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第1話

十年ぶりに訪れた祖母の家の玄関では、何と声をかけるのが正解なのだろうか。 貴之(たかゆき)は、軒下に張られた複雑な模様の蜘蛛の巣を見つめながら思案していた。 ただいまというほどの自宅感覚はないが、こんにちはというのも他人行儀すぎる。 決めかねたが、暑さから逃れたい一心で、とりあえず無言で玄関の戸を引いた。すると、貴之の小さな逡巡を吹き飛ばす、嵐のような喚き声が飛び出してきた。 「返せや阿呆!」 「阿呆言う奴が阿呆なんですぅ!」 「阿呆言う奴が阿呆って言う奴がもっと阿呆なんですぅ!」 子供特有の高い声が全力で言い合うのに混じって、「ケンカすんな!」と若い男の怒鳴り声も聞こえてくる。暑い中その喧騒に立ち向かう気力が沸くはずもなく、貴之は結局挨拶を諦め、無言のまま靴を脱いで家に上がった。 「あっ……(たか)にぃっ?」 居間に続く障子戸を引くと、途端に嬉しげな声に迎えられた。茶髪の青年が、満面の笑顔でこちらを見ている。その両手には、小学校低学年と見える三人の少年の襟首がしっかりと掴まれていた。 青年をよくよく見れば、ふわふわとカールした髪や、つんと上を向いた唇が、遠い記憶の中の面影に重なる。 だが、そのあまりの変わりぶりに、貴之は思わずすっとんきょうな声を上げてしまった。 「お前、慶太(けいた)か!?」 『貴之兄ちゃん』を縮めた『貴にぃ』というあだ名で呼ぶのは、八つ年下の従弟の慶太しかいない。十年前はまだ蝉取りに興じる小学生で、夏になると訪れる貴之をとても慕ってくれていた。 だが今目の前にいるのは、溌剌としたエネルギーが透けて見えるような、貴之の目には非常に魅力的に映る青年だ。十年という月日をまざまざと見せ付けられ、懐かしさよりも驚きが勝って感覚がついていかない。 だが、ゆっくり時間をかけてその違和感を埋められるような状況ではないらしい。冷房の効いた居間の畳の上には、足の踏み場もないほどノートや絵日記帳が散乱しており、さながら学級崩壊した寺子屋のような有様だった。 「兄ちゃん誰なん?」 ようやく慶太に襟首を解放された少年が、不満そうに唇を尖らす。 「従兄の貴之君が来るってばあちゃんが言ってただろ。ほらお前ら挨拶しろ」 パンパンパンっとリズムよく後頭部を叩かれたよく似た三つのふくれっ面が、一斉に「こんにちはーっ」と口を開いた。 「もしかして、弟か?」 「うん、三つ子だよ。小学二年生」 貴之にはいつのまにか従弟が増えていたらしい。 同性にしか恋愛感情を抱けない人間なのだと親族にばれて以来、気まずくて疎遠になっていたから全く知らなかった。 祖母が「そろそろお迎えが来そうだから会いたい」と電話をくれなければ、下手をすると永遠に会うことは無かったかもしれない。 ちなみにその祖母は、元気に畑に出ていて留守だということだった。 「慶太、今年二十歳だっけ。学生?遊びたい年頃だろうに、弟の面倒みてるなんて偉いな」 言ってから、子供相手に話すような口調になりすぎたかと焦る。ブランクが長すぎてうまく切り替えができないのだ。 だが杞憂だったのか、慶太の表情はパッと輝いた。 「うん、名古屋で大学生やってるよ。寮暮らし。貴にぃ……貴之君と一緒で、俺もさっき着いたんだ」 久々の再会を喜んでいると表情でわかるが、貴之君と言い直した時には瞳が戸惑いに揺れていた。 それは当然のことだ。小学生と高校生だった従兄弟同士が、大学生と三十路間近の社会人になって再会して、自然に接することができる方が不思議だろう。 だが、そんな微妙な空気に頓着せず、貴之のTシャツの裾をぐいっと引っ張る手があった。 「いとこのたかゆきくん、頭ええん?宿題できる?」 さっきまで喧嘩していたはずの三つ子が、きらきらとした目で貴之を見上げている。子供たちに、気まずさを味わっている大人の気持ちなどわかってもらえるはずがなかった。 「これやってぇ」と三つ子が出してきたドリルや絵日記は、八月三十日だというのにものの見事に真っ白だ。しかも、工作も自由研究もまだだという。 祖母に挨拶すらできていないが、これはもうタイミングが悪かったと諦めるしかない。貴之は嘆息し、従弟たちの輝かしい夏休みの尻拭いに取り掛かった。 祖母が作ってくれた夕食すら作業しながら食べて、慶太と二人がかりでようやく全ての宿題が片付いたのは、草木も眠る丑三つ時だった。 慶太は冷たい畳に縋りつくように、ぐったりと倒れ込んでいる。 聞けば学費も生活費も自分で払っているため、毎日寝る間を惜しんでバイトに励んでいるそうだ。見た目には大学生活を謳歌していそうなタイプだが、なかなかの苦学生らしい。 あの小学生だった子がなぁ、と思うと非常に感慨深い。 健康的な足が薄いハーフパンツから覗く様は貴之にとって目の毒ではあるが、それ以上に、純粋に従兄として慶太を労ってやりたい気持ちになった。 「頑張り屋のお兄さんや、奢ってやるからビールでも飲もうぜ」 そう言って腰を上げたが、畳から起き上がった慶太は難しい顔をしていた。 「それは嬉しいけどさ、貴之君。ビールどこに売ってるか覚えてる?」

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