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飛翔 16

すぐに俺の気配に気づいた紫音が振り向いて、少しだけばつが悪そうに微笑んだ。 「黙っててごめんなさい」 「紫音…どうして……」 「ハル先輩に言ったら、絶対反対されると思うと言い出せなくて…」 「違うよ!そんなことじゃなくて、なんで……」 何でかなんて、聞かなくても分かってる。でも、それ以外言葉が見つからない。 「ハル先輩の期待に応えられなくてごめん。でも、俺にとってはバスケよりも、ハル先輩の傍にいることが大事だから…」 「そんな…駄目だよ紫音!俺なんかの為に将来棒に振っちゃ駄目だ!」 「ハル先輩はなんかじゃないです。俺にとって一番大切な人なんですから」 紫音が少し寂しそうに言った気がしたけど、今の俺の耳には紫音の言葉は入ってこなかった。紫音には本来の道に戻って欲しい。そのことしか考えられない。 「紫音ごめん。俺が…紫音に寄り掛かりすぎたせいだ。もう俺は大丈夫だから。今ならまだ間に合うかもしれない。紫音の実力なら編入認めてくれるかもしれないから、戻るんだ。俺、紫音の夢を叶えたいんだ…」 「ハル先輩ごめん。俺は星陵に行く気は全くない。だって、ハル先輩は、俺の夢、知ってるでしょ?」 必死に言い募ったけれど、紫音は頑なだった。 あの日、文化祭の日に語り合った事は忘れない。俺が語った夢は、もう叶わないだろうけど、紫音は可能性に満ちている。ちゃんと叶えて欲しい。一時の気の迷いなんかで、脇道に逸れちゃいけないんだ。 「忘れる訳ない。紫音の夢は星陵に行けば叶うじゃないか!ここにいたって、誰も注目してくれない。プロになんかなれないよ。紫音は、こんな所で埋もれてちゃいけない!」 「じゃあハル先輩は?ハル先輩は埋もれてていいんですか?ハル先輩こそ、プロになりたいって言ってたじゃないか」 「…俺はもう無理だよ。分かるだろ?」 お遊びのバスケは出来ても、本格的にやれるとは到底思えなかった。 …身体じゃなくて、気持ちの面で。 自分とバスケを許そうと、好きになろうと努力しているけど、そう簡単に割りきれるものではない。 あの男に植え付けられた記憶とトラウマは、そんなに簡単になくならない。 それは紫音だって分かっている筈だ。 「ハル先輩がバスケできるようになるまで、俺が傍で支えますから」 「俺はもういいんだ。言っただろ?紫音に夢を託すって。紫音には、自分の為に時間を使って欲しい。ちゃんと夢を叶えて欲しい」 紫音は視線を下げて考え込む様に沈黙していた。わかって貰えたのかな…。 これで、紫音は星陵に戻ってくれるかな?紫音なら、きっと受け入れて貰える。紫音程の実力のある選手はそういないから、あっちだって、紫音が欲しい筈だから。 毎日一人で寝るのも、紫音と頻繁には会えなくなるのも、本当は不安で仕方ない。 あいつの夢に毎日苛まれるのではないか。紫音といれば忘れられていた記憶が蘇って、心の均衡を失ってしまうのではないかと、本当は怯えている。 でも、紫音には紫音の人生があるのだ。 輝かしい未来が待っているのだから。 こんな弱い俺なんかが振り回していい存在じゃないんだ。 頭の中で悶々と考えていたら、紫音が決意を秘めた様な顔付きで口を開いた。 「ハル先輩。俺は、バスケよりもハル先輩の方がもっと大切なんです。あの時も言いましたよね?ハル先輩とずっと一緒にいたいって。それが、俺の夢なんです。ハル先輩と離れて、一人でプロになったって、意味がないんです」 てっきり、星陵に戻ると言うのかと思っていた紫音の口から想像もしていなかった事を言われて、暫し頭が働かなかった。 紫音はあの時確かにプロになると言った筈だ。プロになって、俺のチームメイトになるって。 星陵に入るために、キャプテンとしてすごく努力してたのも知ってる。 それは全部プロになるっていう夢を叶える為じゃなかったのか? 紫音にとって重要な事は、俺といることだって言いたいのか? その為に、星陵を、プロを目指してたと…? でも、そんな、とても信じられない。 だってあの頃は俺たちはただの友達で、俺は紫音の想いに応える所か、気持ちすら気づいていなかった。 そんな相手と一緒に生きることが夢だったなんて、そんな事有り得ない でも、もしそれが本当なら、俺は…。 「そんなの、嘘だ。俺に気を遣わせない為にそう言ってるんだろ?」 本心を隠して予防線を張ると、すぐに紫音が真っ直ぐ視線を合わせた。 その瞳から目が離せない。 「嘘じゃない。本当です。あの頃からずっとこの気持ちは変わってない。俺、あの頃はハル先輩に振り向いて貰えるなんて思ってもなかったから、ずっと友達でもいいって思ってました。それでもいいから、ずっと傍にいたいって。ハル先輩の事が、好きで好きで、どうしようもないんです。心底愛してるんです。俺に、これからも傍でハル先輩を支えさせてください。共に歩かせてください。隣に、いさせてください」 紫音の声は、最後の方はまるで懇願する様な調子で、さっきまで信じるのを恐れていたのが嘘みたいに心が震えた。 紫音は本気でそう言っているんだ。 本気で、俺と一緒にいたいって…。 紫音に、こんな事まで言って貰って、もう強がることなんて出来ない。 だって、俺は心の奥底では、紫音がここに来てくれたことが嬉しかった。 俺だって紫音が好きで、愛していて、支えて欲しくて、いつでも隣にいて欲しい。 本当は一人で立つことなんて出来ないくらい俺はボロボロだ。せっかくあいつから逃れても、病院や薬の世話にならずにはいられない位、既に壊されていた。 でも、これまでずっと紫音がついていてくれたから。 俺が自分を愛せない分も紫音が愛を注いで、ずっと支えてくれていたから、真っ直ぐ歩いてこれた。 分かってた。紫音が思う以上に、俺が紫音を必要としているって。 もう、自分の気持ちに素直になりたい。 俺は、紫音に傍にいて欲しい。 「紫音…っ」 松葉杖を放り出して、紫音の胸に飛び込んだ。 紫音の暖かくて力強い腕は、今にも崩れ落ちそうな俺を確り支えてくれた。 俺はこれまで、どこかで紫音に遠慮していた。俺なんか相応しくないって、いつもいつも思っていた。 紫音は、いつだってその手を無条件に差し伸べて、俺を全力で支えようとしてくれていたのに。 「春、聞いてもいい?」 紫音が静かにそう言ったから、胸に埋めていた顔を上げた。紫音は、すごく真剣な顔をしていた。 「俺と、ずっと一緒にいてくれる?」 あぁ、思い出した。 あの文化祭の日、俺は紫音にそう言われたけど、結局何も答えなかった。 今度こそ、ちゃんと答えなきゃいけない。 強がりも遠慮もなしの、俺の本当の言葉で紫音に応えたい。 「俺も紫音とずっと一緒にいたい。ずっと俺の傍にいて」 これが、ずっと言えなかった俺の望みだ。紫音の腕に力が籠った。 「当然です。離してって言われても、もう離しませんから」 「いいよ。ずっと離さないで…」 また紫音の腕の力が強くなって、苦しい位だったけれど、俺も負けじと紫音の背中を強く抱いた。 初めて素直な自分を晒け出したら、紫音の愛情がこれまで以上に真っ直ぐ届いた。 俺は、こんなにも紫音に必要とされていたんだ。全部投げ出せる程、愛して貰っていたんだ…。 「紫音、俺さ、紫音にはバスケを続けて欲しい」 徐々に腕の力がお互い緩まって、自然と身体が離れてからそう言った。 紫音が俺に語った夢は、プロになることじゃなかったけど、紫音がどれくらいバスケを好きか、俺は知ってる。 プロになりたいという気持ちだって、ない訳ではないと思う。 「俺はバスケやめませんよ。ここで続けます。宮原先輩は弱小チームだって言ってたけど、俺達で強くしましょう。ハル先輩が隣にいてくれたら、俺、何だってできる気がするんです」 「紫音…でも、俺は…」 「俺が全力でハル先輩を支えます。大丈夫。ハル先輩は絶対戻って来れる。また、俺とバスケしよう?俺達が組めば、怖いものなしですよ。あの星陵にだって、きっと勝てる。有名になれば、プロにだってなれる。俺と二人でなら、ハル先輩の夢も叶えられる。そう思いませんか?」 紫音の力強い言葉と前向きな笑顔につられて、俺も紫音と一緒なら何でもできる様な気持ちにさせられた。 すっかり諦めていた筈の自分の夢さえ、こんなに近く見える。 バスケ…したいな。 紫音と、バスケしたい。 あの頃みたいに、紫音とボールを追って、コートの中を自由に駆け回りたい。 紫音となら、きっと大丈夫。 紫音の肩ごしに、2羽の鳥が、広い空を大きな翼を広げて翔んでいくのが見えて、思わず目で追った。 紫音も振り返って、二人でそれを仰ぎ見た。 俺は脆いけど、紫音が、あの鳥に負けないくらい立派な翼をくれた。 まだ上手く操れないし、翔び方だって忘れてしまったけれど、紫音がずっと一緒なら、何も怖くない。 比翼の鳥みたいに、紫音と二人で高く高く、何処までも翔んで行きたい。 霞んでいた未来は、今では紫音の光で明るく照らされ、希望が溢れている。 俺はもう、一人じゃない。

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