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第26話

砂羽の言葉を頭に並べてみても、難解な方程式のように浮いたまま…… 少しも解読できずにいた。 ――俺の気持ち、全然話せてねえし……。 分かってもらえない悔しさもどかしさ、今まで聞いたことない程冷めた声や目を思い出し、枕に顔を埋めて嗚咽を殺す。 涙が枯れるまで枕を湿らせてから顔を上げても、砂羽の思考が分からない。 昔から傍にいるはずなのに、こんなにも深い溝が出来てしまっているのを目の当たりにして…… ただ、寂しくなった。 この感情は、中学の時に砂羽にキスした時と似ている。 砂羽が遠くにいってしまうようで、俺を置いて1人で大人になってしまうようで、寂しくて哀しかった。 キスをしたら何か分かるかもしれない。 セックスしたら何か変わるかもしれない。 身体的には近づいたはずなのに、心はそれと反比例に遠ざかっていく。 離れたくなくて、近づきたくて…… 手を伸ばして触れた行為は、結局俺と砂羽の溝をより深くしている。 砂羽のことをずっとずっと見てきたはずなのに、結局何も分かっていない。 砂羽の女の好みや砂羽が視線の先に見ていたもの、俺が分かったつもりになっていたこと全部。 白昼の幻だったのではないかと思うほど脆く、粉々に消え去っていく。 ――俺の知ってる砂羽はどこ行っちゃったんだろう? でも、ひとつだけ確かなのは、砂羽が俺のことを心配してくれているっていうこと。 俺が安易に男と遊んでいると知って、あんなに怒ってくれた。 夜遅くまで俺の帰りを待って、いつもの甘ったるい顔を尖らせて、低い声で怒鳴る砂羽の姿を思い出して愛おしさを思い出した。 Tシャツの襟首は掴まれたせいでゆるゆるに伸びていて、何度も重ねられた唇はじんと甘く痺れている。 力任せに握られた青痣にそっと触れると、キスマークをつけられたみたいに甘ったるい気持ちに包まれる。 もっと暴力的に抱かれるかとも思ったけれど、砂羽の行為は全てやさしかった。 ちゃんと手順を追って、俺が痛くないよう抱いてくれた。 無視や軽蔑が待っていると思っていたのに、まさかこんな関係になるとは夢にも思わなかったから、なんだかどうしていいのか分からない。 こんなに大好きなのに、俺の気持ちは全然届かない。 もし、この気持ちを伝えたら……今度こそ俺のことを避けるのか? 確かめたいと思いながらも、砂羽の冷めた目つきを思い出して腰が引ける。 「ああ、もう!」 暗記物を一気に頭に詰め込んだ時のような逃げられない苛立ちに、俺は身支度を整えるといつもの場所へと歩き始めた。 *** 相変わらず、外は暑い。 だらだらと汗を拭うことも忘れてサボカフェに到着すると、開店時間はとうに過ぎているのに、クローズの看板が掛けられていた。 それに疑問を感じながらもゆっくりと扉を開けると、鍵は開いているのにいつもの音楽が聞こえてこない。 サボさんの具合でも悪いのかと慌てて中に入ると、なぜかカウンターに透さんがいた。 「ああ、ひゅう。いらっしゃい。」 危なっかしい手つきでニンジンの皮をピーラーで剥きながら、俺を笑顔で迎えてくれた。 そのことに首を傾げながらもカウンターに目を向ければ、サボさんが透さんの危なっかしい手元を睨むように見つめている。 「いらっしゃいって……透さんがなんでこんなむさ苦しいところに?」 「おい。」 サボさんに突っ込みをいれられながらも、透さんの隣に腰を落ち着ける。 俺の前には可哀想なまでにやせ細ったニンジンが転がっていて、分厚い皮が隣に添えられていた。 その分厚い皮をひょいとつまむと、透さんは照れたような笑顔を見せる。 透さんのはにかんだ笑顔にこちらまで照れながら、美人は特だと常々思った。 「一見さんには話してくれないっていうから、常連目指して通ってるんだ。」 「へえ。でも、準備中になってたけど?」 俺がそう指摘すると、サボさんがなぜか疲れた顔で煙草をふかしながらコーヒーを啜る。 「透のおかげで繁盛店に格上げになって、くそ忙しくなったからさぼり。」 マーキューリーでの盛況ぶりを思い出し、簡単にその光景が想像できた。 売り上げ上々の割にまったく嬉しくなさそうなサボさんの態度に、この人は本当に商売する気があるのかと疑う。 もともと愛想も悪いし、接客も得意そうには決して見えないのに、なんでカフェなんて始めようかと思ったのか、最初から疑問ではあった。 「なんか、すみません。」 透さんが恐縮しながら謝ると、サボさんは大きなため息をつく。 「っていうか……どうしてピーラーで、こんな下手くそな剥き方しか出来ねえんだ?」 「えへへ……実は初めてなんで。」 「そんなんで手伝うなんて気軽に言うな。食えるとこほとんどねえじゃん。」 ぶつくさ文句を言いながら今にも折れそうなニンジンを透さんの手ごと受け取ると、サボさんがまた深いため息をつく。 「指、切ってる。」 「え?」 サボさんの言葉に透さんの指先を見ると、人差し指の先に擦れたような小さな赤い線が出来ているのに気が付いた。 「貼っとけ。」 サボさんはめんどくさそうにバンドエイドを透さんに渡すと「もう、手伝うな」と念を押した。 それを受け取りながら、透さんは気まずそうな苦笑いを浮かべる。 「それで、サボさんのことは分かったんですか?」 「うーん、はぐらかされちゃった。俺の素性は大分しゃべったのに……。」 「サボさんも勿体ぶらずに教えてあげればいいじゃん?」 「俺はお前と違って軽くねえよ。」 「おっさんのくせに勿体ぶりやがって……。」 「透の勘定はお前につけとくから。」 「えー?今、金欠なのにー……。」 そんな話をしていると、透さんが俺の腕に気づいてみるみる青ざめていく。 「ちょっと、何これ?」 透さんの興奮した言葉にサボさんも身を乗り出して俺の腕を見ると、眉間に深い皺を刻みながらこっち来いと手招きされた。 湿布を貼られ、仰々しく包帯まで巻かれて、俺は大人しくサボさんの手つきを見守る。 「相手は選べって散々言ってんだろーが!」 サボさんが珍しく声を荒げながら、俺の額をこつんと殴る。 いつもよりも大分手加減した拳に苦笑を返しながら、透さんが痛々しいものでも見るように俺を見守っている。 「見た目ほど痛くないけど……。」 「腕だけ?身体は平気?あっち切れてんじゃない?」 そう言うと、俺のベルトを緩ませようとする手つきに、慌てて腰を引いた。 ここで尻を突き出して傷の具合を確かめられるなんて、羞恥プレイもいいところだ。 「大丈夫。腕だけだから……。」 そう言って透さんを宥めたが、透さんの怒りは治まりそうもない。 「っていうか、相手だれ?うちの店に来たら蹴り飛ばしてやるのに……。」 そんな物騒なことを真面目な顔で言いながら、俺の身体をぺたぺた触って傷の具合を確かめている。 いつもの柔らかい顔を般若に変えて、据わった目で俺を見つめる透さんの顔に苦笑いを返した。 「あー……えっと、砂羽とセックスしちゃった。」 そうおどけて言うと、2人はあからさまに固まった。 「え?砂羽くんって……片思いのノンケくんだっけ?」 「そうそう。」 「ノンケなのに……したの?っていうか、襲われた?」 「あはは。」 曖昧な笑みを返すと、サボさんが深いため息をつきながら煙草を銜えた。 「ノンケはやめとけって言ったろ?」 「分かってるんだけど、分かんねえんだよ。」 そう言って項垂れると、サボさんにぐりぐりと頭を掻き混ぜられた。 「お前、バカだもんな?」 「中卒のサボさんには言われたくない。」 「何度同じ説教しても学習しねえ馬鹿よりはましだ。」 そう冷たくあしらうサボさんに対し、透さんが苦笑いを浮かべながら頭をぽんぽんと撫でてくれた。 「まー……賛成はしないけど、気持ちは分かるかな?好きな人に迫られたら、拒めないもんね。」 仕方ないなぁと俺のことを甘やかしてから、ふわりと花が綻ぶように優しく笑う。 「がんばれとは言えないけど……。」 そう言って目を細めると、肩を優しく抱かれた。 甘く麗しい女性的な顔立ちの透さんの長い腕に抱きしめられ、まるであやすような優しい手つきで背中を撫でられる。 額を肩に擦り付けて背中に手を回すと、意外にも骨格のしっかりした広い背中に驚く。 見た目は華奢で儚げな印象の透さんも、俺より身長も年齢も上の大人であることを改めて認識させた。 「慰めてはあげる。」 その色を含んだ声に顔を上げると、その甘い顔に捕食者の顔を滲ませているのを見て、俺は透さんの胸から顔を離した。 「……エロい。」 「え?」 「透さんが言うと、なんかエロい。」 俺がぶつぶつ言いながら、サボさんに出されたオレンジジュースをちびちびと飲む。 「ああ。俺にエロい慰め方してほしいの?」 「いや、砂羽で間に合ってます。」 俺の言葉に少し笑うと、透さんも紅茶のカップにそっと口をつけた。 「んー……でも、ひゅうは弟みたいな感覚だし、セックスするのはちょっと抵抗あるかな。」 ――ちょっと抵抗がある程度……なんだ。 俺みたいなお子ちゃまは、ぺろりと頭から喰われそうだと思いながらも、透さんの綺麗な指先を見てふと疑問に思った。 見た目や仕草は女性のように上品なのに、時折感じる男っぽさに危うさを感じる。 「透さんって、どっちすか?」 「え?俺は抱かれるほうが多いかな……。ノンケに遊びの延長でってパターンが多いかも?」 「やっぱり!」 ネコ仲間じゃないかと透さんの手を握ると、意味深に微笑まれてなぜか寒気がする。 「ここも最近はヘテロが増えてるからな……。うちの店にもヘテロカップルが覗きに来るし、いい趣味してるよ。」 「昔は違った?」 「化け物だらけ。」 そう言って昔を懐かしんだ表情で笑いながら、器用な手つきでキャベツの千切りを仕込み始めた。 「やっぱり、ゲイが多かったんだ?」 「ここも観光スポットみたいなもんに変化してるしな……。見世物じゃねえのに。」 鼻に皺を寄せて不快な表情を浮かべるサボさんに、苦笑いを浮かべながら反論する。 「でも、ここに来てるってことは偏見ないってことだろ?ならよくない?」 「それはそうかもしれねえけど、下ネタで引くくらいのガキなら最初から来るなよって俺は思うけど。」 「サボさんは排他的だよなぁ。どうせわざと生臭ーいネタ振ったんだろ?」 「俺の店なんだから、客も俺が選ぶ権利がある。」 「……どっちがガキだよ。」 傲慢なセリフに笑いながら、サボさんらしいと透さんも笑う。 「今はバイが増えてるのかな?」 「昔は化け物しか寄り付かなかったのになぁ……。」 「サボさんみたいな?」 「そうそう。お前みたいな淫乱尻軽ばっかだった。」 サボさんが投げやりそう言うと、透さんがちらりと俺に視線をなげてふわりと微笑む。 その色っぽい姿に赤くなりながら、透さんのことをちらちらと見つめる。 「透さん、ネコなのにたまにネコっぽくないっすよね……。」 「あー……実際、抱くほうが好きだし。別にネコ専門なわけじゃないよ?」 「え?」 その言葉に驚いて身体を引くと、透さんは俺と鼻がくっつくくらい顔を近づけて、にこりと笑う。 「ひゅうはバリネコでしょ?」 「え?あ……まあ。分かりますか?」 「喋ってると分かるよ。甘えんぼだし、かわいいもの。」 こんなきれいな顔した人にかわいいと褒められても、苦笑いしか返せない。 「透さんも甘えんの上手そうですけど?」 「俺のは仕事。」 そうさらりと答えると、甘い笑顔で俺の手にすらりと綺麗な手を重ねた。 今度甘えたら喰われそうだと思いながら、透さんを上から下までじっくりと見つめる。 どう見てもネコにしか見えないのに、なんだか男っぽいのはこのせいだったのかと思いながら、奥深いなぁと透さんを見つめる。 「なんか、透さんが大人。俺と大して変わんないのに……。」 そうぼやくと、透さんは複雑な表情で微笑む。 「うーん、俺に夢見てるとこ悪いけど……ひゅうより10くらい上だからね?俺。」 「……え?」 「今年31歳になるし、もう普通に大人だよ。」 そうあっけらかんと笑いながら、上品な仕草でカップに口をつける。 「まじ?」 「やっぱここは化け物が住む街だなぁ。」 サボさんは最初から知っていたのか、大して驚くこともない。 一定の小気味いいリズムに乗せて、大量のキャベツを刻み終えていた。

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