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残業 布地 菜の花

「すみません、遅くなってしまって。──其方(そちら)は?」 真っ直ぐ此方に向かって来る誠が、爽やかな笑顔を向ける。 しかし、それは初めて見る表情で。一見優しそうでありながら、ガラス玉の様な黒瞳の奥に、その一切が感じられない。 「……渡瀬、さ……」 掴んだ布地から手を離し、一歩後退りながら繋がれた手を離そうと引く。 ……けど、それを許す筈も無くて── 「……誰だよ、お前」 振り返った悠が、剥き出しにした敵意を誠に向ける。威嚇した低い声で。 それに臆する事無く、誠は柔らかな物腰ながら、僕とそう変わらない背丈の悠に近付き、笑顔で見下ろす。 「誰でも、良いじゃありませんか。 ……それより、公の場で随分と大胆な事をされるのですね。 僕や周りにいる方から見れば……貴方は明らかに不審者です。 ……どうされますか?  彼、随分と嫌がってますが……まだこのまま続けます?」 「……!」 誠の言葉に突き動かされ、悠が辺りを見渡す。 何事かと、行き交う人々の好奇な目、目、目── 悠の手が、緩む。 するりと滑り落ち……ぶらんとぶら下がる。 その悠の指先が、大きく震え出す。 「行きましょうか」 「……」 じん、と痺れた僕の手を、誠の大きな手がそっと拾う。 驚いて顔を上げれば、そこには僕の知ってる優しい笑顔に戻っていて…… 「……」 誠にエスコートされながら、振り返る。 しかし、先程までそこにいた悠の姿はもう無く。 残ったのは──指間に食い込んだ、マリッジリングの痛みだけ…… 「……すみません」 隣から降ってくる、憂いを帯びた柔らかな声。 「仕事が長引いてしまったせいで……嫌な目に遭わせてしまいました」 申し訳無さそうに眉尻を下げ、僕から視線を逸らしながら、気まずそうに瞬きを数回する。 綺麗に整った、その横顔から感じるのは哀愁だけで……先程の緊迫した雰囲気は、もう何処にも見当たらない。 「………いえ、」 答えながら、僕も俯く。 光沢のある白いフロア。視界の下部から見え隠れする、自身のスニーカー。その光景を、ぼんやりと眺める。 「……」 まだ、指先が痺れてる。 悠の時とは違った感情が、重なった手のひらから流れ込んでくるようで──熱い。 ※改稿に伴い、菜の花がどうしても入りませんでした。

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