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第19話
「呆れて物も言えません」
「言っているじゃないか」
黒田は悪戯を成功させた子供のように、自分が大家の男に与えた不意打ちを喜んでいた。大人の悪ふざけはタチが悪い。琴巳はため息をつきながら考えた。あの男はどんな気持ちで車を運転しているのだろう。
黒田に最後の最後までからかわれ、相手にされていなかった事に落ち込んでいるだろうか。それとも怒っているだろうか。
「人は自分の常識の範疇を超えた事実を嘘だと切り分けるものだ。真面目で、ある程度の大人になれば尚更だ。会社員と答えたところで、それは答えにならない。であれば最後くらい本当のことを言ってもいいだろう」
「柾さん、俺は貴方の傍にいていいのですか?」
「当たり前だ、何を言い出す」
「あんなあしらい方をされたら、立ち直れない」
「私は嘘をたくさんつく、それが仕事だから仕方がないが、琴巳には嘘をついたことは無い、これからもそれは変わらない」
琴巳の複雑な表情は割り切れない想いをそのまま現していた。黒田に対する想いは大家の男と一緒だ――琴巳のほうが長い時間温めたもので、より強かったとしても。
だから同情してしまうのだ。これからあの男は黒田を忘れようと努力するはずだ。それは新しい恋をする以外に達成できない高いハードルになるだろう。琴巳は新しい恋を見つけることを放棄し、ただひたすら見えない黒田の背中を追いかけた。それ以外方法を見つけられなかったし、黒田を忘れるつもりもなかったから。
優しく柔らかい普通の男だった。新しい恋を見つけられるといいな、琴巳はそう心の中で呟いた。
「車を呼ぼう。やくにたつむせん、だったか」
「役に立つ無線?」
「空港で広告を見て、ここを発つときに乗ろうと決めていたタクシーだよ。792-6000。メモも何も必要ない。子供でも覚えられる」
電話を掛けている黒田の背中を見ながら、琴巳は考え込んだ。一度見ただけで数字の羅列を記憶するくせに変なゴロ合わせを持ち出した。先ほどの大家とのやりとりといい、もしかして黒田は浮かれてはしゃいでいるのだろうか。もしそうだとしたら……琴巳の顔がいっきに赤くなる。
通話を終えて電話を置いた黒田は、その様子を認めて琴巳を抱き締めた。
「そのとおりだよ、私は高揚している。久しぶりに気分がいい」
頬を包まれ視線が絡み合う。
「さあ、行こう。我々の初仕事だ。よろしくプランナーさん」
「こちらこそ、伝説のシューターの腕前に期待しています」
がっちりと交わされる握手は二人の間に必要ない。交わされた口づけこそが二人の証と契約だ。互いを守りアンジェリカに挑む。
スーツケース一つの黒田、アタッシュケース一つの琴巳。すっかり外は陽がおちて真っ暗だ。街頭の白い光の中で木はすべてチャコールグレイに染められている。
「来たな」
「ええ、役に立つ無線はハイブリッドじゃないらしい」
黒田は満足してうなずき、琴巳の背中に触れる。そこにある確かな存在が自分に与える影響と力に感謝し、より強くなったことを素直に喜んだ。
完璧だな「ああ、完璧だ」『二人とも喜んでいるな、そうだろう?』
現れたのは3人目の自分だった。黒田は理解した、この僅かな間に自分のメンタルがさらに重厚になったことを。まだまだ高みに昇って行くことができることを。
その期待感に打ち震えながら黒田は一歩踏み出した。
強さとしなやかさ、シンプルで隙のない男は、新たな武器を手にして歩き出す。強さの源を従えて。
私情も悪くない。そう考えながら。
END
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