答える気などないようで、一方的に質問をすると大きなため息をついた。 「趣味悪い。」 俺を見下しながらそういうと、面倒くさそうに頭をかいた。 ――透の相手が俺なのがそんなに不満か? 確かに、透の相手としては相応しくないとは自分でも思うが、そもそも付き合ってなどいない。 それに他人から釣り合わないなどと分かりきっていることを言われるのは、かなりムカつく。 酔いという勢いがあるせいか、アルコールのせいで思考が飛んでいるせいか、恐怖心よりも怒りが勝った。 「あんた、ちょっと失礼じゃね?」 「さっき堂々と路チュウしてたろ。」 俺を睨みながらそう言うと、唇を指で軽くつままれた。 さすがに彼氏の前でべろちゅうはまずかったかと俯いていると、男は煙草を咥えながら俺の様子を観察している。 檻の中にいる動物の気持ちが、痛いほど理解出来た。 「あれは、介抱してくれてたっていうか……?」 「へぇ?」 新しいおもちゃを見つけた子供のような目で俺を見ると、底の見えない不気味な笑みを見せる。 透の柔らかい笑顔とは異なり、男は笑っているのに……なぜか鳥肌が立った。 俺の頭の中で、大音量のサイレンが鳴り響いている。 こいつは危険だ。 すぐに離れろ。 しかし、まっすぐ歩くことすら覚束ない俺に、その選択肢はない。 話をうまくまとめるどころか、さらに糸を絡ませてきつい固結びになっている。 誤解の糸を解くのに、かなりの労力と時間を必要としそうなことだけは確かだった。 嫌な予感ほどよく当たるもので、男は冷たい笑みを張り付けたまま俺を見下ろしている。 「じゃあ、俺も介抱してやるよ。」 そう言って微笑むと、男の吐き出した煙が顔に当たる。 夕方に香ったクチナシの花を思い出しながら、俺は思い切り顔を歪めて全力で拒否した。 あの花は、俺に幸せを運びにきてくれたわけではない。 むしろ、不幸を運んできた。 「え、いやいや……結構です。ノーセンキューです。無問題です。」 「遠慮すんな。」 そう言って二の腕を強く引っ張られ、タイミングよく捕まったタクシーに無理やり乗せられた。

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