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第2話
「こんにちは」
吹田の挨拶は最後の「は」にアクセントがくる。幼稚園の先生が子供にする挨拶のようで、自分より年上の男にするには間が抜けていた。挨拶をしっかりするように親にしつけられたのか、持っている真面目な性格が反映しているのか。そう考えると自分の挨拶は随分適当だ。その対比に男の頬が緩む。
吹田は自分にむけられているのが笑顔だと思ったのか、ニッコリ笑い返した。男の笑顔と心情は吹田が望むものとは質が違っているが、何事も事実を突きつけて全てが正解にはならないのが世の常だ。だからそういうことにしておくのが一番……ということもある。
「振り込みますよ」
「黒田さん、気にしないでください。ついでですから」
もはや挨拶と化したやりとりをしながら、結局二人とも笑顔のままだ。
吹田は差しだされたコーヒーを嬉しそうに眺めた後、ゆっくりとカウンターにすわってカップに手を伸ばす。開店まで1時間、日付も時間も狂うことがない月の終わりの日。
男――黒田はもう一度アップルパイに手をかざし、納得したように頷いた。アップルパイをケーキ台からまな板の上に移動させてカットを始める。勢いよく迷いなく包丁を入れて6等分すると、皿の上で綺麗に映える姿に変わった。
「食べますか?」
「いいえ、甘いものは苦手です」
吹田の黒縁眼鏡の奥に見える一重の目は少しだけ茶色い。カジュアルだがちゃんとしたジャケットとパンツ、シャツはいつも白。ネクタイ姿だったことは一度もない。真逆のトレーナーやジャージは想像もつかない。
穏やかで柔らかい面差しと雰囲気。年齢は31……今年で31歳になりますだったか?何れにしても10歳以上離れた年齢は黒田にとってとても遠く感じる。
日本においては普通の見た目だが、外国にいったら10代だと思われるだろう。日本人が若く見られるのは何故だろうか。ああ、肌だな……肌理の細かさとしなやかさは独特だ。
不動産収入で暮らしていると、金の心配をしなくていいから穏やかになるのだろう。黒田自身、金に困っているわけではないがまったく質が違う。黒田のいる場所は一般人と比較すること自体がバカバカしい、そんな所に位置している。
この店には「ナポリタン」「カレー」「アップルパイ」しかフードメニューはなく、あとはコーヒーと片手間でできるドリンクが数種類だけ。
よほどテーブルが埋まっている場合以外、黒田と向き合うカウンターに座る客はいない。ここまで客に愛されていない店主はいないだろう。気詰まりな会話をたどたどしく続けるくらいなら背中を見ているほうが何倍もいい。それが黒田と客のだした結論だ。
「鳥が来る季節になったんですね、1年は早い」
窓の外にある鳥籠をみているのだろう。白樺の木の葉が黄色く変わりはじめる頃に黒田は真鍮の鳥籠をナナカマドの木の枝にぶら下げる。
出入り口を取り払った鳥籠の中に園芸フィルターを置いて、ヒマワリの種を入れる。野鳥が自ら鳥籠に飛び込んでヒマワリの種を咥えて飛び去り、また舞い戻ってついばむ。
最初はなかなか中に入らず、鳥の警戒心は流石だと感心したが、最初の一歩を踏み出せば簡単。なし崩しに数種類の野鳥が群がることになり、1ケ月3kgのヒマワリの種が消えてしまうのだから驚きだ。
自ら籠に飛び込みエサを喰らう。
自分も似たようなものだ。違うのは喰らったあとに金を手にすることだ。野鳥は腹をみたすだけで、金は必要としていない。
生きるだけなら食べていけるだけの食い扶持があればいい。それなのに、多くを望むのは何故だろう。それは金のためにしているわけではないからだ。
自分の奥底にある欲求はどす黒く渦巻いている。店主に収まっている時には考えないようにしている事が姿を現しそうになり、熱いコーヒーを飲み下した。
「歳をとるだけ過ぎ去る時間の速度が速くなりますよ。吹田さんはまだまだでしょう?」
「そんなことはありませんよ。このまま何歳まで生きていくのだろうかと。退屈な毎日です」
退屈と聞いて黒田は不思議に感じた。そもそも退屈というのは平穏を過ごしているからこそ生まれるものだ。平穏という呑気で穏やかな時間を失ってどのくらいたっただろうか。
吹田は窓の外に目をむけたまま何かを考える振りをしていた。いつにも増してつとめて黒田の顔を見ないようにしている。月に一度の対面は少しずつギクシャクし始めており、その理由はわかりすぎるほどだが、黒田から触れることはしない。隠そうと必死になっている相手を前に自ら穿り返すことに意味はないからだ。
「吹田さん。雪が降るようになったら大変ですから、振込にしますよ」
「……それは、ここに来るなということですか?」
吹田は頑なに窓の外に目をやっている。無表情を装った静かな横顔。わずかに赤い頬が内面の葛藤を隠しきれないまま晒している。いっそ背中を向けてみればいい、楽になりますよ。黒田はそう言ってやりたくなったが、結局は黙って横顔を見続けた。
「来るなとは言っていませんよ。大変でしょう?という私なりの気遣いだったのですが」
「家賃は払ってもらわなくてはいけません」
「踏み倒す気はありませんよ」
吹田は残ったコーヒーをすべて飲み込み座ったときと同じくゆっくりと立ち上がった。
言いたいことがあるのに言えない。言ってしまえばもう逢えない。逢いたいから言わない。
言葉は残酷だ。口から発しなくても見えてしまえば吐きだしたのと同じ。
吹田の父親が亡くなり、引き継ぎのために初めてここを訪れた時から14ケ月がたった。今日で14回目の対峙。交わす言葉は少なく、視線が合うこともそれほど多くはない。それなのにどんどん透けて見える吹田の心は容赦がなかった。
吹田は黙って立っている自分の姿が黒田の心に楔を打ち込んでいることを知らない。
とうに失った存在が燻りだす。かつての自分と、愛おしい存在は今はもうなく、吹田の姿にその残像を見てしまうたび、黒田の心は狼狽えるのだ。
「あなたの気持ちは丸見えです」そう言って手を差し出した先に起こること。それは楽しい事よりも苦痛を生み、与えるのは恐怖と嫌悪しかない。それは同じだけ黒田に跳ね返り、更なる後悔を生み出すだけだ。
『何も知らずにいれば、ただの失恋で終わるのだから……それが一番いい方法だ』黒田はそっと心のなかで呟く。かつてそう言うと決めたのに言えなかった言葉を。
吹田はフウと一つ息をつき、しっかりと黒田を見詰めた。表面が溶けてしまうのではないか。そんな心配をしてしまう程にゆらゆらと揺れる瞳。
心を映し出す鏡は二つの瞳。自分ともう一人の自分両方に突き刺さる視線。平然と見返しながら、黒田の心は悲鳴を上げる。研ぎあげた切れ味のいいナイフでスパっと横に切り付けられたようなその感覚は、黒田が最も嫌だと感じるものだ。切る側であれば問題はない、しかし自分が切られることは負けたことになり失敗というおまけが付いてくる。そして黒田は生きる場所を失うことになる。それはもっとも避けるべき事だった。
この世界に居座り続けることが、再び繋がる切っ掛けになるかもしれない。そんなかすかな希望も長い年月の為か少しずつおぼろげになりつつあった。
「来月も伺います。コーヒーご馳走様でした」
吹田は14回目の同じ言葉を残して出ていく。
カランカラン
何時もと同じ、キャトルのガタガタした音と共に消えていった。黒田が忘れたいと願うくせに、結局は忘れることを嫌がっている事を自覚する「残像」それを残して吹田は消えていく。
しかし黒田の心は血を流さない。流すような人間であったのはとうの昔……そう、昔のことだ。
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