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第3話

14:00を過ぎればランチにくる客はほぼいなくなる。この時間になってようやく黒田は自分の面倒をみることができるようになる。 朝はアップルパイにかかりきりになるからコーヒーしか飲まない。具沢山の味噌汁を口に入れたほうが身体にいいことはわかっているが正直面倒だし、朝いちばんに吸い込むコーヒーの香りは捨てがたい。 46歳の男が味噌汁の匂いをさせてアップルパイを焼く姿は減点ものだろう。だからたぶん、このままずっとコーヒーを飲むことになる。毎朝味噌汁を作ってくれるような存在は黒田に不似合いだ。そして傍にいられると困る、色々と困ることになる。 ナポリタンに使うピーマンがくたびれてきたから賄にまわすことにして冷蔵庫を漁る。まだオカラは充分ある。野菜炒めで野菜をたっぷり食べることにしよう。冷蔵庫から豚肉を取りだし、海草と寒天を水でもどす。 ボウルにオリーブオイルと穀物酢を適当にいれて泡だて器でいっきに撹拌すればドレッシングができる。少しだけ醤油をたらしコショウを加えた。酢と油が乳化してトロリとしたしょうゆ風味のドレッシング。もどした海草と寒天をそこに入れて混ぜ合わせればサラダが完成した。 キャベツとピーマン、モヤシ、えのき、まいたけ、えりんぎ。それを切りわけ野菜炒めに仕上げる。野菜炒めにしては肉が多すぎるが問題ない。もちろん強火、大蒜を少しと生姜のスライスを加えて風味をつければ塩コショウで充分だ。仕上げに香りづけのゴマ油。 最後にふわふわのスクランブルエッグを作れば、朝昼兼用の食事になる。 黒田は炭水化物をとらない、そして糖質はできるだけ摂取しないことにしている。 しなやかに動く身体は必要不可欠だし、内臓機能はもちろん血圧を含め体内をメンテナンスしなければ支障をきたすからだ。この食事に切り替えてから体は軽くなり、コンディションがすこぶるいいから辞めるつもりはない。店のメニューにあるナポリタン、カレーはもちろんアップルパイも食べることはしない。他人のための料理だから、別に食べたいとも思わなくなった。 客が来ればオーダーをこなし、合間合間に食事をとる。食べ初めから終わるまで誰もこないこともあれば、中断される時もある。まともな食事はこれが最初で最後。20:00にクローズして仕事が引けた後に赤ワインをグラスに3杯、つまみはチーズとローズマリーをたっぷり入れて仕上げた鶏胸肉のコンフィ(もちろん皮なし) ネットの回線はないから手紙と電話以外、黒田に接触するすべはない。手紙は一か所からしか届かないから外部との接触は極めて少ない。 店に必要だったため電話は手配したが、もちろん黒田名義の回線ではない。そして吹田が知っている名前は偽りのものだ。 吹田は黒田に対し漠然とした不確かさを感じていて、突然姿を消すのではないかと心配になるのに月末日にしか確かめることをしない。一度だけ聞いたことがある。「お客さんで来てくれてもいいのに吹田さんは来ないですね」と。 「理由がないから」という返事を自分で言っておきながら、その事実に気がついて傷ついていた。家賃回収という名目以外、接点がないという事実。 何これとなく考える事の中に、ちらほら紛れてくる吹田の存在。それは黒田にとって厄介で、燻る心と狂おしい想いと後悔を焙りだす。吹田の歳と近いからかもしれない、30歳を超えた姿はいったいどう変わっているだろうか。 あの日々。共に過ごした時間を思い返すのはくすぐったくもあり温かくもある。まだ自分に人並みの血液が流れていることを知るのはいいことなのだろうか。それとも弱点だろうか。 黒田は答えを得られないまま、グラスにワインを注いだ。

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