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第1話

「完璧だな」  無音の部屋に男の声が漏れ出た。その声には確かな満足感がにじみ出ており、完璧という言葉を裏付けている。  思いのほか大きな手と長い指が器用に茶こしを扱い、粉砂糖を雪のように降らせていく。出来上がったカスタードアップルパイの姿は白粉で美しさをほどこした女のようだ。卵黄の効果で艶々と光っていたパイの表面が白い粉砂糖の働きでところどころマットに変化していく。  パリっとした食感のあとにバターの旨みと香りが広がる自作のパイ生地は自信作であり評判もいい。  砂糖を控えめにした林檎のコンポートはアップルティーと僅かのジンジャーが隠し味だ。林檎の酸味とぴりっとした風味は大人にこそ合う味だろう。そしてもったりとした質感に仕上げたカスタードクリームがコンポートを包み込む。  それぞれの食感と香りは複雑に絡み合い、食べた人の口のなかで幸せに変わっていく。  2ホールのアップルパイをそれぞれケーキスタンドに載せて、いつもと変わらない美しい出来に満足した男は僅かに頷いた後、コーヒーを落す準備を始めるのも何時も通りの行動だ。 「今日は吹田さんの日か」  コーヒーの粉をすくいあげようとした動きがとまる。 独り言を言うことにも慣れた。つねに自分と一緒にいるのは自分なのだから、言葉を口に出して頭が無言の返事をする。逆のこともしかり。  あの時綺麗だと感じたのはなんだったろうか?そう考えると、その後に「あれは……そう、四十雀の黄緑色の羽の色だったじゃないか」そう口が返事をしてくれる。  独り言は自分の中にもう一人の自分が存在している証、そんな考えが根付いたのはいつの頃だろうか。孤独だ、寂しいと感じても人間が兎のように死んだりしないのは、このおかげだ。 自分を大事にすれば、自分が守ってくれる。 その考えに納得したのか、止まっていた手が動き出した。余計に一人分のコーヒーの粉を足し、二人分のコーヒーがコーヒーメイカーにセットされ、コポコポと熱い湯気をたてはじめる。 男に知り合いがいないことを心配してなのか、突然いなくなることを恐れてなのか、毎月末日に吹田は家賃の回収にやってくる。 「振込みますよ」  そのたびに男は言うのだが、返事はいつも同じだ。 「ついでですから」  ついでであるはずがない。ここは街中から離れた丘の上で、周りにはポツポツと何軒かの家があるだけだ。ヒマワリの種を置いておけば野鳥やエゾリスがやってくるし、道を挟んだ向こうの林には鹿がいて冬になれば群れて走る姿を見ることができる。さすがに熊の姿を見たことはないが、棲んでいることは間違いない。  札幌と聞いて思い浮かべる大通公園やテレビ塔、煌びやかなすすきのといったイメージとはかけ離れた場所だ。むしろ北海道を思い浮かべる情景に近い。大都市のはずれに存在する、とある場所。 夏はともかく、冬は雪で覆われた坂を登ってくる必要があるのに吹田は回収のためだけにここに来る。「ついで」と言えば、相手に気を使わせない。そんなことを本気で信じているように。  それを言ったらこの店に来る客も同様だ。愛想のない40代半ばの店主が一人しかいない店に通ってくるのは相当の物好きだろう。  客の目的は店主ではなく、自慢のアップルパイだ。多少の手間や時間をかけても食べたいと思わせる店を支える屋台骨。 男は手をかざしてアップルパイの温度を確かめる。切り分けるにはまだ早いと判断したのか、ナイフに伸ばした手をゆっくり引っ込めた。完璧な仕上がりが最後のカットで台無しになるのは避けたいだろう。  そんな時、ガタピシガタピシという音が坂の下から聞こえてきた。男はケーキ台のアップルパイから窓の外に視線を向ける。 聞こえてくる音は優秀な車が絶対にたてない類のもので、ポンコツを表現するために効果音として使われるようなガタガタというエンジン音。しかし持ち主にしてみればこの音すら愛おしいのだから仕方がない。手放すことなく手入れし大事に乗り続けている。車体の低さから轍の間に乗り上げてしまう冬には乗れないし、エアコンは熱風を吐き出すから夏にも適していない。  プスンと音をたててエンジンが止まった。シルバーの色がくすんでマットなグレーに見えるルノーのキャトル。ふざけたミニチュアのバスみたいな姿の車は持ち主の愛情を一身に受け、なんとか命を繋いでいる。  知能をもった車が登場するアメリカのドラマのように、大事にされたら車にだって人格ができるかもしれない。そんなことを考えて、男は薄く微笑んだ。  カランカラン  銅製のドアベルが心地よい音をさせて、吹田の来店を告げた――男と吹田の月に一度繰り返される顔合わせ。

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